ガランドに到着すると、イルカはまずその人の多さに驚いた。
 イルカはどうやら、極寒の地であるラスカ大陸の「沈黙の山脈」と呼ばれる場所で生まれ育ったらしい。人がほとんど住んでいない大陸の、しかも秘境中の秘境だ。そこから捕らわれた母親を追って父親と一緒にこのマドリア大陸にやって来たそうだが、ガランドに入る前に正規軍に父親を殺された。まだ幼かったイルカはラスカ大陸に戻れなくなり、その後は人目に付かぬようレイルートでひっそりと暮らし続けていたようだ。
 であるからして、イルカが首都ガランドの人の多さに驚くのは当然だろう。
 見たこともない人の数、見たことのない露天の数、見たことのない食料・物品・文明品の数々。それらを目にして最初は多少怯んでいたようだが、イルカはすぐに持ち前の単純さを如何なく発揮し、目を輝かせてそれらに興味を示し始めた。あれは何だこれは何だあれは食べ物かどんな味がするのだ、答える暇もないほど矢継ぎ早に飛んで来る質問に苦笑を浮かべつつ俺は街を歩く。
 イルカは面白そうなものがあると引き寄せられるようにフラフラとそこに向かおうとするので、はぐれないよう手を繋いだ。それでもまだフラフラしようとするので、露天でケバブを買ってやった。イルカは大喜びでそれを食べていたが矢張り興味は尽きないようで前を向いて歩こうとせず、俺はイルカが人にぶつからないよう大層気を遣うこととなった。
 ガランドの南東にある安ホテルで一泊する。
 今日こそ抱こうと思ったが、長旅と興奮で疲れたらしいイルカはホテルのベッドに倒れ込むや否や例によって例の如くペロリと腹を出して高鼾をかき始めたので、止めた。俺も疲れていたし、見事なまでに爆睡しているイルカを起こす気にはなれなかった。
 翌日も朝から移動する。馬車で更に南東に下ると治安は目に見えて悪化し始め、人々の活気も暮らしも格段に落ちた。途中馬車を乗り変えてゴンドラ地区と呼ばれる移民自治区に入れば完全にスラム街の様相を呈し、時折発砲音まで聞こえる有様だ。はしゃいでいたイルカも次第に口を閉ざしていった。
 ゴンドラ地区の住民は、基本的に銀の戦車からも政府からも一線を画している。銀の戦車のホームはここよりずっと北にあるカイズ地区にあるのだが、人種問題と宗教問題が重なるゴンドラ地区の住民にその思想を根付かせようとはしてないし、正規軍はゴンドラ地区を特別自治区として放置しているからだ。
 しかしだからこそ、ここは武器密輸人や麻薬密売人等怪しげな者達が取引を行う格好の温床となり、そいつらと取引をしに来る銀の戦車、その銀の戦車を捕まえに来る正規軍が派手に殺し合いをする。そしてまた治安が悪くなるという悪循環を繰り返していた。
「子供、いる」
 イルカが地べたに座り込んでいる子供を見て、俺の腕を引いてそう呟く。それから「あの子達何してるの?」と続けた。
 レイルートは貧しい町だ。しかし大きな湖と豊かな土壌のおかげで、貧しくとも食いっぱぐれることは少なそうな土地だった。だからイルカは物乞いを見たことがなかったのだろう。
「何してるの? ねぇ、あの子達何してんのさ」
 答えない俺に腹を立てたイルカに腕を揺さぶられたが、答えない。イルカだって薄々は気付いているはずなんだ。そしてもしここで俺が答えれば、イルカは馬車を飛び降りて子供達に施しを与えようとするだろう。キリがないことを知らないから。いや、知っていてもするのかもしれない。イルカは天使だから。
 大きな河が見えて来ると家屋が激減する。そこで俺達は馬車を降り、アナハイムとの待ち合わせ場所に向かった。
 赤い橋を目印に河原を歩き、河に流れ込む下水道を見付けると懐中電灯を持ってそこに入る。中は暗く、臭く、ヘドロと動物の死骸の腐敗臭がする。よく探せば人間の死体も流れているかもしれない。
 臭い、とイルカが言った。返事のしようがないので何も言わず暗闇の中を進んで行く。
 暫くすると比較的大きな空間に出た。右手に赤い線が入った扉があり、それをノックする。
「敢えて死を問ふ」
 と、中にいる人物が言った。
「未だ生を知らず、焉んぞ死を知らん」
 と、俺は答える。
 低い音を立てて扉が開き、中からアナハイムが顔を出した。
 アナハイムは俺や死神と同じく過去や本名を捨てて生きている男だ。長い黒髪を後ろで縛り、縁の細い眼鏡をかけて暇さえあれば分厚い本を片手に読んでいるその姿はどこからどう見ても武器商人には見えず、さながらハイレベルな大学に通って近代文学でも学んでいる青年のようだ。
 今も本を読んでいたらしく、左脇に分厚い書物を挟んでいた。
「その人は?」
 アナハイムが眉を顰め、俺の背後に隠れているイルカのことを訊ねる。
「俺の―…鳥だ」
「鳥?」
「歌を歌ってくれるから飼っている」
 アナハイムは興味深そうな視線をイルカに向けたが、イルカは隠れて出て来ないのですぐに思考を切り替えた。
 中に入り扉を閉めると、すぐに仕事の話になる。報酬の紅玉に関する交渉は上手くいったこと。仕事の時間と場所、殺害方法の指定があること、依頼人に分かりやすいように銃にはレーザーサイトを付けること。依頼人の指示を受けられるように通信機を付けること。
 用意の良いアナハイムから通信用ヘッドセットを受け取り、それから頼んでいたものの受け渡しが始まる。アナハイムはアタッシュケースをふたつ持って来ており、それを開いて商売を始めた。
「アンタの趣味は理解している。ハズしたものは持って来てないよ」
 そう豪語するだけあって、確かに良いものが揃っていた。銃とサプレッサーの指定はしておいたのでこれは除外するとして、ナイフは無駄な装飾のない実用性に優れたものばかりだったし、呪具も個人の武器商人が扱うモノとしてはハイレベルなものが並べられている。俺はナイフを一本一本手にして最も手に馴染んだものを、それから装飾品のように美しい蒼玉と尖晶石の呪具を幾つか選んだ。
 二人分の正規軍の腕章とピンズも、どこから仕入れて来るのか知らぬが本物だ。問題ない。
 商談が成立すると金の話になる。しかしこれは毎度のことなのですぐに終わった。
「アンタは、人殺しの道具を売っている人なのか」
 アナハイムがアタッシュケースを閉めた時、それまで大人しくしていたイルカが尖った声でそう言った。見遣れば眉に皺を寄せて噛みつきそうな顔でアナハイムを睨んでいる。が、得体の知れぬ武器商人が少々怖いらしく、こっそりと俺の服の裾を掴んでいるのが可笑しい。
「そうだよ」
 アナハイムは穏やかに答えた。ポツンと置かれたパイプ椅子に腰掛け、何か眩しいものでも見るかのように細い銀縁の眼鏡の奥でその目を細めて。
「なんでそんな仕事するんだ。コイツに脅されてるのか。アンタも呪印、やられたか」
 コイツとは俺のことだ。そのあまりの見当違いっぷりに俺が思わず失笑すると、ギロリとイルカに睨まれる。
「脅されてないよ」
「どうしてそんなことする! いけないことだぞ!」
「そう定められたからさ」
「誰にだ!」
 ―運命に。
 アナハイムはそう答えた。死を目前に控えた年老いた賢者のような目で、眩しそうにイルカを眺めながら。
 そして続ける。
「蜘蛛に生まれれば死ぬまで蜘蛛だ。猫に生まれれば死ぬまで猫だ。それと同じように、僕は死の商人に生まれ死ぬまで死の商人だ」
「辞めちゃえば良い! いけないことだぞ!」
 イルカが悔しそうに怒鳴り、怒った時はいつもそうするように足を踏み鳴らした。
 アナハイムがそんなイルカを見て、どこか嬉しそうに微笑む。彼の方がイルカよりも余程若いはずだが、それは孫を見詰める老人のように見えた。
「ムカデに、お前は今からムカデであることを辞めろなんて言えないだろう? ムカデに生まれればムカデとして生きるしかない。ムカデとして生きることに良いも悪いもない」
「武器商人は職業だ! いきものの種類じゃない!」
「生き物の種類だよ。君が知らない深海魚みたいなものだ。君は死の商人と呼ばれる生き物の生態をまだ何も知らないだけ」
 とてもじゃないがイルカにアナハイムを説得出来るとは思えなかったし、誰かの説得でそれを辞めるような人間はそもそも武器商人なんぞにならない。アナハイムが言うように彼等は未知なる深海魚であり、ある意味俺や死神よりも深い場所に生息している。俺や死神が陸に上がり血に塗れている時も、彼等は澱んだその水底から決して出て来ないのだから。恐らく、一生。
 イルカはもう一度足を踏み鳴らして、自分の意見に対する同意を求めるように俺を見た。
 殺人魔の強姦魔に同意を求められても困る。
「イルカ、そろそろ行くよ」
 俺がイルカを促せば、アナハイムも会話の終了を告げるかのように足を組み分厚い本を開いた。
 イルカは納得出来ず唇を噛み締めていたが、もう一度アナハイムに向き合い「諦めちゃ駄目なんだぞ」と言った。
 アナハイムがまた微笑む。年老いた賢者のような目をして。
 それから俺に視線を向けて小さく呟く。
「鳥を大切にしなよ。歌を唄ってくれるのだから」
 



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