項垂れている俺を尻目に、イルカは黙々と朝食の後片付けをすると外に出て行った。多分畑の方に行ったのだろうと窓の外を眺めていると、思った通りじょうろと籠を持ったイルカが畑の方に歩いて行くのが見えた。
 イルカは教育を施している子供達の親から謝礼を受け取っていないが、たまに翻訳の仕事をしているらしい。しかし収入は極僅かで、基本的に自給自足の生活をしている。だから毎日畑仕事をしているし、俺の許可を取って森に食べ物を探しに行ったりもする。俺は有り余るほど金を持っているので好きに使えば良いと言ってあるのだが、断固として使わない。
 作物に水を遣っているイルカを眺めながら、何となく自分も働いてみようかと思った。勿論人殺しではない。
 立ち上がって家を出ると、まず周囲の様子を窺った。ここは周辺に人家のない辺鄙な場所なのでまず問題はないのだが、念の為に俺はいつもそうしている。そして誰もいないことを確認すると、畑に行ってイルカの隣にしゃがみこんだ。
「イルカ」
 声をかけても返事をしない。
 イルカが自分の事を語ってくれたあの日以降、無視をすることは随分減っていたのだが。
「イルカ、一緒に釣りにでも行かないか?」
「釣り?」
 ピクリと肩を動かし、イルカが思わずといったように俺を見た。
 釣れた。イルカが。
「うん、釣り。湖の方には行けないが、近くの小川にも何かいるだろう?」
「いるいる! お魚いる! あとエビとかいる!」
 どこにそれほど喜ぶ要素があったのかよく分からないが、ともかくイルカはやけに目を輝かせてそう答えた。
 喜んでくれるなら嬉しい。早く行こうと急かしたが、畑の雑草を抜いてしまいたいと言うので俺もそれを手伝った。人生のほとんどを戦場で過ごした俺にとって、それは初めての経験だった。疫病が流行らないように死体を埋めるための穴や塹壕を掘ったことは何度もあるが、こうした普通の土弄りなどしたことはない。
 畑の土は血の匂いも硝煙の匂いもせず、土の匂いが心地好く感じたのも初めてだった。
 草抜きが終わると用意を整えて近くを流れる小川に行く。イルカのキノコみたいな家が目視できるかできないかの場所にある、比較的近くにある小川だ。イルカが喜ぶのならもっと早くに来れば良かったと後悔する。
 釣りを始めて暫くすると、イルカが「次は湖まで行きたい」と言った。しかし俺は出来るだけ姿を見られぬように生活しているし、イルカを一人で遠くに行かせるのは抵抗がある。何せイルカは可愛いので誰かに襲われないかと心配だし、そもそも俺は、常にイルカを傍に置きたいのだ。だからそれは却下した。
 イルカは「つまらない」と言う。
 珈琲豆や酒類、小麦粉や塩等の生活必需品を買いにレイルートの中心地に行かせたのは、この一ヶ月で二度だけ。山に食料を取りに行くのを許可したのは三度だけ。あとは家と家の目の前にある畑を往復するだけの日々だ。確かにつまらないだろう。そう思えばたかだか釣りに喜ぶのも当然かもしれない。
「沼の方なら行っても良いんじゃないの? あそこは滅多に人は来ないし。……殺人魔の強姦魔の変態が来たことはあるけどさ!」
 イルカが顔を顰めて厭味を言う。
「殺人魔の強姦魔の変態は、天使に沼に落されたらしいよ」
 俺がそう答えるとイルカは笑った。
 イルカは笑ってくれる。「初めて」が連発したあの日以来、イルカは俺の前で笑顔を見せてくれる。話してくれる。歌を歌ってくれる。
「イルカ」
 身体を捩って顔を寄せると、イルカはすぐさま顔を叛けた。
「イルカ、キスさせて」
「いや」
 キスは嫌がる。抱かれるのはもっと嫌がる。命令すると激怒する。
 しかし。
 その黒髪を撫で、その頬に指で触れた。身体を抱き寄せ、その腰に腕を回した。
 イルカは嫌がらない。
 イルカはもう、これくらいなら嫌がらないでいてくれる。




 イルカの家に潜伏してから、二ヶ月が経過した。
 糞溜めのような世界で蛆蟲の如く人生を送ってきた俺にとって、イルカと出会ってからの日々はまさに夢のようだった。可愛い天使が横にいる、ただそれだけで何もかもが一変したのだ。
 イルカが笑う、イルカが歌う、イルカが拗ねる、イルカが怒る。喜怒哀楽の激しいイルカを眺めているだけで、世界政府も銀の戦車もどうでも良くなってくる。奴等など勝手に殺し合っていれば良い、俺はイルカとここで生活しているだけで他に何もしたくないと、そう思えてくる。
 二人で小さな畑を耕し、二人で水を汲みに行く。朝には焼き立てのパンを食べ、夜には温かなスープを飲む。そんな慎ましくささやかな生活に、人を満たす力があると俺は初めて知ったのだ。
「あのさ、そうやって感じるのは良いことだと思うけど、アンタぜんっぜん働いてないじゃん! 畑に来てもちょこちょこーって草抜いて水遣りしてるだけだし、家の掃除も洗濯もしてくれないし!」
 タオルを頭に巻いて掃除に勤しんでいたイルカが、ソファーで寝転んでいた俺の前に仁王立ちをしてそうがなった。
「釣りするでしょ? イルカより上手いし」
「あのね、アンタがしてることと言えば、何故か勝手に俺の家に居座って王様みたいに振舞って、家事もせずに日がな一日好き勝手なことばっかりして、飽きもせずに毎晩俺を強姦してるだけなの! そりゃ幸せだろうよ! ばーか!」
 イルカの機嫌が斜めに傾いているのは、俺が昨晩イルカを寝かせなかったからに違いない。そろそろオネダリを成功させようと思った俺が熱心にその身体を弄り回したせいで、イルカは泣き過ぎて目が腫れ、声も少し枯れてしまった。
 俺からの責め苦と寝不足でイルカも辛いはずだ。だからこんな日は惰眠を貪れば良いのに、元来余程真面目な性質なのか、イルカは太陽が昇ると共にいつも通りの日常を開始した。不機嫌にだ。
「分かった。じゃあ掃除を手伝うよ。後で」
 イルカが翻訳を手掛けたという絵本に腕を伸ばすと、指先が届く前にイルカがそれを取り上げた。ギロリと睨まれたので渋々立ち上がって掃除を手伝う。床刷きもトイレ掃除も洗濯も手伝う。するとイルカの機嫌も徐々に直ってきた。イルカが単純で良かったと思う。
 午後になって昼食の準備を始めた時、家の裏の木に鳥が巣を作っていたから卵があれば少し失敬してくると言って出て行った。俺は何も気にせず、イルカに言われていた通り包丁で野菜をみじん切りにしていたのだが、暫くすると裏から大きな音がした。落ちたのだとすぐに分かった。
 驚きよりも恐怖を先に感じた。イルカが怪我をしたのではないか、足でも折ってしまったのではないか、それどころか首の骨を損傷していたら。そんな悪い想像に鳥肌を立てながら大急ぎで裏に回ると、イルカはヤブの中から顔を出してヘラリと笑ってみせた。
「怪我! イルカ、怪我は!」
 駆け寄ってイルカを抱き上げ、丹念に身体を調べる。平気だとイルカは答えたが到底安心することが出来ず、家の中に運んで自分の目でそれを確かめた。足や腰、腕、顔。関節もひとつひとつ調べていく。
「痛くない?」
「全然痛くない。天使は怪我してもすぐ治る」
「でも掠り傷がある。消毒しよう」
「薬は持ってないよ。必要ないから」
 本当にピンピンしていたが、念の為に俺は傷口を流水で綺麗に洗い流した。頬にも掠り傷があったが、それは布で手当てをする。
 イルカは不思議そうな顔で俺を眺めていたが、ふと変なことを口走った。
「ねぇ。ずっと気になってたんだけど、あんた、本当は良い人なんじゃないの?」
 ……良い人? 生まれてこの方、そんなことを言われたのは初めてだ。……良い人! 俺が! 今までの人生で数えきれない人間の命を奪い、ありとあらゆるものを憎悪し蔑んできた俺が、良い人! 裏切りと殺人に明け暮れ、この世界を灰にしてやりたい俺が、良い人!
 腹を抱えて爆笑する。爆笑せざるを得ない。これほど笑ったのは初めてだと思うくらい笑える。
 笑い死ぬかと思った。
 イルカはポカンと口を開けてそんな俺を見ていたが、またもや機嫌を傾けてしまったようで頬をぷっくりと膨らませて台所に行ってしまった。
 何故そこまで怒ってしまったのか分からないが、その日の夜、いつもより更にイルカは俺に抵抗した。狭いベッドの中で虎の子のように暴れるイルカを力で征服するのは大好きだし、征服されたイルカが俺の手によって快楽に堕ちるのを見るのはもっと好きだ。どれだけ罵詈雑言を並べても、イルカは結局最後には可愛い声を上げながら射精するのが常なのだから。
「今まで色々してきたけど、どうされるのが一番感じた?」
 暴れるイルカを裸に剥いて手足を縛り、素肌に指を這わせながら訊ねる。
「強姦魔に強姦されて感じるわけないだろ! ばっかじゃないのかおまえ!」
 何とか俺の手から逃れようと身体をくねらせながら喚くイルカが可愛くて仕方ない。少し弄ってやればすぐに勃起するくせに、そんなことを言う強情なところも可愛くて仕方ない。
 イルカが愛しくて仕方ない。
 大体今日は俺のせいでイルカを酷く怒らせてしまった。だから今晩はたっぷり奉仕してやろうと思った。イルカが一番感じること、一番悦ぶことをたっぷりとして、イルカに奴隷のように尽くそうと。
「どうされると一番感じるか、言え」
 知りたかった。イルカがどうされると一番嬉しいのか知りたかった。尽くしたいと思ったから知りたかった。
 だから命令した。
 命令形の言葉を口にするとイルカは激怒するが、それを遥かに上回る快楽を与えれば良いと。
 イルカは息を飲んで目を大きく見開き、一瞬にして身体を冷たくさせた。顔も真っ青になった。恥ずかしくて言いたくなかったのだろう、唇を強く噛み締めた。しかし契約を結んでいる以上俺の命令は絶対であり、言葉はイルカの意思とは無関係に紡がれた。
「しばられて、おしりを指でシてもらいながらあそこ舐められると、いちばんかんじる」
 俺は解答を得て満足した。そうか、それが一番好きなのか、じゃあ今日はそれをたっぷりしてやろうと満足した。
 しかし僅かな放心状態を経て、イルカに変化が現れた。
 真っ青になっていた顔がみるみる赤くなっていき、同時に冷たかった身体も急激に熱くなる。目を見開いたまま短く何度か息を吸い込み、身体を小さく震わせてから―火が付いた赤子のように泣きだしたのだ。
 今までイルカの大泣きは何度か見たことがあったが、こんな酷い泣き方は初めてだった。イルカの心が本当に壊れてしまうかと思うくらい酷かった。俺はすぐにイルカの手足を縛っていた縄を外し、何度も謝罪した。それからもう二度とこういったことは訊ねない、セックスに関する命令もしないと何度も誓った。それでもイルカは火の付いた赤子のように泣き続け、俺を心底怯えさせた。
 イルカが壊れてしまったらどうしよう。
 もう二度と笑ってくれなくなったら。
 もう二度と怒ってくれなくなったら。
 もう二度と俺を―ぎゅっと抱き締めてくれなくなったら。
 俺は怯えた。どうしようもなく。

 イルカはその後、俺の言葉に一切反応しないまま泣き疲れて眠った。当然俺は一睡も出来ない夜を過ごしたのだが、翌朝のイルカは完全に激怒していたものの、その健全な心は壊れていなかったので安心した。
 しかしイルカの激怒っぷりは凄まじく、俺はその日から一週間も口を利いて貰えなかった。
 それにその間の俺の食事は全て、炭化したパンのみだった。
   



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