「なに! 今のなに!」
イルカさんは恐ろしさでカカシさんに抱き付きながら、でも身に起こったミステリアスな現象にちょっとワクワクしながらそう叫びます。勿論カカシさんだって、それが何かなんて分かりません。
二人は恐る恐る、その「もや」が現れた場所に手を伸ばしました。
しかしそこには何もありません。空気しかありません。
「絶対なんか出た! 俺、見たもん!」
「俺も見たよ。白くてもやもやしたのが――」
カカシさんが同意しようとした時、二人はまた言葉を失いました。
現れたのです、再びそれが現れたのです。
「なに! これなに!」
イルカさんが興奮してそれに触れようとするのを、カカシさんが遮ります。もしかして危険なものかもしれないからです。
「いきもの? ねぇ、いきものなの?」
「イルカ、触っちゃだめ!」
「いきものかもしれない! カカシ、いきものかもしれないよ!」
それに触ろうと暴れるイルカさんを抑えこみながら、カカシさんが慎重にそれに手を伸ばします。しかし指先は何に触れることもできません。
「ただの水蒸気かもしれない。何らかの作用によって生じただけなのかも」
「違うよ違うよ! ここは水蒸気なんて生じる場所じゃないだろ!」
イルカさんの反論はもっともです。ここはあまりにも寒くて、海の波だって凍ってしまうような場所なのです。そしてこの穴の中には、熱源なんてないのです。
カカシさんがもう一度それに触れようとした時、それはまた消えてしまいました。
「いきものなんだよ! 絶対そうだって! 俺達のデータにないいきものがいるんだよ!」
イルカさんは大興奮して、自分を拘束しているカカシさんの腕に噛みつきます。
カカシさんもそうだったら良いと思いましたが、その可能性はとても低い気がしました。二人を作ったモノは生物の定義ができなかったらしく、カカシさんに「生物」と判断して良い線引きがインプットされていません。ですが、「生物と判断しても良い一般的な特徴」というものはインプットされています。そしてその「生物と判断しても良い一般的な特徴」に照らし合わせると、その「もや」を生物と呼べる要素はひとつもないのです。
そうこうしているうちに、まや「もや」が消えました。
二人は自分達が作った縦穴の中を隈なく調べ、どこかに思わぬ熱源がないか探しました。けれど穴の中は暗く、狭く、冷たく、どこにも変わった箇所はありません。熱源は勿論のこと、生物がいる痕跡だって見当たりません。
もしかしたら自分達の吐く息なのでは?とも思いましたが、二人の肺は冷気を吸い込んでも問題がでないように調整されており、それとも違うようです。
不思議なことです。不可解なことです。イルカさんが大興奮してしまっても仕方ないことです。
そして三回目にそれが現れた時、今度はもっと吃驚してしまうことが起こりました。
宙に浮かんだまま、「もや」がぐねぐねと動き始めたのです。
「ほら! ほら! やっぱりいきものだったんだよッ!」
イルカさんがポカンとしているカカシさんの拘束を逃れ、立ち上がって叫びました。
それは形を変えようとしているようでした。細くなったり太くなったり平たくなったりします。膨らんだり萎んだり、消えてしまいそうになったりします。薄ぼんやりと発光したまま、それは本当に生きているかのように動くのです。
「こんにちは! 俺はイルカ! こっちはカカシって言うんだ!」
イルカさんがコミュニケーションを取ろうと、「もや」に向かってそう言いました。「もや」はそれに応えるかのように一瞬だけ強く光り、遂に姿をはっきりと変えました。
カカシさんにもイルカさんにも、それが何か分かるくらいハッキリとです。
「――ピエロだ」
イルカさんが呟くと同時にそれは消えました。
その日を境に、世界にはこのもう一人の登場人物がちょくちょく顔を出すようになりました。
彼は神出鬼没で、全く思いがけない場所にぽっと現れてはぽっと消えます。真っ青な空のしかも随分と上空に現れたり、海の上でプカプカと漂っていたりもします。ほとんどの場合、白くぼんやりとした「もや」のままそこらをうろついては不意に消えるのです。
彼が一体何なのか、それは二人には分かりません。せめて「もや」の形のままであれば、新種の生物なのかもしれないという希望はあったかもしれませんが、彼は極稀に形を変えて何故かピエロになるのです。そして彼を生き物だと判定したいイルカさんですら、彼が作るそのピエロの形には首を傾げるばかりなのです。
ピエロの形になると、彼は宙に映写されたホログラムのように見えました。実体がないのは明白で、しかも古いプロジェクタによって再生されたかのように歪んだり掠れたりしていました。それを生き物と呼ぶには、イルカさんでさえ流石に躊躇いが生じる感じです。しかしイルカさんの首を傾げさせるのは、そこではありません。その形なのです。
彼が形作るピエロは、小さな人形の姿をしているのです。
どう考えてもそれは、二人のデータに入っている「人形」の項目に一致するのです。目はプラスチックのようだし、髪の毛は毛糸のようだし、そもそも彼の身体はタオル生地にしか見えません。
カカシさんもイルカさんも、彼についてはこれと言った答えを出せずにいました。イルカさんは生き物説を捨て切れていないようでしたが、カカシさんはそれには懐疑的です。
とりあえず、二人は彼に「幽霊さん」と名前を付けるにとどまりました。
神出鬼没な幽霊さんの観察もしたいですが貝殻探索も続けたいイルカさんは、チマチマと穴を広げる作業が嫌になりました。穴に入っていたら、幽霊さんが現れても分からないからです。
「氷壊して」
イルカさんはカカシさんに無理難題を押しつけます。
これにはカカシさんも困りました。氷は溶かしても瞬く間に凍りつくし、全て壊して海に捨てると海水がどのくらい増えるのか見当も付きません。しかしイルカさんのお願いを無碍にもできません。
強い爆破を起こすと、砂に埋まっているかもしれない貝殻やその他の生き物の痕跡も、木端微塵になる可能性もでてきます。
最初の三十年、カカシさんはなるべく慎重に氷を壊していきました。しかしイルカさんの希望で、次の十年は少々大胆に破壊活動を行いました。最後の五年に至っては、大々的な環境破壊活動に他ならない行動を求められました。
そうやって二人は、その地を滅茶苦茶にしてしまいました。誰に迷惑をかけるわけでもないのですが、景観はとんでもないことになってしまいましたし、海水の体積も増やしてしまいました。
しかも、それだけやったにも関わらず、結局生き物の痕跡は最初の貝殻以外何も発見できずに終わってしまったのです。
「ない!」
ごそごそと凍てついた大地を掘り返していたイルカさんが、遂に叫びました。
四十五年かけて出た答えが、それです。ここにはなにもないと。
二人はその地に見切りを付け、新たな旅に出ることを決意しました。幽霊さんのことは気になりますが、何しろ彼も時折現れてはすぐに消滅してしまい、たまにピエロになるだけでこれと言って何の変化もないのです。捕まえることもお話することもできないのです。触れることもできないし、意思があるようにも見えません。カカシさんは、幽霊さんは自然現象の一種なのかもしれないと思い始めていました。
ある日、幽霊さんが出現するとイルカさんは大層丁寧に、自分達が旅に出ることを告げました。自分達はこの世界にまだ残っているかもしれない生き物を探している。ここにはもう何もないと思うから、他の土地に行ってみたい。でも自分は幽霊さんに興味もあるから、もし良かったら一緒に付いて来てもらえないかと。
幽霊さんは勿論返事なんかせず、暫くふわふわと漂ってから消えてしまいました。
その後二人は、東に向かって出立しました。冷たい冷たい海を渡り、海なのか沼なのかよく分からない奇妙な湿地帯を渡り、小さな丘を越えました。そこからは久々に見る砂漠です。
しかし、ここはどうやら大陸ではなく、単なる島のようでした。三日も経たずに砂漠が終わり、また海岸線に出たのです。
海の向こうに、小さな島が点在しているのが見えました。
「全部の島を見て回ろう。もしかしたら、洞窟とかあるかもしれない。洞窟を下って行くと、地底に行ける扉があって、そんでそこに人間がいるかもしれないから」
イルカさんがカカシさんの背中によじ登りながら言いました。これは、おんぶしたまま海を渡ってくれという合図です。疲れ知らずなイルカさんですが、たまにこうして横着をするのです。
岩と土でできたつまらない島ばかりでどこにも洞窟なんてありそうになかったのですが、カカシさんはイルカさんをおぶったまま、ひとつひとつを見て回りました。
そして五つ目の島に上陸した時、何の前触れもなく二人の前に幽霊さんが現れました。
「カカシ、付いて来てくれた! 幽霊さん付いて来てくれた! カカシ、カカシ、幽霊さんは意思があるんだよ! 本当は俺達の言うこと全部分かるんだよ! やっぱりいきものなんだよ! 幽霊さんはいきものなんだよ!」
大興奮したイルカさんが、カカシさんの背中で大暴れをしながら叫びます。カカシさんも幽霊さんの出現に大層驚き、これは本当に生き物なのかもしれないと思いました。
幽霊さんはいつものように白いもやもやとした状態で現れましたが、二人の前で形を変えようとします。うねうねと「もや」が動き、次第にピエロの形になっていきます。
「形を持たない生物なのかもしれない。肉体がないと言うか」
カカシさんは幽霊さんに手を伸ばしてそう言いました。カカシさんの指先は幽霊さんの身体をすり抜けてしまいます。何度やってもすり抜けてしまいます。肉体を持たないものを生物と定義しても良いのかカカシさんには分かりませんが、幽霊さんが付いて来てくれたのは意思があるからだと思ったし、意思は無機物にはないのですから。
そうしているうちに幽霊さんはピエロ人形になりました。
しかも、いつもよりも鮮明に見えるピエロ人形です。
「肉体がないいきもの! それだよカカシ、それそれ! 絶対それ! 幽霊さんはきっと、魂だけの存在なんだ!」
「まさに幽霊だよね」
「幽霊ばんざーーい! 幽霊ばんざーーーい!」
イルカさんが大はしゃぎしてそう同意しながら、カカシさんの肩にがぶがぶと噛みつきます。二人にはそれでも良いのです。とにかく、幽霊さんが謎の自然現象の一種なんかではなくって、魂だけの存在であっても良いのです。
それだけで「望み」というものは出てくるのですから。
「幽霊さんと意思の疎通をしようよ、ねぇカカシ、カカシ、やって!」
やってと言われても困ります。
しかしそれがイルカさんの望みとあれば、やらざるを得ないのがカカシさんです。
さてどうしたものか、どうやって相手の意思を汲み取るか、ジェスチャーはいけるのか等と考えながら、カカシがまずは挨拶をしようと口を開こうとした瞬間。
「――魂はないんだ。ここにいる僕は、残留思念みたいなものだと思う」
幽霊さんが、喋ったのです。