「ねぇ」
 皿を洗い終えたイルカが、俺に背を向けたままそう言った。
「なに?」
「平和、諦めてる? 少しの希望も持てない?」
「平和ァ?」
 鼻で笑うとイルカが振り返り、目を吊り上げ、大きな足音を立てながら俺に近付いた。それから俺の前で立ち止まり、拳を握って子供のように足を踏み鳴らした。
「俺だって世界政府も銀の戦車も大嫌いだ! 俺の家族は山奥でひっそり暮らしてたのに、母ちゃんが人間に見つかって、そんで政府の奴等に捕えられたんだ。酷い拷問を受けて死にそうになった時、銀の戦車が母ちゃんを政府から奪った。助けてもらえたと思ったのに、今度は銀の戦車が母ちゃんを酷い目に遭わせた! 母ちゃんは銀の戦車の奴等に身体をバラバラにされて殺された! 人体実験に使われた!」
 イルカはもう一度足を踏み鳴らし、大粒の涙をボロボロと零しながら泣いた。
 大体想像が付く。奇跡的に生き残っていた天使を発見し、まず銀の戦車と関わりがあるかどうか調べられたのだろう。しかし、何せ天使は貴重な生き物なので、その時の政府は別にイルカの母親を殺そうとしたわけではないはずだ。天使の生命力を知っている政府は過酷な拷問をしただろうが、それでも殺すつもりはなかったはず。
 しかし銀の戦車がイルカの母親を強奪した。これは政府が天使を四匹飼っているからだ。神領結界や光上の役時代の古い呪術を知っている天使は、政府と敵対する銀の戦車にとって非常にやっかいな存在だ。イルカの母親を強奪してそれらの情報を聞きだし、後は生体実験に使われたのだろう。
 その際、吐き気がするほど凄惨なことが行われたのは間違いない。
「俺は父ちゃんに羽をもがれた。それで二人でたくさん逃げた。逃げてる途中で俺を庇って父ちゃんは殺された。銀の戦車に殺された。だから俺は、銀の戦車なんか大っ嫌いだ。『四匹』の天使を『飼っている』なんて言う政府も大っ嫌いだ。そもそも人間は光上の役で、俺達天使をほとんど根絶やしにたんだ。だから俺は……俺は人間が嫌いだ」
 イルカはそう漏らすと悔しそうに歯を食い縛り、握った拳の甲で涙を拭った。しかし拭っても拭っても涙は溢れる。
 イルカはしゃくりあげながら続ける。
「でも。……でも、平和になったら良いなって思う。だってレイルートの人達好きだし、俺、子供好きだ。だから平和になれば良いって思う。俺が出来ることなんてちょっとしかないけど、でも、いつか平和にって。だから」
「子供達を教育してるんだね」
 イルカはコクリと頷く。
「確かに教育は最も重要だ。平和への道は、正しい教育から始まる」
 俺がそう続けるとイルカが不思議そうに俺を見詰めた。多分俺が同意するなんて思ってもなかったからだろう。
 クスリと笑って突っ立っているイルカの手を引き、自分の隣に座らせた。
「正しい教育。それが問題なんだけどね」
 イルカの涙を指で掬いながらポツリと漏らすと、イルカはまたコクリと頷いた。
「知ってる。銀の戦車も政府も子供の教育に力を入れてる。でも自分達の都合の良いようにしか教育してない。あれは洗脳だ」
「イルカのは洗脳じゃない?」
「違う。俺はまず、多くの言語の読み書きを教える。沢山の書物を読んで沢山の思想に触れられる下地を作る。それから、自分で考える力を育む。様々な物事を多角的に検証出来る力を持たせる。それから、想像力の重要性も教える。想像力がなければ、どんな知識も活かすことが出来ない」
 今の今まで子供のように足を踏み鳴らしていたイルカの目に、理知的な光が宿りだした。夢や理想を語る若人のように、それは強く美しい光だった。
「子供に答えを押しつけることは不必要であって、答えを模索し続ける力を持たせることこそ大切なんだ。勿論俺一人でどうにか出来るとは思ってない。でもとにかく自分で考える力を持たせる。広い視野を持たせる。そうすればいつかきっと、人間はきっと、正義という名の下に支払われる狂気じみた犠牲の数々に気付く」
「うん、良いと思う」
 理想、願望、机上の空論、子供の夢。イルカの話は俺にそれらの言葉を連想させた。
 しかしイルカは天使なのだ。天使が美しい絵空事を謳って何が悪い、天使が美しい未来を夢見て何が悪い。天使だからこそ夢見、語れる物語があるのだ。
「良いと思う」
 重ねて同意を示すと、イルカは少し顔を赤らめてもじもじと自分の服の裾を弄りだした。
「俺、こんなこと他人に言ったの初めてだ。政治の話はしないようにしてるし、コソコソ生きてるし」
 照れながらそんなことを口にするイルカは相当可愛かった。可愛かったので頭を撫でてやるとイルカは素直に喜び、それから次々と自分の夢と希望を語ってくれた。レイルートで子供達に囲まれながら静かに暮らしていたいこと。自分の教え子達が立派に育ち、世界を変えていくのを見たいこと。そしていつか家族と住んでいた山に戻り、そこで生涯を終えたいこと。
 それだけではなく、イルカの想像する理想郷なるものも語ってくれた。
 そこでは食べ物をよく蓄え、人々は欲が無く紙幣もない。資源食料とも物々交換で得られ、社会は小さな集落で成り立っている。皆が助け合い、皆で障害を乗り越え、皆でよく話し合って物事を決めていく。
「無理だな」
 目をキラキラさせて夢を語っていたのに、イルカが急に素に戻って自分の話を完全否定するので俺は思わず噴き出してしまった。
「いくら何でも無理だった! だってこれってほとんど人間そのものを否定するようなことじゃない? 欲のない人間ばっかりになったら、それって人間じゃなくて新しい種族じゃない?」
「確かにね」
「大体食糧危機がないこと自体、リアリティに欠ける! やりなおし!」
 自分にやり直しを要求すると、イルカは腕を組んで考え始める。
「理想郷なんでしょ? 別にリアリティは気にしなくて良いじゃないの」
「駄目駄目、そんなんだったらもっと凄いのでも良いことになるだろ。地上が全部天国になれば良いとか、そういうことになるだろ」
 何に拘っているのか俺には良く分からなかったが、イルカが真剣にそう言い募るのが可笑しかった。
 イルカは可愛い。
 イルカは愛しい。
「消去法でいこう。なくなっちゃえば良いものは、戦争、飢餓、貧困……塔」
 最後にポツリと付け足された言葉に、俺は眉を顰める。
「塔のこと、何か知ってるのか?」
 死神が俺を煽ったすぐ後に、匣についてはもう問い質してあった。イルカは知らないと答えたのでそれについては安心していたのだが、塔についてはまだ何も訊いていない。死神は匣と同じくらい塔に興味を持っている。
「塔について知ってることと言えば、あれはある日突然地上に出現したことだけだ。そんで、あれの出現のせいで光上の役が起こった」
「イルカの母親は何て言っていた?」
「天使は塔の出現に呆然とし、塔を無くそうとした。悪魔は塔の出現に歓喜し、塔を自分達のものにしようとした。人間は塔の出現に戸惑っていたのに、それを使いこなして勝利した」
「どうやって使いこなした?」
「知らない」
 イルカは首を振る。それから「塔は悪いものだ。なくなるべきだ」と続けた。
 イルカは本当にそれ以上知らないように見えた。しかし塔についての情報は死神ほどではないが俺も興味があった。塔は首都ガランドの象徴、世界政府の象徴、人間の業の象徴だ。そして人々が争いを続けてきた元凶でもある。
「塔について知っていることを全て話せ」
 念のために言葉を命令形にするとイルカは一気に機嫌を悪くし、俺を激しく睨みつけながら今語った事を繰り返した。語り終えると俺の隣に置いてあったクッションに拳をめり込ませ、俺を一瞥してからもう一度拳をめり込ませ、口を大きく「への字」にして更に拳をブチ込んで、ドシドシと音を立てながら寝室に行ってしまった。
 せっかくイルカと会話を、しかも初めてまともに、これほど長く会話を成功させていたのにと俺は後悔する。しかし寝室に行ってイルカの機嫌を取ってみても、イルカはもう口を利いてくれなかった。
 その日、俺はイルカを眺めて夜を過ごした。
 イルカの笑顔を初めて見た日だった。イルカに初めて「お願い」をされた日だった。イルカと初めて普通に会話をし、その過去を初めて知った日だった。それだけじゃない。今日、イルカは夢や希望を語ってくれた。自分のことを色々語ってくれた。
 最後に失敗してしまったが、今日は良い日だったと思う。
 聡明な瞳で熱弁を奮っていたイルカを思い出して俺はクスリと笑う。
 今ここにいる眠っているイルカは聡明さとはかけ離れており、狭いベッドを独占する勢いで大の字になり、ぺろりと腹を出して大きな鼾をかいているからだ。
 イルカは可愛い。
 イルカは愛しい。
 



back novel next