「イルカ先生、お手柄だったみたいですね」
報告書を提出するにあたり事の詳細を最初から説明して欲しいと部隊長に請われた俺がやっと解放され、血に濡れた忍具の手入れをしようと近くの小川に向かって歩いていた時、暗部面を外したカカシさんが気軽にそう声をかけてきた。
カカシさんは暗部を抜けていたはずだけど今はそんなことを言える状態じゃないから、こうしてちょくちょくと暗部装束を身に纏っているようだ。
「偶然なんです。たまたま遭遇して」
へらりと笑顔を見せながら、戦闘で疲労しているだろうカカシさんに労いと「こんばんは」の挨拶を兼ねて少し頭を下げ、歩調を緩めて一緒に川辺に向かう。とは言ってもこれと言った会話や気の利いた話題なんてものは思い付かず、川のせせらぎと足音が響く夜の空気の中に、ちょっとした緊張感と僅かな気まずさが混じった。
ナルトがいる七班の子供達を介して知り合ったけれど、俺とカカシさんはそんなに親しい仲じゃない。中忍試験の時に諍いがあったことが未だに響いている、なんてわけじゃなくて、正直に言えばお互いに少し苦手としているんだと思う。育った環境や互いの立場が違いすぎるし、それにタイプだってまるっきり違う。接点と呼べるものが七班以外になかったわけだし、その七班も今は解散状態だ。
それから苦手云々以前に、俺はカカシさんを少し避けているところがあった。この人はやたらと勘が鋭い上に誤魔化しが利かず、俺の受付スマイルなんかてんで通用しないからだ。
「足を負傷したみたいだけど、大丈夫?」
水辺に腰を下ろすとカカシさんも隣に座り、さりげなく話しかけてくる。
「平気です。傷は浅かったので、もう痛みもほとんどありません」
医療忍に傷口を縫ってもらったし痛み止めと化膿止めの薬も飲んでるから、足の方はほとんど問題なかった。
カカシさんは「そう」と言って、鉤爪やらプロテクターやらを外していく。それからまずは手を洗い始めた。
「イルカ先生の噂は本当だったんですね」
月明かりによって、カカシさんの手に付いた血が川の水で流されていくのが少しだけ見えた。
「どんな噂があるんですか?」
問いかけながら俺は砥石を水に浸け、血糊がこびりついたクナイと千本を取り出す。
俺に関する噂……ちょっと聞くのが怖いけれど大事なことだ。今後のこともあるし、知っていないといけない。
「うみの中忍がいると木ノ葉は負けないってね。奇跡を起こす中忍、木ノ葉の中忍守護神、はたまたラッキー中忍なんて呼び名もあるんですよ。今ではお守り感覚で内勤のアンタを戦場に呼び寄せる上忍もいるくらいで……ここの部隊長みたいに」
手を洗い終え、手拭で身体を清めながら話すカカシさんの声は穏やかで何気ない感じだったけれど、何かを探っているふうにも思えた。
「偶然ですよ、偶然。実際、運は結構良いみたいですけどね」
気を付けないといけない。
実際にお守り感覚で俺を呼び寄せる上忍がいることは知っているし、所詮お守り程度と思っているだけなんだからそれ自体はさほど問題ない。噂も俺の知っているものと同じなのでこちらも問題ない。
けれどカカシさんのように勘の鋭い人間相手に喋る時は、気を付けなくてはならない。
水に浸している砥石に視線を固定したまま、さっき部隊長に報告していたことを脳内で復唱する。どう突っ込まれたって襤褸を出さないように、部隊長に報告したことと矛盾が出ないように、気を引き締めた。
水を含んだ砥石を引き上げクナイに付いた血糊を簡単に川の水で濯ぎ終えてから、それを砥ぎ始める。
「随分遠くまで用を足しに行ったんですね」
ほらきた。
「大きい方でしたから。俺、周囲に人の気配があると出るモンも出ないんですよ。ついでにそろそろ見回りの時間にもなってたから、スッキリさせてそのまま行こうと思ってて」
「一人で? 哨戒は一人でなんか行かないよね、普通」
「だから、誰かいたら出ないんですって。勿論仲間と落ち合う場所は決めてたんですよ。出すモン出したら、少し戻ってみんなと合流して、それから見回りに行くことになってました」
動揺なんてみじんも出さずにクナイを砥いでいく。慌てず焦らずいつも通り丁寧に仕上げていって手拭で水滴を拭き取り、少量の油を手早く塗る。帰ってからもう一度手入れするつもりだけど、できるだけのことはやっておかなくちゃならない。
続いて千本、それから手裏剣。
「誰も作った覚えのないトラップが張ってあったって話、聞きました?」
忍具の手入れをしている俺の隣で身体に付着した血を拭い終えたカカシさんが、のんびりした声で核心に迫って来る。
「聞きました。でも俺も知らないんですよね。気付いた時にはもう向こうは引っ掛かってたし」
「誰も作った覚えのないトラップに敵が嵌って、偶然フル装備だった貴方と遭遇したんだ」
「そりゃ戦場ですから常にフル装備ですよ」
「へー。哨戒時には少し身を軽くする忍が多いのに?」
「俺は常にフル装備です。そういうタイプなんです」
カカシさんは完全に疑ってる。けれど他人に怪しまれたことなど何度もあるし、今回だって証拠があるわけじゃないんだから、知らぬ存ぜぬを通し切ってやる。俺は木ノ葉を裏切っているわけじゃないんだ、むしろ木ノ葉を守ってるんだ。
今日だって俺はみんなを守ったんだ。
「仕掛けられていた謎のトラップに興味がわいて、さっき一通り見て回ったんですよ。随分癖のあるトラップでしてね、恐ろしく計算高い連鎖の中に子供の悪戯みたいなのが混じっている。そのギャップがかなり面白かった」
「カカシさんが誉めるくらいのものなら、俺も後で見に行こうかな」
誉められると凄く嬉しい。本当は心の中で拍手喝采で、ビンゴブックにも載ってるようなカカシさんが面白いって言ってくれたことに踊りだしたいくらいだけど、それらをぐっと我慢して俺は演技を続ける。
「一カ所ね、鳩の糞が落ちてくるトラップがあったよ」
「ばっちーですね!」
忍具を片付けながらケラケラっと笑って、そのついでに立ち上がった。俺の用は済んだのだし、今日の戦闘で勝利は間違いなしと言ってもここはまだ戦場なんだし、それに俺とカカシさんは長々とお喋りするような間柄じゃないから不自然でもない。
お先に失礼しますねと一礼して歩きだした時、カカシさんが少し低い声で問いかけた。
「イルカ先生は本当に強運の持ち主なの?」
俺は振り返り、全開の笑みでそれに答える。
「今日は特に、うんこしてたから運がついたのかも!」
一瞬の間が空いて、滑ったか?と思いきや、カカシさんは身体を震わせて笑いだした。
「アンタ、思ったより面白いね」
「どーも!」
俺が手を上げるとカカシさんはそれに応えてくれて、俺達は結構良い感じに別れた。
客観的に見て怪しいってのは事実だから、疑いたいなら疑えば良い。立ち回りが下手だった若い頃に間諜容疑をかけられたことは一度や二度じゃないし、そもそも俺は担当上忍にすら怪しまれたことがあるけれど、それでも乗りきって来たんだ。それに経験上、疑いが晴れると今度は逆に信頼を得ることができるって知ってるから、カカシさんも疑いたかったら疑えば良いんだ。
カカシさんの信頼を得ることができるかもしれないという可能性は酷く魅力的だ。
里の誉れ、ビンゴブックの常連、二つ名を持つ高名な忍の信頼を得るということはそれだけで嬉しい。あのはたけカカシ上忍と俺みたいな地味な中忍が、しかも互いに少し苦手としていた俺とあの人が、やがて厚い信頼関係を結ぶなんてドラマチックで素敵じゃないか。
俺達のことなんてこれっぽっちも気にしないで輝く星と月を眺めながら歩いていると、自然に鼻歌まで出てきた。焚き火の明かりが目立ち始め、人々が身に纏う硝煙と血の匂いが鼻に付き始めても気分は良いままで鼻歌を歌い続ける。
クフクフと笑いながら振り当てられた天幕に戻ると、同じ班のイズモとコテツが既に高鼾をかいていた。二人を起こさないように鼻歌を止めて、静かに寝袋に入って目を閉じる。
俺が手を上げて、それで身体を震わせて笑っていたカカシさんも同じようにヒョイっと手を上げて、それで別れた。苦手としていた者同士とは思えないような、例えば真夏にお互いトランクス一枚で扇風機の取り合いをするくらいの親友同士が「じゃーな」って言うみたいに、そこには波長がぴったりと合った空気があった。
俺が手を上げて、笑っているカカシさんもそれに応えて。
口元が緩むのが抑え切れなくなって、やっと自分は随分浮かれてるんだなと自覚した。そりゃそうだ、今の疑いを晴らすとカカシさんの信頼を得るかもしれないんだ。それどころか階級の差を越えて本当に友達になれるかもしれないんだ。あのカカシさんと。
カカシさんと友達になる想像をする。
今、俺達の間には言葉に出来ない妙な壁があるのは分かってる。あの人は人当たりは良いくせに他人との間に火の国海溝みたいに深い一線をハッキリ引いていて、そのラインを越えることを許さない人だ。そして俺は、そのラインの向こうから人々を観察するのが常なあの人をとても苦手に思っている。どれだけ受付スマイルを撒き散らしても観察者としてのスタンスを崩さないあの人を少し恐いと思っている。
でも友達になれたら。あの人が持っている火の国海溝みたいな深い溝の向こうに行けたら。俺だけが観察対象から外され、はたけカカシの隣に行くことができたら。
夢は膨らむ。想像だって真夏の入道雲みたいにむくむく膨らむ。
色あせた浴衣を着て、二人で俺ん家の縁側で夕涼みをするんだ。庭に水を撒いて蛙の声を聞きながら月が昇るのを見るんだ。風鈴がチリンチリン鳴ってて、近所で子供達が花火の準備をしている声がする。ざるに盛った枝豆は塩を振りすぎててちょっとしょっぱいけど、そんなの構わない。汗をかいたビールグラスを持ってカカシさんと何でもない話をする。
任務帰りに俺の家に寄ってくれてたら良い。それで俺が作った晩飯の残りなんかを食べてくれたら良い。安酒飲んで馬鹿騒ぎして、そうやってカカシさんは俺にだけ心を許してくれたら良い。そんであの髪の毛とか触らせてもらうんだ。
たくさん楽しいことを想像して、眠る前に一度だけすっと目を開けた。
気を付けなくてはならない。
決して秘密に気付かれないように、注意しなくてはならない。
カカシさんのように勘の鋭い人間相手に喋る時は、特に気を付けなくてはならない。
今まで受付やら何やらで接して来て、あの人がどんな目で他人を見ているかよく知っている。あの人は他のどの上忍よりも嘘や誤魔化しが利かなくて、恐いくらい聡くて、少し離れたところで口を閉じて物事を俯瞰しているような人だ。
あの人が俺に心を開くなんてありえない。俺を友達にしてくれるなんてありえない。距離を詰めてくるとすれば、今日のように何かを探ろうとしてくる時だけ。
気を付けなくてはならない。