その日から一週間、俺は何の結論も出さずいつも通り生活した。
アカデミーで教鞭を取り、受付に入って里の仲間に「いってらっしゃい」と「おかえりなさい」を繰り返す。楽しければ笑い、むかつけばぷんすか怒る。人遣いの荒い綱手様にぶーぶー文句を垂れながら雑用をこなし、帰りには商店街に寄っておばちゃん達と会話に花を咲かせる。そしてカカシさんとキスをする。カカシさんと抱き合う、カカシさんに好きだと告げる。
襲撃があったらどうするかを考えた。生徒達を大急ぎで火影岩の避難所に……間に合わないかも。そうだ、避難訓練をしちゃえば良い。そうすればどうにかなるかもしれない。でも他の人達は? 俺の愛すべき里の仲間は?
「イルカ先生、大根サービスしとくよー」
「おばちゃん、ありがとー!」
八百屋のおばちゃんは?
「イルカ先生、今日は良いイカが入ってるよ。今晩はイカ刺しで一杯ってのはどうだい?」
「おお、ぴっかぴかのイカさん!」
魚屋のおっちゃんは?
「イルカちゃん、電球替えるの手伝ってくれないかい?」
「良いですよー」
駄菓子屋の婆ちゃんは?
「イルカせんせいだ! イルカせんせいはっけーん」
「おうおう、お前等宿題済んだのかー?」
俺の受け持ちじゃない子供達は?
それだけじゃない。紅先生と紅先生のお腹の中にいる赤ちゃんは? 同僚のスミレ先生は? 下忍、中忍となった元受け持ちの生徒達は? 動物達は? 植物達は?
タイムリミットの前日、俺は里の中をゆっくりと見て回った。受付も木ノ葉商店街も学校裏の山も阿吽の門も火影岩も、全部見て回った。子供の時によく遊んだ公園、行きつけの本屋、武具屋、任務上がりの仲間達が一杯引っかけてる居酒屋、人気のない路地裏、猫さん達がよく集会を開いている空き地。
夕方、ぶらぶらと河原を歩いていると、顔見知りの子供に会った。その子は大工の子でアカデミーには通っていないけど、朝と夕方に必ず犬の散歩をしているのでよく見掛けるのだ。その時も犬の散歩をしていた。
「よ! 久し振りだな」
気軽に声をかけたが、その子はツンとそっぽを向く。
俺は子供には好かれる性質だけど、その子は手強くって未だに心を開いてくれない。でも有難いことに、その子の犬は大層俺に懐いてくれていた。
「八兵衛、良い子にしてたかぁ?」
八兵衛ってのが犬の名前だ。茶色の雑種で身体も小さめなんだけど、やたらの気の好いヤツで俺はソイツが大好きだった。
「俺の八兵衛に勝手に触るんじゃねーよ!」
頭を撫でようとしただけなのに怒られた。この子はいつもそうだ。俺に剥き出しの敵意を見せてくる。イルカ先生は誰にでも優しいから嫌だ、俺だけに優しいわけじゃないから嫌だ、イルカ先生みたいなのは信用できないと言って。
「俺の八兵衛は忍犬じゃねーからな。なんもできねぇぞ」
フンと鼻で笑いながらその子が言うから、ちょっと首を傾げて言った。俺は八兵衛に戦闘援助を求めるつもりはないし、別に芸を仕込もうというつもりもないと。
「イルカ先生は犬塚んトコの犬みたいなのが良いんだろ!」
「いや、犬も猫も全部好きだぞ? ヤギも羊もみな可愛い。八兵衛も可愛い」
「八兵衛は何もできねぇからどうせすぐに飽きるんだよ。お前等忍はそういう奴等だ」
「何にもできなくたって可愛い。可愛いのは可愛い。理由はいらないぞ?」
どうやらその子は、忍にコンプレックスを持っているみたいだった。だからしきりに八兵衛は何もできないって言う。自分も何にもできないって言いたそうな顔で。
「できるできないって、そういうこと気にしちゃダメだよ。だってお前の父ちゃんは家作れるだろ? 俺、忍だけど作れないぞ?」
できることと、できないこと。その子にしかできないこと、八兵衛にしかできないこと。そういうことを教えようと思ったのに、その子は「うるせー! イルカ先生のばかー! おたんちんー!」って言いながら逃げてしまった。
でも翌朝、俺の家のポストの中に木彫りの小さな犬が入ってた。
友達になれるかもしれない。あの子と。
大きく両手を広げて俺は空を見上げる。
なんて清々しい朝、なんて気持ちの良い空、なんて愛しいものに溢れた世界!
分かっていたじゃないか答えなんて。何もかもが泣きだしたいくらい無性に愛しいこの世界、生きとし生けるもの全部、木ノ葉の景色や雲や空の色まで全部愛しいこの世界。
俺は守りたいんだ。
無理矢理低ランク任務を請け負い、阿吽の門を抜けて森の中を疾走する。
誰にも見られちゃいけないし、誰にも気付かれちゃいけない。これから俺がどこに向かうのか、これから俺が何をするのか、ひとっこひとり知らないまま全て終わらせなくちゃならない。
「暁を全員殺すことはできるか?」
隣で宙に浮いているアルカナに訊ねる。
「暁全員は無理。因果関係がある者しか殺せないよ。今回で言えばペイン」
ペインを殺してもまだ暁は残ってるから、今回よりももっと酷いことをしでかそうと企む奴が出てくるかもしれない。そうなった時にもう俺は運命を変えられない。
でもやる。
覚悟は決まってる。
「その樹の中にいる」
アルカナの声に足を止め、呼吸を整える。怖がっちゃ駄目だ、心を揺らがしても駄目だ。俺は強い覚悟を持ってペインと対峙しないと。
拳を握り締め、一度目を閉じる。大好きな木ノ葉、三代目が守ってくれた木ノ葉。ナルト、みんな、カカシさん。
カカシさん。
「行く」
心を決めて目を見開き、一歩踏み出す。巨木は紙でできていて拳を突き入れるとそれは簡単に破れた。
両手を使って穴を開け、中に入る。中は大きな洞になっていて、そこの中心にげっそりと痩せこけた一人の男が変な装置に繋がれていた。それからもう一人、女がいる。
「木ノ葉の……忍?」
女はそう呟いてクっと眉を寄せ、紙を使った忍術で攻撃してくる。けれども攻撃が当たる前にアルカナが指もないまんまるな手で宙に金色の呪式を描き、それによって瞬く間に広がった光る呪式に全て無効化される。そして金色に輝くその呪式は俺とアルカナが出会った時と同じく、周囲の紙を、樹を消去し、更にあの時と同じく。
――扉を出現させた。
黄金に輝く光の中に荘厳と、見る者全てに畏れを抱かせる豪壮且つ重厚な扉を忽然と出現させた。
神聖であると同時に禍々しく聳える観音開きのそれは、崇高たる威容で万物を圧倒し、未来永劫開かぬと決められているかのように堅固に閉ざされている。
「忍術ではないようだな」
男は静かな声でそう言った。
「忍術じゃない。でも俺はお前を殺さなくちゃならない」
俺はそう答えた。
「殺さなくても良い方法があれば良かった。でもこれしかなかった。確定された運命を覆すということは、あまりに重い」
アルカナがそう続ける。
女が男を庇うように俺達の前に立ちはだかり、また攻撃をしようとした。男がそれを止めさせ、下がっていろと言う。でも扉を見たしアルカナの姿を見たから、彼女も殺さなくちゃならない。それがルール。
アルカナも運命も、ルールは絶対だから。
「せめて木ノ葉に……世界に痛みを教えてやりたかったよ」
男は扉を見上げて小さく呟いた。
それから少しだけ世界と平和と痛みについて語った。ほとんど独り言みたいに小さな声で自分の絶望と思想を。
俺はどうしても、最初に見た時からどうしてもこの男がそれほどの悪人のように思えなかった。本当なら、彼の話を全部聞いてみたかった。彼にどんな過去があり、どんな痛みを抱えているのか、どうしてそんなに絶望してしまっているのかも。そして一緒に、平和について考えてみたかった。
けれど話せば分かってもらえるとも思えない。だって話し合って分かるんだったら、運命の確定はされなかったんだから。
彼はやるのだ。誰が何を言っても、木ノ葉を壊滅させてしまうのだ。そしてナルトに説得される。そこでようやく彼は絶望から光を見出す。彼はきっと、そこでやっと絶望から逃れることができる。
「ごめん」
「どうして謝る。お前、忍だろう?」
「ごめん」
「どうして泣く。俺をその不思議な力で殺しに来たんだろう?」
「ごめん」
俺は彼を絶望から救えないまま殺す。
ごめん。
「痛みを与えても何も変わらないんだよ。だって世界は今も痛みで溢れてるのに、みんな痛みを共感しない」
涙を拭いながらそう言うと、彼は小さく吐き捨てた。
「本当にここは……呪われた世界だな」
何もかも諦めたような声だった。
女が彼に寄り添い、扉を見上げて彼の手を握った。
「絶望したらいけないんだよ! 俺は絶望なんてしない! 最後まで足掻いてみせる!」
俺は泣きながら声を張り上げる。
そして――。
「裁定者アルカナの共犯者、うみのイルカ。ここに、運命の改変を要求する!」
生涯でたった一度だけ使える権利を、発動させる。
扉を中心に光の柱が広がっていく中、彼が俺を見て少しだけ微笑んだ気がした。