鍵の世界
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死体ごっこ・二つの月・何故ならカカシさんには
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イルカじゃないよ、クジラだよ。
遂に死体ごっこに飽きてしまったイルカさんが退屈そうな声でそう言い返したのをきっかけに、二人は今までずっと、クジラとイルカの違いについて語り合っていました。生き物を分類した上では、クジラとイルカの違いはその大きさでしかなかったという初歩的なことから、お互いのデータに残っているクジラとイルカの詳しい生活のありさままで全部です。
随分と長いこと話し合っていたので、この話題の発端となった雲はもうとっくに形を崩してどこかに行ってしまいました。今はくっきりとした真っ青な空が果てしなく広がるばかりです。
イルカさんとカカシさんは、三十年と十一ヶ月と五日、死体ごっこをしていました。最初は砂漠で死体ごっこをすると酷くロマンチックだとイルカさんは提案したのですが、死体ごっこをしている間にきっと砂に埋もれちゃうし、そうなったらつまらないから嫌だなとカカシさんが反対したので、こうしてエアポートで死体ごっこを続けていたわけです。
エアポートは二人でそう名付けただけで、そこが本当は何なのか分かりません。岩や鉄やその他の様々な物が、とても高い温度でとても高い圧力をかけられてぺしゃんこになったような感じで、地面は黒くてツルツルのピカピカです。そしてともかく見渡す限りの広大な一枚板の地面のそういった区域を、二人はエアポートと呼んでいるのです。そしてそのエアポートで、二人は三十年と十一ヶ月と五日、死体ごっこをしていたのです。
始めの内は、イルカさんもカカシさんも本物の死体のようになっていました。二人並んでツルンとした硬い地面に寝そべり、手を胸の上で組んで目を閉じ、ぴくりとも動きませんでした。強い日差しや雨風に晒されても、自分達が本当に死体になってそのまま土に還る最中なのだと言わんばかりに死体ごっこに夢中になっていました。
けれど、一年ほど前にカカシさんが死体ごっこに飽きてしまいました。空を流れる雲を見て、その形を何かに見立てて口にするようになったのです。
キリン、サメ、チョウ、ネズミ、リュウグウノツカイ。
死体は喋らないはずなのに!と、最初イルカさんは憤慨して無視を決め込んでいたのですが、今日遂にイルカさんは死体ごっこに飽きてしまい、イルカじゃないよクジラだよ、と反論したのです。
三十年と十一ヶ月と五日ぶりの会話はとても弾みました。だから二人はずっと空を見上げたままクジラとイルカについて語り合っていたのです。
空はどこまでも青く、美しく、背中に感じる硬くて冷たい地面はツルツルしていてとても気持ち良いです。吹き荒ぶ風が砂漠から砂を運んで来ますが、その砂も新たな風によってまたどこかに運ばれていきます。
「そろそろどこかに行こうよ」
と、カカシさんは提案しました。
風の歌に耳を澄ませ雲の芸術に感心することは飽きる云々以前に彼の日常の一部と化していますが、それでも流石にもう旅を再開させたくなったのです。
それに、彼等には目的があります。死体ごっこを三十年と十一ヶ月と五日続けていた彼等にも、ちゃんとした目的があるのです。
「東へ行く?」
ふーと溜息を吐いてから上半身を起こし、イルカさんは砂埃を払いながらそう訊ねました。
「あの山に向かってみようよ」
カカシさんも身体を起こし、遠くに芥子粒のように見える山を指差して答えます。
二人はのろのろと立ち上がって一度だけ大きく背伸びをすると、三十年と十一ヶ月と五日ぶりに歩行を始めました。
また、イルカさんとカカシさんの長い旅が始まります。
この星には、青い空と白い雲と砂漠とエアポート、その他に少しの山と海があります。太陽はひとつですが小さな月が三つあり、極稀に雨が降りますし、冬になると雪が降ることもあります。最も珍しいのは虹で、イルカさんとカカシさんは今まで、虹を五回見ました。二千年近く旅をしている間に、五回です。本当にとても珍しいことなので、虹が出ると二人はとても喜びます。
しかし、刺激というものはそうちょくちょくやってくるものではありません。二人の目に映るものはそのほとんどが、見渡す限りの砂漠、エアポート、空、それだけなのです。
だからと言って寂しくはありません。イルカさんにはカカシさんがいるし、カカシさんにはイルカさんがいます。ただちょっとばかり退屈なだけです。
「地下にいるんだよ、きっと地下に生き物がいるんだ」
イルカさんがコツコツとエアポートの地面を踏み鳴らしてそう言いました。今まで何度この可能性を……イルカさん自身の強い望みを口にしたか分かりません。
「地下に入る入口があれば良いんだけど」
カカシさんは毎回同じ返事をします。
「入口を探すんだ。きっとあるよ」
その返事に対するイルカさんの返事も毎回同じです。
二人の想像はこうです。
二千年以上前は、この星には生き物が溢れておりました。二人にインプットされている様々な生き物は、実際に存在していたというわけです。野を駆け海を泳ぎ空を飛んでいたわけです。それから、ヒトもおりました。特にヒトは地上に溢れんばかりに増殖し、この世の支配者のように振舞っていたかもしれないと二人は考えております。
しかし、ある時異変が起こりました。それは天変地異だったかもしれないし、ヒト同士の戦争だったかもしれないし、あるいは、異星人がやって来たのかもしれません。細かいことは分からないけれど、とにかく異変が起きたのです。
そして、地上は生き物が生きていくには適さない場所になりました。陸地も海もです。
だからヒトは地下に自らの生きる場所を移動させました。地下の奥深くに空間を作って、そこでクジラやキリンなど他の生き物と一緒に暮らしているのです。地上を捨てて地下という新たな楽園を得て、生き物はそこでのびのびと暮らしているのです。きっとそこには色とりどりの植物が繁殖し、その植物を食べる昆虫もおり、魚も悠々と泳ぎ、鳥も舞っているのです。
二人はそう考えています。
そう願っています。
二人が地下に希望を寄せているのには、理由があります。それは、そもそも二人が目覚めた場所が地下だったということです。今から二千年前に二人は地中奥深くの、小さな小さな半球体の空間で目覚めました。その小さな小さな空間の中で、一体ずつ、とても頑丈な箱に入れられていたのです。そして二人は上に向かって手で穴を掘り続け、三十年かけて地上に出たのです。
だから二人にとって地下とは自分達が生まれた場所、つまりはいずれはそこに還って行く場所だと、何となく考えているのです。
「今日は殺人事件ごっこをしよう! カカシ、お前、死ね」
手で銃の形を作って、イルカさんはカカシさんを撃つ真似をしました。
「ばきゅーん!」
「うわー、やられたァー」
カカシさんが律儀に倒れると、イルカさんがその身体を担ぎます。
「くそ、何て重い死体なんだ。これから死体を隠滅せねばっ」
本当はちっとも重くないくせに、イルカさんは本当に重いものを背負っているかのようにのたのたのたのたと歩きます。やがて日が傾いて二つの月が昇っても、まだのたのたと歩き続けます。カカシさんは死体になったままです。
イルカさんは時々独り言を呟きました。「早くしないと死体が腐ってしまう」とか「よもやこの男が犯人だったとは」とか「警察機構から逃れるためにあのルートは使えないんだ」とか、そういった類のことです。どう考えても犯人はイルカさんのはずですが、そんなことお構いなしでカカシさん殺人事件のストーリーを楽しんでいます。そして、イルカさんが何か呟く度にカカシさんは笑うのを必死で堪えなくてはならないのです。
三日後、やっとイルカさんは休憩することにしました。
カカシさんの身体を地面に置いて「ごはん食べよう」と誘います。すると死体だったカカシさんはむくりと起き上がって、エアポートの地面の上に指先でフライパンと鍋の絵を描き始めました。
「御注文は?」
と、カカシさんが訊ねます。
「豚の丸焼と牛の丸焼きをください」
「原始的なやつ? こう、吊るしてあるようなやつ?」
「違う。大きなフライパンで焼くんだよ」
「そんな料理ないよ」
「良いんだよなくたって。俺が今考えたんだ。創作料理ってやつなんだから」
イルカさんが胸を張って主張するので、カカシさんは言われた通りにフライパンを大きなものに描き直しました。牛と豚は両方同じフライパンで焼かないと良いダシが取れないと言い張るので特大のフライパンを描きます。描き終わるととイルカさんが火の舞とやらを踊ってフライパンを熱し、カカシさんがフライパンの上に豚と牛を描きます。
「良い匂いがしてきたぞ」
イルカさんが鼻をひくひくさせながら言いました。
勿論匂いなんてしません。そもそも二人は、互いの匂いと砂漠の匂いと海の匂い、雨の匂い、火山の匂いくらいしか知らないのです。けれども、イルカさんは料理を作ると毎回そう言います。そしてそれが料理が出来た合図となっています。
カカシさんが皿を描き、その上に切り分けた肉を描きます。ナイフとフォークも描いたけれど、今日はそれは必要なかったようで、イルカさんが手掴みをして肉を持ちあげるふりをしました。
「いただきます!」
口を大きく開けて噛み千切り、咀嚼して嚥下するふりをします。
「ごちそうさまでした!」
「凄く早いですね。不味かったですか?」
「いいえ、とても美味しかったです。ただ俺は凄く大喰らいの上に早喰いなのでした。だからペロリと平らげたのです」
ペロリと平らげたという言葉を文字通り解釈しているイルカさんは、満腹を示すようにお腹をさすりました。カカシさんもそれに倣って、ペロリと平らげたふりをしました。
それからバキューン!とイルカさんが言ったので、カカシさんはまた死体になります。殺人事件ごっこが再開されたのです。
死体はとっくに腐乱しているだろう頃、正確に言えば殺人事件ごっこが始まり丸々一週間が経過した時にエアポートが終わり、砂漠が始まりました。それだけ時間がかかったのは、確かにそこは二人が知っているエアポートの中でもかなり広い場所でしたが、実際はイルカさんが大変のろのろと歩いた理由が大きいはずです。死体を担いで歩いているという設定だったので仕方ないようですが。
「ここまで来ればもう安心だ。おい、起きろ。追っ手は巻いてやったぞ」
と、イルカさんは言いました。
今は殺人事件ごっこでカカシさんは死体だったはずですが、どうやらいつの間にかお話が変わったらしいです。
クスクスと笑いながらカカシさんが起き上がると、イルカさんがポイと何かを放り寄越すふりをしました。何だろうと思ったらシャベルだと言います。死体を隠すための穴を掘ると言うのです。しかし実際にはシャベルはないので、イルカさんは手を使ってわっせわっせと穴を掘りはじめました。勿論カカシさんはそれを手伝います。
二人で大きな穴を掘りました。砂漠で穴を掘るのは意外と難しいのでかなり手古摺った模様ですが。
「ここに埋めてしまえば、きっと誰も気付かないだろう。お前は一万年後くらいに未来人に見つかって、研究対象とかにされちゃうんだ。生前の報いだ、諦めな。最後に言い残すことはあるか?」
カカシさんはペラペラとよく喋るイルカさんを見ながら、よくそんな台詞とお話が思いつくものだと毎度のように感心しました。そして、特に言い残すことはないと言いました。
バキューン!とイルカさんが言ったので、またカカシさんは死体になります。イルカさんはせっせとカカシさんの身体を穴に入れて、その上にせっせと砂を被せていきました。被せ終えるとふうと溜息を吐き、汗を拭うフリをします。
「愛深き故に愛を捨てた、哀しき男よ」
どこか遠い目をしてイルカさんは寂しげに呟き、その日はカカシさんが埋まっている砂の上で一晩過ごしました。二つの月がとても綺麗な夜で、イルカさんは大層満足しました。
翌朝、せっせと砂を掘ってカカシさんを助け出したイルカさんは誇らしげに宣言しました。
「もう大丈夫だ。最後の敵は俺が倒した!」
どうやらカカシさんは一人二役だったみたいです。
カカシさんの砂を払ってやり、イルカさんは怪我の手当てをするふりをしました。
「こんなに酷い怪我を。おい、痛くないか?」
自分が重傷を負っている設定ということを悟って、カカシさんは少し大袈裟に痛がってみせました。カカシさんの身体はイルカさんの身体よりもずっとずっと頑丈で、イルカさんが傷を付けられないエアポートに傷を付けて絵を描くことができるくらい多機能です。それに元々痛覚がほとんどないと言ってもいいくらいです。けれどもカカシさんは頑張って、大袈裟に痛がってみせました。
イルカさんはくしゃりと顔を顰めて、大急ぎでカカシさんの手当てをするふりをします。切ったり縫ったりしているようなので、恐らく手術でもしているのかもしれません。しかし途中で我に返ったような顔して、ポツリと漏らしました。
「気分が出ないから、ちょっとここ切ってよ」
イルカさんが指を差した部分は腕だったので、カカシさんはそこを指でひっかきます。イルカさんは何か不思議な言葉を使ってその傷に手をかざしました。
「何してんの?」
「魔法で治してるんだ」
銃を使ったり魔法を使ったり、イルカさんは大忙しでオールマイティな主人公のようです。
傷口はみるみるうちに塞がりましたが、それは当然イルカさんの魔法のおかげではなくカカシさんの自己治癒能力のおかげです。けれどもそんなことイルカさんには無関係で、自分の魔法によって傷口が塞がったと大変満足したようでした。
とてつもない大仕事を一人でやり遂げたかのように、イルカさんは大の字になって寝転びます。カカシさんもその隣に寝転びました。
何もない世界を見下ろす青空はあまりにも健全で、あたかもそれが正しい世界のありようなのだと言わんばかりです。生き物などなにひとつ存在しないのが、正しいと。
「カカシの顔の傷は、どうして治らないんだろう」
ふと思いついたようにイルカさんが呟きました。もう何度も話し合ったことでしたが、二人はたまに同じ話題を繰り返すのです。
「イルカの顔の傷と同じだよ。これが特徴というものなのだと思う」
「個の特徴」
「そう、しるし。きっと俺達を作ったヒトにとって、このしるしはとても大切なものだったんじゃないのかな。俺達には個体識別番号も製作者のサインもないのに、この傷だけはこんなに大きく、はっきりと付けたんだから」
カカシさんは自分の目の上を縦に走っている傷を指でなぞりながら、そう言いました。
イルカさんは自分の鼻の上を横に走っている傷を指ななぞりながら、新しい魔法の呪文を考えていました。