死神から連絡が来たのは、窓辺で朝陽を浴びながらイルカが作った焼き立てのパンを食べている時だった。
「カカシ、おはよう」
 普段はこんなまともな挨拶をするような奴ではないので思わず苦笑する。
「血腥い話だったら後でかけ直してくれ。俺は今、イルカが作ってくれたパンを食べながら健全な朝を満喫してるところなんだ」
「健全な朝を満喫とは、お前、まるでまともな人間みたいじゃないか。テーブルの上には花が置いてあったりするのかね?」
「あるよ。イルカが活けた花だ。目の前には、お前より多少まともな俺には勿体ないほど酷く素敵な朝食の風景が広がっている」
 軽口を叩き合い、互いに捻くれた笑いを漏らしたところで「何だった?」と話を促した。
「ガランドに戻ることになった。デカイ仕事が舞い込んだのでね」
 死神は一ヶ月程前にここに訪れた時、どこかで暫く姿を隠すと言っていた。俺から見ても死神は大きな仕事を立て続けにやりすぎていたし、ガランドに戻ることはとてもじゃないが賛成できない。どれほどでかい仕事でもだ。
 しかし死神は俺が口を出す前に「危険なのは承知の上さ」とそれを遮った。
「どんな仕事?」
「暗殺じゃない。政府からの極秘依頼でね。銀の戦車から、匣を取り戻せと」
 ―匣。
「どういうことだ」
 念のためにカーテンを引き、声を潜めてそう問う。
「匣を持っていたんだよ、政府は。使用方法が分からず持てあましていたらしいが、とにかく隠し持っていた。しかし内部に裏切り者がいたようで、先日匣を銀の戦車に奪われたらしい」
「何故お前が取り返しに行く? そんなことは政府が自分達で尻拭いをすれば良いだけのことだろ」
 全面戦争になれば良い。むしろ俺も死神も地上全てが戦火に見舞われ何もかもが灰になることを望んでいるはずだ。何も死神が動くことはなかろう。
「私に依頼してきた政府関係者は、匣が奪われたことを上層部に知られたくないのさ。銀の戦車が匣を持っていてもどうせ何も出来やしないだろうが、当然速やかに奪還せざるを得ない。万が一ということもあるしな。そこで俺にお鉢が回って来たというわけだ」
 死神は俺と違って暗殺だけを請け負っていたわけではなく、今までも随分手広くやっていた。腕が立つことは言うまでもないし、顔も広い、どんな仕事も早いし正確なので、まさにうってつけだ。その上死神は光上の役時代の事……それこそ匣や塔に関する情報を常に欲している。依頼人も断るわけがないと踏んだのだろう。
「銀の戦車から匣を奪還か。バモンドを殺すより難易度高いんじゃないか? 手伝おうか?」
 今となっては使い道の分からぬものだが、匣と塔はセットで語られることが多い。つまり本来は兵器、もしくはそれに準ずるものだったはず。しかも光上の役の時代の兵器だ、今のものとは格段に違う威力を持っているだろう。そんなものを銀の戦車が簡単に手放すわけがない。
「申し出は有難いが、組織への潜入は一人の方が動きやすい。ただ、仕事が成功した後の支援を頼む」
「成功した後の支援?」
「私は政府に匣を返すつもりはない」
 矢張りか。
 俺は深く溜息を吐いて手で額を抑えた。恐らく死神は、政府よりも銀の戦車よりも匣を欲している。その秘密を、秘められた力を欲している。例え幾ら大金を積まれても少し調べさせて貰えたとしても、そんな死神が易々と匣を返すわけがないのだ。
「両組織がお前を血眼になって捜すぞ」
「勿論そうだろう。だから私はお前の支援を得て雲隠れをするのさ」
「どこぞの山奥にでも籠って匣を相手に暮らすのか? 隠者にでもなるつもりか」
「さぁ、どうだろう。匣の秘密さえ分かれば愉しい事になるのだがね」
 イルカが珈琲ポッドを持って俺の正面に座った。怪訝な表情を浮かべながらもカップに淹れたての珈琲を注いでくれる。
 死神の言う「愉しい事」というものがどんな事なのか想像が付くし、以前の俺ならさぞかしその「愉しい事」にドス黒い悦びを見出しただろう。しかし今俺の意識はイルカに向いている。兎にも角にもイルカだけで、死神の言う言葉にそれほど魅力を感じなかった。
「まぁ、俺に出来る事があるならやるよ。何か入り用ならまた連絡してくれ」
 通信を切って珈琲カップに手を伸ばし、何でもないと言うようにイルカに微笑みかけた。しかしイルカは、何でもないわけがないと言うように眉根に皺を寄せた。
 それからひょいとパンを取って、じっとりとした目で俺を見ながらそれを口に放り込む。
「死神さんだろ」
 既に咎めるような口調だ。
「匣って言ってたろ。聞いてたぞ」
 返事をする間もなく、イルカはそう続ける。
 俺はパンを手に取り、ジャムを付けながら答える。死神は銀の戦車から匣を奪うつもりらしいと。
「匣は悪いものだ。塔と同じくらい悪い。欲しがってはいけない」
 匣について訊ねた時もイルカはそう言っていた。匣は悪いものだと。それは誰に教わるわけでもなく、天使なら生まれながらに分かることなのだと。
 しかしそう言われても俺にはどうしようもない。死神に「おい、俺の天使様曰く、それは悪いものらしいぜ」と教えてやったとしても、死神はきっと喜ぶだけだ。天使が悪いものだと言うなら、是非入手したいものだと余計アイツを煽ることになるだろう。
「俺が欲しがってるわけじゃない。俺はノータッチだ」
 死神の逃走の手助け、その後もある程度生活援助をすることになるだろうから完全に無関係とは言えないのだが、イルカの機嫌が更に悪くなるのを回避する為そう言い訳した。更には話題を変えようと「パンが美味い」とも言ってみた。しかしイルカはむっつりと黙りこみ、責めるように俺を見据えたまま朝食を終えた。
 せっかくの健全な朝だったのに死神のせいで台無しだと、また溜息が出る。
 昨晩もイルカを抱いたが、今朝は珈琲に塩やソースを混入されなかったし、作為的な丸焦げパンが皿に乗ることもなかった。それどころか今朝のイルカは殊の外上機嫌で、パンを焼きながら「毒キノコの山」という不可解な歌を元気に歌っていた。毒キノコの山には毒キノコしか生えておらず、迷い込んんだものはウサギもカメもバタバタと死んでいくという天使とは思えない物騒な歌で、俺はそれを聴きながらクスクスと笑っていたのだ。
 それほど良い朝だったのだ。それなのに死神のせいで台無しだ。




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