匣の世界 
惨禍を運び、人々の命をその大鎌で刈り取っていく

 スコープを覗きながら風向きと距離を計算して標的に照準を合わせる。
 バイポッドで安定させた銃のストックを握る己の手の状態を確かめ、人差し指をトリガーにかけた。
 手に汗などかいていない、勿論震えてもいない、悪い予感に鳥肌が立っているわけでもない。むしろ今日は暖かな春の日差しのおかげで指がかじかむこともなく風もほとんどない絶好の狙撃日和で、弾丸が標的の眉間をブチ抜くことを確信し自然に笑みが漏れるほどだ。
 呼吸を整えて強く集中する。
 標的が足を止め支持者らしき老婆に話しかけた。胡散臭い笑顔を浮かべて親和感情を抱かせるために腰を折り曲げ、老婆の肩に手を乗せようとしたところで護衛に何かを言う。護衛が苦言を呈したようだが、標的は頭を振り、老婆を含む支持者との触れ合いを優先したいという意思を伝えたらしい。護衛が標的の周囲に張っていた結界を解いた。
 情報通りだ。
 標的は老婆と何やら話し込み、それに満足すると屈めていた腰を伸ばした。護衛が結界を張り直そうとするのを手で制し、次の支持者に声をかけようとする。その際、標的は老婆と視線を合わせるために負担をかけていた己の首筋を労わるように、少しだけ顎を上げた。
 その瞬間、俺はトリガーを引く。
 弾丸の回転運動すら見えるようだった。それは理想的な弾道で標的の眉間に向かい、そして標的の脳漿をブチ撒けさせた。



「カカシ。今回のアレ、お前だろ? えらい騒ぎになってるぜ」
 仕事を終えてからまだ三日、尻尾を掴まれるような間抜けなことはしてないが念のために主回線は閉じていた。しかしこの秘匿回線を閉じるのは忘れていた。
「久し振りじゃない。アンタ今、どこにいんの?」
 正規軍の身形をしているので何をしていようがそうそう怪しまれるものではないが、他人に聴かれるわけにはいかないので道から逸れ、草木が生い茂る鬱蒼とした森に分け入って行く。
 通話に夢中になり気付いた時には囲まれていた、なんてことが起こらぬように気を付けなくてはならない。そのため視覚・聴覚・嗅覚などの感覚器官はいずれも良好な状態に保たなければならないのだが、だからこそ正規軍のヘルメットにアタッチメントとして取り付けられているこの骨伝導システムは非常に都合が良かった。これなら通話をしていても聴覚に支障はない。
「ガランドの南方、ハザク。お前は?」
「ハザクの南西。レイルートって辺境の地」
「へー。で、今回のアレはお前の仕業なんだろ? 反政府武装組織用特殊部隊司令官狙撃事件」
「よくそんなスラっと新聞の見出しみたいなこと言えるね。俺なら間違いなく舌噛むわ」
 暫く談笑しつつ蜘蛛の巣や藪を掻き分け森の奥に進んで行くと、やがて静かな沼に出た。今日の曇天の空、それから様々な草木が無秩序に生い茂り多くの影を作るこの森に相応しく、そこはやけに陰気な沼だった。透明度などないに等しく、周囲に蔓延る薄汚れた苔や蔦に似た色を持つ澱んだその沼は、時を忘れたかのようにどんよりと眼前に広がっている。
 沼の脇に蔓を纏う一際大きな大木があり、それに背を預けて一息吐く。それから周囲を見渡し、誰もいないことを確認してから三日前の件を簡潔に語った。
 標的は反政府組織―銀の戦車―に対抗するためだけに作られた特殊部隊を総合指揮している司令官だった。各地に火種が絶えぬと言っても政府の目下の敵はこの銀の戦車であり、司令官はただでさえ政府内外からの注目度が高かったのだが、その上近頃の銀の戦車は過激なテロを連発しすぎていて民衆からも反感を買っている。司令官は銀の戦車に反発するそれらの民衆をも味方につけ、まるで政治家のように振舞い始めていた。
 その最たるが、自らの正義を主張するために遊説し、わざわざ結界を解いて民衆と触れ合う例のパフォーマンスだった。
「人気取りに精を出していた割に、どこかで誰かの恨みでも買ったのか」
「いや、単に銀の戦車からの依頼」
 そう応えた時、頭上で微かな物音がした。
 即座に結界言を呟いて結界を張り、目を細めて慎重に様子を探ったが誰かがいる気配はない。
「奴等は相変わらず過激だな。でもそのおかげで俺達はたんまり儲けることができる。もっと憎しみ合い、もっと殺し合えば良いんだ」
 誰かがいる気配はない。しかし念のために銃を取り出し、一歩下がって再度目を凝らす。だがこんもりと茂った大木の先に何があるのか、もしくは何もないのか、ここからは見当も付かない。鳥だと思うが一応登ってみるか。
「カカシ、聞いてるのか?」
「聞いてるよ」
「近くにいるんだ、久々に会おうぜ。俺がそっちに行く」
 返事をする前に通信は切れた。
 最初の枝までは少し距離がある。銃を仕舞い飛び上がろうとしたが、不意にサプレッサーが消耗してきていることを思い出した。仮に頭上に誰か潜んでいて戦闘になったとしても、銃声が轟くのは極力避けたい。では、もし戦闘になれば呪術かナイフか素手か……いや、呪術を使っても死体が見つかれば問題になるだろう。とすれば、出来るだけナイフ、もしくは素手で。
 思考を纏めて跳躍した。枝を両手で掴んで大きく足を振り、遠心力で一気に枝の上に上がる。すぐさま幹に身体を寄せて頭上を仰ぎ気配を探ったが、何も見当たらない。次からは比較的近距離に枝が連なっているので、勢い良くそのまま大木の上部まで続けざまに上がって行く。
 矢張り気のせい、もしくは鳥だったか。そう思った時―視界に息を殺して身を丸める黒髪の男が映った。
 考えるより先に右手がナイフを取り出し、男の首目掛けてそれを振るう。しかしナイフが男の首に届く前に見たこともない黄金の結界が現れ、金属音に似た高音を立ててそれを弾き返した。結界はナイフの切っ先が当たった部分から光の波紋を広げて小さく音を反響させたが、すぐに薄れて行く。
 よりによって結界師か。
 小さく舌打ちしてから呪術言を唱える。結界師ということは正規軍のはずだが、黒髪の男は軍服を着ておらず、また非番時に付けるはずのピンズや腕章の類も見当たらない。だが今はこの男の正体などどうでも良い。聞かれた、だから殺す。聞いていないにしても殺す。
 左目に浮き上がった契約印で最高レベルの呪術を発動させた―が、これも黄金の結界によって無効化される。
「高位結界師だな」
 男は両足を小さく畳み、両腕で自分の身体を抱き締めて縮こまっていた。しかし本来激しい気質なのか、その黒い瞳は怒りに燃えている。低く問いかけた俺の言葉にも、男は頷くこともせずただ悔しそうに歯を食いしばった。
「俺の呪術を無効にするなんて凄いじゃないの。でもここまで強固な結界は高位呪具でも使わなきゃすぐに切れるもんだ。そして俺は、その高位呪具を持っている」
 口端を上げて軍服のポケットから結界硬度と継続時間を高める紅玉を取り出してみせる。男が青ざめ身じろいだが、移動させる時間を作らせることなく言を唱え球状の包囲結界を作った。
 男が張っている結界は最高位結界で物理攻撃も呪術も効かないし解術も出来ないが、これほど高レベルなものを呪具もなしで長時間持続させることなど不可能だ。結界同士の力勝負となれば俺が押されることになるだろうが、この包囲結界を破ろうとすれば男の力も消耗し、その黄金結界が切れる時間も早まるだけ。
 男もそれを悟り、更に身体を小さくした。そして救いを求めるように視線を彷徨わせたが、すぐに諦めて怒りに満ちた目で俺を見据える。
「正規軍の者か?」
 訊いても返答はない。しかしその問いに答えたとしても男の運命は既に決まっており、返答の如何など実際にあまり関係ない。
「運が悪かったと諦めて欲しい。俺の会話を聞いていたかいなかったかは問題じゃなくて、アンタがここにいた、それだけでもうアウトだった。俺はアンタを殺す。アンタは俺に殺される。けれど苦痛を与えるつもりはないし、遺言だって聞いてあげるよ。聞くだけだけど」
 淡々と意思を伝え、どうぞと手を向けて遺言を促す。しかし男は矢張り口を開かない。
「勝負は決まってるんだから、抵抗なんてせずに心を決めて結界を解いてもらえると嬉しいね。アンタが足掻けば俺も無駄に力を消耗するはめになる。疲労も溜まる。イラつく。そうなると優しく殺してやることができなくなる」
 男は俺の言葉に反応を示さず、恐怖からか怒りからか肩で息をしてただじっと俺を睨みつけている。その目には絶望がほとんど見えず、自ら結界を解く気も命乞いをする気も毛頭なく、ひたすらチャンスを窺っているようだった。
 根比べというわけだ。
 時間の無駄だと思いつつも、俺から何か出来る状態ではないので大人しく男の力が弱まるのを待つことにした。枝の上に腰を下ろして片足を下にぶら下げ、もう一方の足を曲げてその膝の上に腕を置く。
 特にすることもないので、手のひらで発動状態の紅玉を転がしながら男を観察することにした。
 まず目を惹くのがその派手な傷だ。まるで何かの目印のように、きっぱりと男の顔を横切っている。男は特に整った顔立ちというわけではないが、傷がなければ大層地味な容貌になるだろうから精悍さが増して丁度良い具合になっている。
 艶やかな黒髪は肩まであり、意思の硬そうな口元はしっかりと結ばれている。感情を雄弁に語るその目はやたらと頑固、しかし理知的な光も垣間見える。古びてはいるものの衣服は清潔で爪も綺麗に切り揃えられており、体格はそこそこ良く、肌やその他から察するに健康そのもの。
 全体的な印象を一言で纏めるならば、普通。極めて普通の男。そんな印象だ。どこにも興味をそそる部分はない。
 しかし。
「アンタの結界、なんで金色なの?」
 この男が張る結界だけは非常に興味があった。
 結界は通常、無色である。呪術と掛けあわせた特殊結界であるならば多少黒ずむことはあるが、金色に輝く結界なんて見たことも聞いたこともない。それに呪具も使わずにこれだけ高レベルのものを張れる点も興味深い。仮令この男が軍の特殊高位結界師だとしても、結界言だけでこの硬度は作れないはずだ。
「何らかの呪術と掛けあわせた特殊結界? にしては特にこれと言って変わった様子が見受けられないけど」
 男が頑なに無言を通すので質問を止める。
 暫くは男と対峙したままぼんやり時間を過ごしていたが、あまりにする事がないので銃を取り出し簡単に手入れをした。次に結界によって少し欠けてしまったナイフの点検をした。小腹が減ったのでポケットに入れておいたチョコを一欠けら食べ、煙草を三本吸う。今後どう動くのか、どこのセーフハウスで身を隠すのか、消耗しているサプレッサーをどこから仕入れるのかを決め、また煙草を二本吸う。
 そうこうしているうちに随分と日が傾き、肌寒くなってきた。
 いくら何でも長すぎる。普通の結界ならもう疾うに綻びが出ているはずなのに、男の結界はまだその気配を見せない。実はどこかに呪具を隠し持っているのかもしれないが、俺の紅玉と拮抗できる程の力を持つハイクラスの呪具をこの男が持っているようには思えない。ではどういった仕掛けがあるのかと男を注視する。
 男は唇を噛み締めて一心に俺を睨み続けていた。しかし疲労の色は確実に浮かんでおり、喘ぐように息を荒げているし苦痛に眉根を寄せている。額から流れた汗が頬に伝わり顎に伝わり、そこで暫く留まってから滴る。興奮状態からか瞳は潤み、汗によって黒髪が肌に張りついている。
 それはどこか煽情的にも見えた。荒い呼吸も潤んだ瞳も情事の最中のそれと同じで、俺がこの男を攻め立てているような気分になる。
 殺す前に犯すのも良い。
「ねぇアンタ、名前は?」
 当然男は答えない。しかし怒りを浮かばせる激しいその目も、俺に犯され抗っている様を想像させる。
 負けん気の強い人間を力でねじ伏せるのは大好きだ。激高して喚くこの男を縛りつけ力尽くで滅茶苦茶にしてやることを少し想像しただけで、久し振りにかなり激しい色欲を感じた。
 可愛がってやろう。たっぷりと、俺の気が済むまで。
 しかしそろそろ俺も疲労が蓄積し始めていた。紅玉を使っているとは言え、こう長時間これほどの硬度の包囲結界を張り続けるのは流石にしんどい。
「粘るねぇ、アンタ。良い根性してる。でもさ、そもそもここで一体何してたの? こんな樹に登ってさ、なんか見てたの?」
 精神負担を増やそうと馴れ馴れしく話しかけてみると、ずっと俺を睨み続けていた男の視線が俄かに動いた。俺の背後を一瞥して、すっと目を細める。男が初めて俺の言葉に応えたと言うよりは、ほとんど反射的な動作のように思えた。
 その視線に誘われるように身体を捻って背後を見てみる。そこで気付いたのだが、この大木はこの森の中でも最も大きなものらしく実に眺めが良かった。そろそろポツポツと明かりが灯り始めたレイルートが見事に一望出来たし、その向こうには夕日で赤く染まる湖や、漁から戻る小船等が見える。そして更にその向こうには、まだ真っ白に冬化粧したままの山脈が悠然と連なっており、ここから見える風景を一層感動的なものにしていた。
 しかしそれでも俺は、この男がこの景色を観にここに来たのではないと気付く。
 山脈の向こう、これほど離れてもまだその存在を目視できるアレ。首都ガランドの象徴、世界政府の象徴、人間の業の象徴。高く高く、どの山よりも高く、天まで聳えるこの世界の明らかな異物。
 塔だ。




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