部屋に戻ればイルカが窓辺で夜空を見上げていた。
 その様子からどうせ何を言っても無駄だろうと思い、俺も一言も発することなく浴室に向かう。しかし熱いシャワーを浴びていると何故か酷く身体がだるくなり、髪も身体も洗わずに直ぐに浴室から出た。立っているのも億劫なほどの倦怠感に襲われる。
 身体も拭かずにベッドに倒れ込んで目を閉じた。
 明日目覚めればこの世が焼け野原になっていれば良いと真剣に思った。本当にそうなってくれるならば、俺はこのまま死んでも良い。
 うんざりだ。何もかも。
「ねぇ、本当に人を殺してきたの?」
 うつらうつらとしていた時、イルカがそう訊ねた。
「殺したよ」
「本当の本当に?」
「殺したよ」
 静かに答える俺に、イルカが近寄る。そして俺の隣に腰を下ろし、もう止めようよ、と言った。もう人殺しなんて止めようと。そうじゃなかったら、本当の本当に俺はアンタを嫌いになるからと。
 俺はイルカの黒い髪を撫でたかった。けれど、腕が上がらない。
 眠い。疲れた。
「もっと良いことをしようよ。世の中がちょっとでも上手くいくようにさ」
 イルカは天使だ、天使だから理想を唄う。それは悪くはないが今はうんざりなんだ。
「イルカは何も知らない。この世界がどれだけ醜いのか、暴力と憎しみにまみれているのか、人間がどれほど救いのない生き物なのか」
「そんな悲観的な目で見ちゃいけないんだ。どこにだって希望はある。希望に向かって生きようよ」
 俺が人を殺したことで憤慨するかと思いきや、イルカの声はやけに静かで穏やかだった。
「ねぇ、俺を見て。目を開けてくれない?」
 と、イルカは言う。
 けれど俺はイルカを見たくなかった。今はイルカの目の光も声もその天使らしい言葉の数々も全て煩わしく、俺はただ、イルカの黒い髪を撫でたかった。イルカは傍にいてくれれば良い。
 黙ってだ。
「人殺し、止めよう。ね、止めよう?」
 イルカに背を向けたいが、腕を上げることも億劫なこの状態でそんな力などあるわけがなく、俺は黙って目を閉じ眠りが訪れるのを待った。屋台で食ったヌードルが胃から上がって来るような気がする。変なものでも入っていたのかもしれないと忌々しく思うが、もう何でも良い。
 毒が混入されていたとしても、もう何でも良い。
「ね、止めよう? もう二度としないでおこう?」
 仕事をした後にこんな気分になるのは初めてだ。いつもならもっと。
 いや、もう良い。考えたり思い出したりすることすら煩わしい。
「ねぇ、本当の本当に嫌いになっちゃうよ?」
「イルカはさ、それこそ本当の本当に何も知らないんだよ。俺が今までの人生で見たこと、耳にしたこと、体験したこと、そういうのを全部教えてやりたいよ。お前、人間がどれだけ残虐か知らないだろ? 肉を引き千切られていく子供とか見たことないだろ? お前さ、人間の身体食ったことある?」
「でも、でもさ。でも、希望は」
「お前、ルーペがどうやって子供の食いぶちを稼いでるか知ってるか? 今日彼女が何をして、どんな目で何を見捨てたか知ってるか? イルカ。……お前さ、お前が読み書きを教えてる子供の中で、身体を売って金を稼いでる子がいるって知ってるか?」
 イルカは知らない。
 知らないから天使は理想を歌い、知らないから天使は希望を口にする。
「俺が今日した仕事内容教えてやろうか。俺は今日、依頼人の指示に従いターゲットの身体に合計五十八発の銃弾を撃ち込んだ。指示された通り間違いなく、手を足を耳を、一発一発当てていった。殺さないようにだ。最後にはどこを撃ったと思う? 睾丸だよ、睾丸。そう望んだんだよ、依頼人が。ターゲットが死ぬとな、依頼人のババァはターゲットを杖で殴打し目ん玉を抉りだし、顔を跨いでションベンをかけたんだよ。すげーだろ。お前にそういうの見せてやれば良かったな」
「ねぇ、目を開けて俺を見てよ」
「イルカがあの場にいればババァに食って掛っただろうな。でもねイルカ。ババァにそんな言動を取らせたのはターゲットなんだ。ターゲットはババァの身内を惨殺し、孫娘を強姦したそうだ。だからババァはもう、魂を汚さざるをえなかった」
「ねぇ、目を開けてよ」
 イルカが俺の頬に触れた。
 俺は語れば語るほどうんざりしてきて、イルカの手の感触すら疎ましいと思った。
「ほんと、うんざりだよ。イルカも世の中を知ったら心底うんざりする。俺はババァの肩を持ってるわけじゃないよ? 息子の件に関してはターゲットだって自分の仕事をしただけなんだからな。大体ね、あのババァも息子が銀の戦車を支援し始めた時からリスクくらい背負えって。報復したいなら自分で殺せ、自爆テロでも何でもしやがれ。リスクも背負わず身内殺されりゃ報復だ何だの、金積んで他人に殺人させておいて自分は高見の見物とは馬鹿ばかしいにも程がある。なぁイルカ、イルカ」
「うん、聞いてるから目を開けてよ」
「お前の知らないところで、毎日毎日誰かが馬鹿ばかしいくらい凄惨な拷問を受けて死んでる。銀の戦車と政府はもう和解出来ない。憎しみは止まらない。誰も止めようと思ってない。子供が身体を売る。女も金のためなら何だってする。お前は何も知らないだろうが、世界はえげつない怨嗟と腐敗臭のする諦観で溢れてる」
 イルカはもう何も言わなかった。
 俺の身体の横に身体を滑り込ませ、静かに寄り添ってくれただけだった。
 眠りはイルカの身体と共にやって来て、俺を泥濘の中に連れ込んだ。俺はそこで夢を見た。それは小さな頃の記憶で、戦場で死体を埋めるために穴を掘っていた時の夢だった。毎日毎日多くの死体を見詰めながら穴を掘った。虫が湧いた死体、首のない死体、身体とは呼べぬほどバラバラになった肉片、毎日毎日運ばれる、子供、大人、老人、女の死体。
 嗚呼、うんざりだ。うんざりだ。
 うんざりなんだよ。
「絶望しないで」
 イルカの声に目が覚める。
 と同時に、イルカの黒い瞳が視界に入る。
「お願い、絶望しないで」
 イルカは泣いていた。どうしてか分からないが、ポロポロと涙を零していた。
「絶望しないでお願いだから。お願いだから。俺、ずっと一緒にいたげるから。天使が一緒にいるからだから絶望しないでお願いだから!」
 イルカは泣きながらそう言い募り、俺の首に腕を回してぎゅっと抱き締めてくれた。
 それから、俺に口付けをしてくれた。
 俺は初めてイルカから口付けされた。
 絶望しないでと何度も繰り返し何度も口付けをくれるイルカの身体を抱き締め返し、俺は激しく震える。
 今までイルカを可愛い愛しいと、数えきれないくらい感じてきた。イルカに感情を揺さぶられ、イルカの身体を欲し、イルカの視線と意識を欲してきた。でも何も気付かなかった。
 今気付いた。
 これは、愛だ。
 俺に愛が芽生えたのだ。この俺に、このクソみたいな俺に。
「イルカ、愛してる」
 伝えたいという衝動の赴くままそう告げると、イルカは大きく目を見開きピタリと涙を止め、蒸気が出そうなくらい顔を真っ赤になった。数秒そのままで固まっていたが、もう一度「愛している」と告げると今度は急に身体を起こし、口をパクパクさせ、また俺の隣に倒れ込んで勢い良く俺に口付けた。
 勢いが良すぎて、俺は唇を切った。




 翌朝はイルカの「黒髪の天使さんはお腹が減りすぎてあと五分で死んでしまうかもしれない。本当に凄くお腹が減りすぎて今にも死んでしまうかもしれない」という、空腹主張甚だしい歌で起こされた。
 とにかくイルカの腹に何か詰め込んで、それから荷物を纏めてレイルートに帰ろうと俺は予定を立てる。仕事は終わった。後は金が振り込まれるだけだし、俺はもう暗殺業から距離を置きたい。イルカがいるならレイルートでずっと暮らしても良い。
「出る用意しな。今日は一緒に朝食買いに行こう」
「おお! 俺は久し振りに飛んだり跳ねたりするのだ!」
「いや普通にしててくれ。あんまり目立つなよ」
 はしゃぐイルカは嬉しそうに服を着替える。イルカが嬉しいと俺も嬉しい。イルカが楽しいなら俺も楽しい。イルカが「飛んだり跳ねたりはしていけない、ごはんを食べに行く天使」と歌っているそれだけで楽しい。
「よくそんなに歌を思いつくね」
 部屋の扉の前でイルカを待ちながら俺は感心して言った。出鱈目な歌ばかりだが、その出鱈目っぷりも結構凄いのだ。
「だって天使は歌を歌うものなんだ。人間ももっと歌えば良い。歌の消えた世界が、本当の絶望の世界だ」
 イルカが答えながら準備を整え走り寄って来る。
 その時、通信機が鳴った。
 出るかどうか迷ったが、結局俺はイルカを少し待たせて通信機を手にする。相手はアナハイムだった。

 俺はそこで、死神が銀の戦車に捕まり、過酷な拷問を受けていることを知る。




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