鍵の世界
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伝説
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イルカさんはそっと、カカシさんの背中から降りました。
そして視線をピエロに向けたまま、震える腕をカカシさんの身体に巻き付けて、何が起こっても良いようにピッタリとくっつきました。
カカシさんはそっと、イルカさんを背中から降ろしました。
そして視線をピエロに向けたまま、性能の良い腕をイルカさんの身体に巻き付けて、何が起こっても守れるようにピッタリとくっつきました。
「……幽霊さん、喋った」
イルカさんが今目の前で起きた事実を言葉にて確認します。
「喋ったね」
カカシさんはその言葉に同意して同じように事実を確認します。
二人は、二人でひとつの生き物のようにくっついてピエロに熱い視線を送り続けます。特にイルカさんの目は爛々と輝き、その好奇心は爆発寸前です。爆発せずに済んでいるのは、興奮が大きすぎて思考が若干止まり気味だという理由と、未知なる部分が大きすぎてちょっとばかり怖がっている部分があるからです。
カカシさんはと言えば、ピエロが喋るなど予想だにしなかったのでこれまた未知なる部分が大きすぎ、好奇心と同じくらいイルカさんの安全確保の方に意識が引っ張られています。
「俺、イルカ。こっち、カカシ」
イルカさんは言いました。興奮と緊張で少し硬くなった声です。
「知ってるよ」
幽霊さんは答えました。
「幽霊さんに魂はないの?」
イルカさんは訊ねます。
「ない。魂は別の場所にあるんだ」
幽霊さんは答えます。
イルカさんはそこで少しだけ間を置いて、なるべく落ち着こうとしました。興奮と緊張で真っ白になりかけている思考を何とか正常な状態に戻そうとしました。けれども幽霊さんは電波の悪いホログラムのように時折その姿を歪ませたり薄く霞ませたりするので、いつものようにすぐ消えてしまう気がして焦ってしまいます。焦ると考えが纏まらず、考えが纏まらないとやっぱり頭は真っ白になったままになるのです。
言いたいことや訊きたいことは砂漠の砂の数ほどあるはずなのに、言葉が出てきません。
「カカシ、なんか言って」
困ったイルカさんは、とりあえずカカシさんにそう振りました。
イルカさんはいつも、困った時にはカカシさんなのです。
「魂は別の場所にある、とはどういう意味だ?」
カカシさんは訊ねます。普段は冷静沈着のカカシさんですが、流石に緊張しているようでやっぱり声が固いです。
「上手く説明できないんだ。と言うより、この状態では上手く思い出すことができない。僕は何かの目的があって自分の意識を分散し、色々な場所に拡散させていたらしい。でも、何か理由があって帰れなくなってしまった。僕は魂から切り離された意識の欠片なんだよ」
ピエロの説明を聞いてもイルカさんにはさっぱり分かりません。けれど自分達にとって凄く大きなことが起こっているのは分かるので、カカシさんとピエロを何度も何度も見比べました。そしてカカシさんに期待に満ちた視線を向けました。
「戦争が起きた?」
カカシさんは少し声を潜めて訊ねます。
ピエロは人形の形をしているけれど、れっきとした情報体であった可能性が高いとカカシさんは踏みました。それから、今自分達がいるこの世界の状態からして恐らく過去に大きな戦争が起きたのだろうと推測していたので、辻褄を合せたのです。つまり、ピエロは自分と同じように兵器だったかもしくは諜報用のアンドロイドだったのかもしれない、けれども戦争が起きて本体が消失し、思念だけが残ってしまったのかと。
「僕に関しては、戦争は関係ない」
しかしピエロさんはそう断言しました。
そして続けます。
「僕がここに来た時、この世界は既に終わっていた」
その言葉はカカシさんとイルカさんに混乱させると同時に、大きな衝撃を齎しました。特にイルカさんは激しく動揺し、小さく震え始めました。
それはピエロにとっては何でもない言葉だったかもしれません。しかし二人にとっては、強すぎる言葉だったのです。こんな不意打ちのように、そんな揺るぎもない感じで聞きたくない言葉だったのです。
「終わってないよ」
イルカさんは泣きそうな声で言いました。それからカカシさんの身体にぎゅっとしがみつき、「終わってないよ」ともう一度繰り返しました。
カカシさんはそんなイルカさんを幽霊さんから隠すように抱き込み、キッと幽霊さんを睨みつけます。
「終わってない。世界はまだ終わってない」
カカシさんも言いました。
二人は望みを捨てていないのです。だって二人は地下で目が覚めてから二千年以上、ずっと望みを捨てずに旅を続けてきたのです。世界が既に終わっているなんて、そんなこと言われたって困ります。そんなこと言われたって認めることはできません。
「地下から来たんだよッ!」
イルカさんは叫びました。
カカシさんがそのあまりに悲痛で大きな叫びにビックリして見てみると、イルカさんは目から水みたいなものを流していました。もしかしてこれが涙というモノかもしれないと思い、カカシさんはもっとビックリしてイルカさんをもっと強く抱き締めました。
「幽霊さんの魂は地下にあるんだよ! そこで多くのいきものと一緒に暮らしてる。でも幽霊さんは地下に帰る方法を忘れちゃったんだ。そんで幽霊さんは、幽霊さんになっちゃったんだ。地上には……もう何も残ってないから、……ぉわってたって思うかもしれないけど、それは違うぞ! 地下にあるんだ、地下に地下に地下に! いっぱいのいきものが地下で生きているんだッ!」
イルカさんは声を荒げていきり立ちます。
それからカカシさんの肩に顔を埋めて、涙みたいなものをたくさん流しました。ひっくひっくとしゃくりあげ、カカシさんの肩に思いっきり噛みついたりもしました。
「地下? 地下にも……」
ピエロが何か言い掛けると、カカシさんが腕を突き出して熱源を指先に集めます。その動作で、自分はピエロに攻撃する意思があると告げます。
ピエロは肩を竦めて口を閉ざしました。
しかしその後すぐにピエロさんの形が薄れ始め、あれよあれよという内にまた薄ぼんやりとした「もや」に戻ってしまいました。
「正確に意識を保っているのが難しい。僕はすぐに消えてしまうだろう」
幽霊さんは「もや」の状態でそう語ります。
「何の目的で、どこから来たんだ」
カカシさんが攻撃の意思を見せたまま訊ねます。
「こことは全く別の世界から来た。目的はハッキリ覚えてるわけじゃないけど……とにかく僕はあるものを探してた」
「何を探してる」
「――鍵だ」
幽霊さんはそれだけ言い残し、消えてしまいました。
しかし最後に発したその言葉は、イルカさんとカカシさんに波紋を広げました。泣いていたイルカさんも、自分の中に広がる波紋を見詰めざるをえませんでした。
二人は幽霊さんが消えた後も、ずっとそこで立ち竦んでいました。死体ごっこをしていた時のようにお互い押し黙ったまま、波紋が何とか静まってくれるのを待つしかありませんでした。
夜が来て朝が来て、また夜が訪れます。立ち竦む二人のことなんて空も海も砂も太陽も、誰も気にせず時間は流れます。
イルカさんは時々泣きました。カカシさんは抱き締めることしかできませんでした。
どうやって慰めれば良いのか分かりません。どんな言葉をかければ良いのかも分かりません。歌を歌ってあげたいのに、この世界には歌がありません。
この世界は、歌が失われた世界なのです。
「旅を続ける」
何日か経ってから、イルカさんがそう宣言しました。
そして何かを求めるように、縋るように、与えるように、カカシさんに口付けをしました。
カカシさんはイルカさんを背負って歩み始めます。
イルカさんが希望を捨てないならカカシさんだって希望を捨てません。この世界のどこかに生き物がいると信じ、それを探す旅を続けるまでです。
二人には、「伝説」という項目のデータがインプットされています。それは伝説と呼ぶには小首を傾げたくなるようなもので、伝説の形態を取らないただの走り書きのようなものに思えます。
だから二人はその「伝説」について、多くを語ったことがありませんでした。そもそも伝説とは、その内容が真実であるかどうか問う必要のないものですし、何よりも二人にインプットされている「伝説」は、イルカさんの望みを否定するものだったからです。だから二人はその「伝説」を嘘だとし、見て見ぬふりをしてきました。それについて考えることも止めていました。
その「伝説」はふたつあります。
ひとつは、「扉」と「匣」と「鍵」の伝説です。
誰の意思とも関係なく、そのみっつは出現しました。扉も匣も鍵も、どれもバラバラの世界に、バラバラの時間に、突然現れたのです。その出現には神様も運命も、勿論人間も関わっていません。本当に誰の意思とも関係なくそれらは生まれたのです。
そしてその出現にどんな意味があるのか、誰も分かりません。
ひとつめの伝説は、それだけです。たったそれだけです。
扉と匣と鍵が現れた伝説。だから何だと言うのでしょう。
イルカさんもカカシさんもそんなもの見たことがありません。だからインプットされた伝説なんて嘘だ、作り話だ、物語のようなものだと決めつけて見て見ぬふりをしてきたのです。
しかし鍵を探していると言う幽霊さんによって、それはあながち嘘ではないかもしれない可能性が出てきました。そうなると、もうひとつの伝説も途端に真実味が出てきてしまいます。そしてそのもうひとつの伝説こそ、二人の……特にイルカさんの望みや希望を完全に否定するものなのです。
もうひとつの伝説。
それは伝説というよりも予言と呼べるもので、こうインプットされています。
世界に残っている魂は、イルカの身体に吹き込まれた魂のみ。
イルカがそれを失う時、世界に唯一残った魂が遂に消え去り、【全ての世界】が失われる――。