死神はいつものように、擦り切れた黒いローブを身に纏っていた。
目深に被ったフードの下には、干からびた浅黒い皮を頭蓋骨に張り付けただけのような痩けた頬とそれに似付かわぬ高い鼻、それから針金のように大きく曲がって笑みを作っている唇がある。死神がフードを外せば落ち窪んだ眼孔の奥で異様にギラギラと光る黒い目が現れるだろう。いつも何かに飢えているように、酷く目をギラつかせている男だから。
「俺も一仕事終えたところでね。当分はガランドから離れて身を隠すつもりだったんだ」
椅子に腰掛けた死神は、奇妙に長細い指を組んでそう言った。
ローブの袖から垣間見える不吉な細さの手首には、見事な装飾を施された黒曜石の呪具が嵌められている。
「アンタ最近デカイ仕事を立て続けにやりすぎてたから、まぁどこか安全な場所で骨休めでもしてれば良いじゃない?」
「この世に安全な場所なんてないさ」
「そりゃそうだけどね」
先程俺に客人に何か飲み物を出せと命令された天使が、不貞腐れたような顔で俺と死神に珈琲を差し出した。死神がチラリと天使を見遣り、その手の甲にくっきりと浮かぶ呪印に目を留める。それから俺に視線を戻し、針金のように曲がった口元の笑みを更に深くした。
俺は激しい優越感に浸りながらも死神の無言の揶揄を無視する。
「で、今回のアンタの仕事って何だったの?」
「レザックの娘を攫うお仕事さ」
「レザックって銀の戦車のナンバー2の?」
「そう、そのレザック。バモンドは天涯孤独だがレザックは妻子持ちだからな。馬鹿な男さ、政府に歯向かう組織の上層部に所属しながら何故妻子なんぞ持つのかね。こうなることは目に見えてるってのに」
「同意だね」
話を進めながら天使の淹れた珈琲を口にすると、それは作為的としか言いようがないほど苦かった。俺の天使は本当に可愛いと苦笑を漏らしながら酒はあるかと訊ねると、今度は明らかに外に放置したままだったらしき温いビールを持って来る。冷えたものがあればそれを持って来いと命令すると、やっとまともなビールを運んで来た。
「カカシ、お前にしては随分と甘いじゃないか」
珈琲には手を付けなかった死神が、冷えたビールに手を伸ばしてグラスに注ぐ。それから、どんな良い女でも舐めた真似をされりゃ容赦しなかったのに、と続けた。
確かに今まではそうだった。具合が良さそうな人間を支配して好き勝手ヤって飽きたら捨てる。死神の言うように少しでも舐めた態度を取ったなら容赦しなかったし、運悪く俺の仕事を知ってしまった奴は殺してきた。
しかし性欲を吐き出すために使っていた今までの人間と、俺の天使を同列に語って欲しくない。
俺はテーブルの上に身を乗り出し、声を潜めて秘密を打ち明けた。
「コイツはね、天使なんだ」
言葉にするとまた優越感に襲われる。コイツは俺の天使だ、俺だけの天使なんだ。
死神は暫くグラスを持ったまま固まり、それからグラスを置いてまじまじと天使を凝視した。天使は自分の正体を易々と他人に漏らしたことに怒りを感じたのだろう、真っ赤になって俺を睨んでくる。
「羽は?」
「もがれたらしい。跡がある」
「証拠は? 羽をもがれた跡だけか?」
俺は死神に昨日の顛末を語って聞かせた。呪具もなしに張られた長時間の黄金の結界、その後に張られた神領結界、驚異的な生命力と回復力、羽がもがれた跡。そして天使が、自分が天使だと認めたところまで。
俺はあれから一晩中天使の身体を貪りまくった。何も考えることなくひたすらに天使を犯すことだけに没頭し、幾度も精を放ち、肉に歯を立て、むしゃぶりつき、天使の中に俺という存在を刻み続けた。空が白むまで気がふれるほどその身体を貪欲に欲し、それから天使に呪印を施すことにした。
それは光上の役で開発されたと言われる最古の最高位呪術の中のひとつで、一方的に契約を行うものだった。いくら天使といえどもその呪印が付けば逆らうことなど出来ず、俺の命令は絶対となり、天使は完全に俺のものになるのだ。
それを知っていたのだろう、息も絶え絶えだった天使がまた神領結界を張って抵抗した。その時の結界は天使の身体を覆う程度の範囲しかなかったし、すぐに消えたのだが、俺の呪具を壊すには充分だった。俺は諦めず、諦めるわけもなく、他のの呪具を取り出して再度呪印を刻もうとした。しかしそれも阻止された。それから同じことを三度繰り返した。
金に換算すればそこらの小島など丸ごと買い取れるだろう呪具の数々を失っても、惜しいなんてまるで思わなかった。そんなものより天使なのだ。俺の天使なのだ。
天使は俺が呪術言を唱えるとそれに反応し、なけなしの力を振り絞って数秒だけ神領結界を張る。俺はそこに目を付け、意識を朦朧とさせながら必死で抗う天使を完全に手中に収めるため、隙を突いてもう一度その首を掻っ切った。
勢い良く血が噴き出すと天使の身体が痙攣し、天使の意思とは関係なくその身体が回復と修復に向かう。そしてその瞬間に俺は残り僅かな呪具を使い、遂に呪印を刻むことを成功させた。
肉を焦がしながら手の甲に呪印が深く刻まれていくと、天使は子供のように泣きながら殺せ殺せと喚いた。それどころか俺のサブナイフを奪って自害を試みた。しかしその時既に呪印は刻み終わっており、つまり一方的な契約は終わっており、俺の命令で天使はナイフを手放した。
完全に俺のものとなった天使を抱き締め、俺はまず名を問うた。天使は頑強な意思を示すかのように唇を固く結んだが、言えと命令すると漸く名前を教えてくれた。
イルカ。
支配下に置かれた身体は不屈の精神を裏切り、あっさりとそう告げる。天使はたちまち顔を歪め、これでもかというくらいに大きく口を「への字」にして顔を叛けたが、俺はやっと天使の名を知ることが出来て舞い上がらんばかりに喜んだ。そして何度も何度もその名を呼んだ。
イルカ、強情なイルカ、俺が支配する俺だけのイルカ。
名を呼べば呼ぶほど愛着は増し、イルカの存在全てが愛おしく思えた。
戦場でもここまで結界やら呪術やらを連発したことはなかった俺は酷く疲れていたしイルカの衣服の問題もあったので、その後、日が昇る前にイルカの家に行くことにした。
イルカの家はキノコみたいな形をした平屋の小さな一軒家で、この森の外れにあった。レイルートの中心である集落から少し離れていたし、周囲に人家もなく、イルカは一人者のようで他に誰もいなかった。隠れ家としての条件が揃っていたので俺は暫くここに滞在することにした。
イルカに命令する。
自害及び自傷行為をしないこと。俺に危害を加えないこと。俺のことを他人に喋らないこと。それから、いつも俺の傍にいること。
どうせなら人格を消して人形のようにすれば良いとヤケクソ気味に叫ぶイルカに、それはしないと断言し、シャワーを浴びて狭いベッドに潜り込み、いつまでもグズグズと泣いているイルカを抱き抱えて寝た。
俺はイルカの気性の激しさをとても気に入っている。人間ども等比べ物にならぬほど手がかかる所に強い愛着を覚えている。抗い続けるその不屈の精神をこの上なく愛しいと感じている。だからイルカはイルカのままで良いのだ。
昼まで寝て目が覚めると飯を作らせたのだが、イルカは家にある砂糖を全てブチ込んだかのようなとんでもない料理を作った。できるだけ美味いものを作れと命令し直すと、今度は憤怒の形相でとても美味いリゾットを作った。足を踏み鳴らしてテーブルの上に料理を持って来るイルカは本当に可愛くて、腹が膨れると俺はまたイルカを抱いた。
幾ら掻き抱いても幾ら精を放っても欲望はぬめった蛇のように頭を擡げ、俺はどっぷりとイルカに溺れた。その身体を知り尽くす為にありとあらゆる場所に舌を這わせ口内を貪り、愛らしい舌に噛みつきながら射精する悦楽に浸った。
イルカの身体は俺を拒み続けたが、それがまた俺を滾らせた。命令に叛けないイルカは俺を傷付けることは出来なくとも、抵抗することは出来る。そして俺は抵抗するイルカを力で征服するのだ。手を縛り足を縛り、罵詈雑言を吐くイルカを思う存分犯すのだ。
屈辱と羞恥に燃えるイルカが唇を噛み締めてスンスンと鼻を鳴らして泣き始めたところで死神から連絡があった。レイルートに到着したと。
「神領結界とは恐れ入るね。伝説の類じゃないか」
細長く奇妙な指を絡めて手を組み、静かに俺の話に耳を傾けていた死神が興味深そうにイルカを見上げた。
いつものようにケダモノの如くギラつくその目は好奇心が大半を占めていたが、その視線がドス黒い糸となりイルカに絡みつくようで俺は眉を顰める。
「イルカは俺のだよ」
俺と死神は、互いにこの世で唯一認め合うことが出来る存在だ。しかしイルカを共有しようとは思わないし、想像するだけでそれは絶対に許せないことだった。
「随分と執着してるじゃないか」
死神は俺に言葉を返しつつもイルカから目を離さない。蜘蛛の糸のような死神の視線に怯え、イルカが一歩後退る。
「飽きたら殺さず俺に回してくれれば良い」
不自然なほど唇を大きく湾曲させながらそう続けた死神の言葉に、イルカが更に後退る。
死神に性欲はない。随分昔にそれは失われたのだと本人から聞いている。しかし死神は誰よりも残虐で誰よりも研究熱心だった。こと光上の役やその時代に関することは。
災いを感じさせる笑みに畏れ慄くイルカの腕を掴み、自分の方に引き寄せた。
「飽きるわけがない。これは天使だ、俺が死ぬまで天使は俺の傍にいる」
「ではお前が死ぬのを待とう」
死神は禍々しく嗤う。