匣の世界 
水槽の中も外も、結局はそればかり

 次の仕事の依頼を受けたのは、武器商人であるアナハイムに連絡を取った時だった。
 アナハイムは銀の戦車からの依頼を取り次いでいるので、内容は政府関係者の暗殺だ。二度続けて銀の戦車から仕事を請け負うつもりはなく、次は政府からの依頼を受けようと思っていたので断ろうと思ったが、今回はそれほど大きな仕事ではなく単に怨恨による報復だった。
 ターゲットは軍情報部に所属している軍曹、依頼人はその軍曹に身内を殺された老婦。何でも銀の戦車に金銭的な支援をしていた息子を目の前で虐殺されただけでなく、孫娘を強姦されたらしい。なんともしょぼくれた依頼じゃないかと一笑に付すつもりだったが、報酬を聞いて驚いた。訊けば、依頼人は世界的に有名な宝石商であり、有り余る金で質の高い紅玉を集めることを趣味としているそうだ。
 たかだか軍曹一人を殺すだけで笑えるほどの大金と、武器商人も呪具商人も滅多に入手出来ない稀少な紅玉が手に入るとあれば話は変わるに決まっている。
 だから依頼を受けた。
 元々金には興味がないが、あって困るもんじゃない。死神が今回の仕事を終えればその後の支援をしなくてはならないし、最近の俺は暗殺業を辞めてどこか南の小島でも買い取りイルカとのんびり暮らすのも悪くないと思い初めていたところだった。まぁどうするにせよ金はあった方が良い。
 それに報酬の紅玉が魅力的だ。俺はイルカに紅玉のほとんどを破壊されている。暗殺業を辞めるとしても何時何があるのか分からないし、俺にとって紅玉は金より必要なものだ。
 依頼人の望む場所と時間で暗殺を行うし、暗殺方法も指定して良い。報酬金額も多少減らしても良い。その条件で報酬の紅玉の数を増やして欲しい旨を伝える。つまり、依頼人がお望みであれば俺は殺人ショーのような暗殺をしてみせるということだ。
 アナハイムにそれらの交渉を頼み、次は俺の本来の用件に入る。呪具・ナイフ・短銃・サプレッサー・二人分の正規軍の腕章とピンズが必要なので、それらを手配してくれと。その後受け渡しの場所と時間も決めて連絡を切る。
「ただいまー!」
 丁度扉を開ける音と機嫌の良さそうなイルカの声がした。続けてドカドカと勢い良く歩く音がし、寝室のドアが開いてそこからひょっこりとイルカが顔を出す。
「林檎貰った! あとはねぇ、トマトのサービスもあったしー、ニンニクチップのサービスもあったしー、落花生のサービスもあったしー、シナモンも少しだけオマケしてもらえた。今日は林檎パイ作る!」
 張り切って買い出しの成果を報告するイルカは本当に可愛かった。三日前に漸く機嫌を直してくれたイルカに買い出しの許可を出して良かった。
「珈琲豆は?」
「勿論買ったよ。紅茶も買って来た。けど、ビールは重いから配達頼んだよ? 良いでしょ?」
「良いけど、いつ来るの? 俺は他人にあまり姿を見られたくないんでね」
「今日中に来るよ。アンタ、隠れてば良いじゃん。いつものようにウズラカモメさんみたいにコソコソとさー」
 ウズラカモメとは何だと訊こうとしたが、イルカはケラケラと笑いながら大荷物を抱えてキッチンの方に向かった。酒屋に配達を頼んだとすれば、ビールはキッチンまで運んで貰うかもしれないので俺は寝室に閉じ籠ったまま大人しくする。ドアの向こうからイルカの「ウズラカモメのようにコソコソする、殺人魔の強姦魔」という内容の出鱈目な歌が聞こえたので、それを聞いていれば退屈はしなかった。
 夕方に呼び鈴を鳴らす音があり、イルカがそれに対応する。どうやらビールは勝手口の方に置くらしく、そこらでガタガタと物音がした。暫くするとイルカが顔を出し「もう行ったよ」と教えてくれる。居間に移動して念の為に窓の隙間から外を覗いたが、確かに誰もいないし人の気配もなかった。
 パイができたと言うので、キッチンに行って椅子に座る。
「可哀想なくらいハラペコだったイルカさんは、林檎パイを作りながらちょっと林檎をつまみ食いしました。そうしたら止まらなくなっちゃって、林檎がどんどん減ってきました。つまり、この林檎パイにはあんまり林檎は入ってないというコトなのでした。まる」
 イルカは何故か嬉しそうにそう説明しながらパイをテーブルの上に置く。それから珈琲を淹れてくれる。
「じゃあ俺がこのパイを沢山食べて良いってことかな?」
「ぶっぶー、ざんねーん。イルカさんはこれも沢山食べちゃうのです。変態強姦魔は美味しい林檎パイをちょびっとしか食べられないのです。そもそも変態強姦魔なんか、畑の雑草でも食べてりゃ良いのです」
 天使とは思えぬ暴言を吐きながら、イルカは珈琲が入ったカップを差し出す。それからパイを切り取ってくれた。
 イルカは料理が上手い。腹を立てている時は意図的にとんでもないものを作るが、基本的には非常に料理の腕が良い。ほとんど自給自足の生活を送っている割にはレパートリーも多いし、一人暮らしが長かったせいかどれも要領良く作る。だから当然パイも美味かった。
「イルカ。おかわり」
「やーだね! 言い方が駄目」
「天使のイルカさん、もう一切れ頂けますか?」
「やーだね! 俺は意地悪な天使なんだ」
 意地悪な天使と自称したのに「夕飯が食べられなくなるからこれでお終いだぞ?」と言ってイルカはちゃんと俺に切り分けてくれた。美味しいよと言えば嬉しそうにはにかむし、本当にイルカは可愛い。
 今日は抱いても良いだろうか。
 イルカを大泣きさせてしまってからこっち、俺はイルカを抱いてない。しかしこの様子なら、手を出してもあの時のような事にはならないだろう。勿論怒って暴れるだろうがそれは仕方ないし、明日の朝食が酷い有様になるかもしれないのも覚悟の上だ。
 イルカは楽しそうに買い出しの報告をしながら、手に入れた食材で何を作るつもりなのか教えてくれる。今晩は具の少ないブイヤベースで明日はトマトの肉詰めオーブン焼き、明後日は肉の少ないロールキャベツなのだそうだ。具が少なかろうが肉が少量だろうがイルカの作るものならどれもこれも食べたいのだが、しかしそうは言っていられない。とても残念だが俺は先程依頼を受けてしまっているのだ。
「実は仕事が入ったんだ。明日、ガランドに向かう」
 なるべくさりげない風を装ってそう切り出した。
「へー、食材勿体ないことになるな。いっぱい食べよーと」
 気軽にそんな返事をするイルカに苦笑する。イルカは分かってない。
「イルカも行くんだよ。ガランドに」
 実に親密な雰囲気であたかも恋人のような会話を続けていたのに、イルカはその一言で顔色を失くした。そして飲んでいた珈琲カップを置き、視線を落として悲壮な表情を浮かべる。
「やっぱり売るんだ」
「急に何だ。何の話だ」
「殺人狂の強姦魔は、捕獲に手古摺った天使をヤるだけヤって気が済んだから銀の戦車に売るんだ。それか、政府に売るんだ。俺は生体実験に使われて最後にはバラバラにされるんだ」
 ガックリと項垂れるイルカはそう言って小さく唸り、その次に唇を噛み締めて上目遣いで俺を睨んだ。
「売らないって最初に言っただろうに。イルカは俺のものだ。だからどこに行こうが俺はイルカを連れて行く」
「人殺しの手伝いなんかしないぞ!」
 イルカが立ち上がり目を吊り上げて叫ぶ。正に百面相だなと俺は可笑しく思う。
「手伝わせるつもりは毛頭ないよ。ただ傍にいてくれるだけで良い」
「人殺しなんかさせないぞ!」
 テーブルをバシンと手で叩いただけでなく、イルカは足も踏み鳴らした。
「じゃあ仕事には連れて行かない。邪魔されたら困るしね」
 余裕を持って答えれば、今度は歯ぎしりをする。それからまだ残っていた俺の林檎パイを強奪して勝手に食べると、皿を割らんばかりの勢いで後片付けを始めた。
「夕飯は美味いものを作れ。明日の朝食もだ」
 先手を打ってそう命令するとイルカは真っ赤になって激怒した。そして天使とは思えぬ言葉遣いで激しく俺を罵りながら、夕食の具の少ないブイヤベースを作った。
 その晩、俺はイルカを抱かなかった。イルカの激情は今は怒りに向いているが、いつものように力尽くで犯せばまた大泣きするに決まっているし、単に泣くだけなら可愛いがこの前のような泣かれ方をされては堪らない。だから出来るだけそっとしておいた。イルカはベッドの中でも俺の悪口を言い続けていたが、今日は買い出しに行って疲れていたのかすぐに眠りに就き、俺の隣で元気に大鼾をかいた。
 翌朝俺が目を覚ますとイルカは既にキッチンに立っており、「殺人狂の強姦魔が毒きのこの山に迷い込んで死ぬ」というとんでもない内容の歌を大声でがなりながら朝食を作っていた。それでも勿論朝食は美味だったし、珈琲に塩も混入されていなかった。
 ガランドに行くことを断固拒否しようとするイルカを何とか宥めようと思ったが、何を言っても聞く耳を持たないのでもう無理だと悟り、俺は「準備をしろ」と命令する。イルカはクッションに拳を三回埋め、それだけでは飽き足らずクッションに噛み付き、その状態で足をバタつかせながら何か喚いたが、命令には逆らえず旅の準備を整えた。
 家を出るまでのイルカは、紅潮した顔で俺に悪態を吐く怒りのイルカだった。しかしレイルートの町から馬車に乗ると少し大人しくなり、ハザクで列車に乗るために駅に行くと完全に様子が変わった。
 なるべく目立たぬように俯き気配を消し、コソコソと俺の背後に隠れる。
「人が多いのが怖いのか?」
 到着した列車から人が降りてくると、背中に隠れていたイルカが俺の服の裾を握ったので小さくそう訊ねた。
「だって、…んしだってバレたら、俺捕まる。母ちゃんみたいな目に遭う」
「イルカは捕まらない。もしそうなっても俺が守る」
「でもお前、もう紅玉ない」
「紅玉がなくとも俺はそこらの呪術師には負けない。大丈夫だよ、必ずイルカを守る」
 小さな声で会話を交わしてから足取りが重いイルカの手を引いて列車に乗った。
 一番空いている車両に乗り、一番良い弁当を買ってやり、イルカが安心できるように何度も「必ず守る」と告げ、万が一戦闘になった場合のシミュレーションを考えて詳しく教えてやる。はぐれてしまった時に落ち合う場所や連絡の取り方も教える。すると安心出来たのかイルカは徐々に緊張を解していき、夕方には「列車、初めて乗った」と言って子供のように窓に顔を付けて外の景色に夢中になった。
 ハザクからガランドまでは列車で二日かかる。
 その間にイルカがしでかしたことと言えば、お茶を零す、食べ終えた空の弁当箱を「記念だから」と持ち帰ろうとする、トイレに行こうとして迷う、その際食堂車を発見して尋常ならざる興味を示す、食堂車に連れて行くと興奮しすぎて給仕に若干引かれる、車内販売が来る度に呼び止めて菓子だのジュースだのを買い込みまたジュースを零す等々、俺の背後でビクビクと怯えていた割にイルカは列車の旅を思う存分満喫したのだった。




back novel next