カカシさんは翌日から家に来なくなった。
あれだけ頻繁に……と言うよりもほとんど俺の家に住みついていたのに、本当にぱったりと姿を見せなくなった。長期任務に出ているわけじゃなかったのに受付でも見掛けなかったから、きっと俺を避けていたんだと思う。
しかし一週間後、長い謝罪の手紙を寄越した。八つ当たりをするなんて本当に申し訳ないことをしたと何度も繰り返された手紙だった。俺達忍は、こと大部隊の指揮も執るカカシさんは、救えなかった命について感情を表に出すことがない。割り切りは何よりも大事だしそれができないと自分の足が動かない。後悔したって人の命は戻らないし、第一上忍のカカシさんは感傷に浸る時間もなく次々と任務を言い渡される。
だからあれは珍しいことなんだと思う。そのくらい悔しかったんだと思う。
だから、自分を恥じることも責めることもしなくて良い、カカシさんは頑張ったと思うって、俺は返事を書いた。もう気にしてない、いつでも戻って来てくださいと。
二週間経って、カカシさんは戻って来た。俺の家に。
それだけではなく、俺に対する疑念までまるっと暴露した。
あの戦場で起きたことが切っ掛けで、カカシさんは俺をかなり徹底して調べたらしい。過去に俺がどれだけ不自然な幸運を引き起こして、どれだけ木ノ葉に貢献しているのか。また、どれだけの人間に疑念を抱かれ、その疑念を払拭してきたか。
予想通り、カカシさんは俺を他里の間諜だと思っていたそうだ。意図的に木ノ葉のピンチを救う幸運のヒーローを演出してみせ、木ノ葉上層部の信頼を得て機密という機密を全て知ろうとしているのではないか。そしてその機密を他里に流そうとしているのではないかと。
けれど、調べれば調べるほど「うみのイルカ」は不可解だった。「うみのイルカ」が引き起こした幸運の中では、あの時の戦場のようなものは珍しい。むしろ、人の手ではどうしようもなかったこと……人災や事故を防いだものがほとんどだったのだ。更に言えば、キノコ狩りの時のようにほとんど人知れず起こっている幸運の方が遥かに多い。そして、「うみのイルカ」は密やかな幸運で人々を救っても、決してそれを口外しないし、逆に隠しているようでもある。
「貴方は予知能力があるのではないですか?」
カカシさんは正座をし、俺を対峙してハッキリとした口調でそう訊ねた。
俺は考える。
もしそうだと答えたら、けれど絶対に人には知られたくない能力なんですと答えたら、カカシさんはどうするだろうと。アルカナのことは言わずに、予知夢を見ることにしてしまえば良いんじゃないかと。
そしたらカカシさんは。
カカシさんは、俺の友達になってくれるんじゃないだろうかと。
監視者だったカカシさんは、俺を海溝の向こうに連れて行ってくれるんじゃないだろうか。そして本当の友人にしてくれるんじゃないろうか。俺はこの世で唯一、はたけカカシと深い繋がりを持った無二の親友になれるんじゃないだろうか。
「そんな大それたことできませんよ」
しかし俺はその甘い誘惑を断ち切る。
この人は俺と同じくらい木ノ葉を愛している。だから俺が予知能力があると言えば、必ず木ノ葉のためにそれを活かそうとする。根掘り葉掘り色々なことを訊いて来る。そして木ノ葉はアルカナが授ける俺の未来予知で、様々なことをする。
それは駄目なんだ。
運命の目を掻い潜り、決定されていない事柄を変えるのは神の共犯者ただ一人。それ以外は手出ししていけない。未来を知ってもいけない。
「秘密は守る。絶対に守るよ」
カカシさんは俺の言葉を信じず、そう続けた。けれど俺は最後まで否定し続けた。
どれほど粘られても認めるわけにはいかなかったんだ。
カカシさんと俺はその後、前みたいな関係に戻った。ひとつ屋根の下で仲良く暮らす同居生活だ。カカシさんが料理を作ったり、アオバから借りて来る変なビデオを一緒に観たりする仲良しな関係だ。
アルカナが言うには、カカシさんはもう俺の手紙を盗み見たりしなくなったらしい。俺を探っている様子は皆無になったらしい。けれどアルカナは気を抜くなと言う。カカシさんはやり手だから決して気を抜くなと。
分かってる。カカシさんが俺の疑念をまるっと暴露したことだって、きっとなかなか尻尾を出さない俺に対する作戦の一環なんだろう。そうに決まってるんだ。
でも、もし……もし、だけど。
カカシさんが俺を本当の友達にしようとしてくれているのなら?
俺を本当に信じてくれているのなら?
木ノ葉海溝の向こうで、にっこり微笑んで俺を手招きしてくれているのなら?
そう考えると無性に泣けてくる。海溝があるのはカカシさんだけじゃない、俺もなんだ。俺もカカシさんみたいにきっぱりと一線を引いて、そこから外に行けない、中にも入れさせない。
重大な秘密を抱えたまま生きるということは、なんて辛いんだろう。骨の髄まで人を疑うように教育されている俺達忍が、本当の親友を持つことはなんて難しいんだろう。
俺はカカシさんの友達になりたい。唯一の親友になりたい。
カカシさんを信じたい。
カカシさんに信じてもらいたい。
俺達の関係が更に大きく動いたのは、六月の半ばだった。
雨が続いたある日の夜、俺がアオバから「号泣必至! 木ノ葉の悲恋特集」っていう、お話が二話入っているビデオを借りて二人で観賞会をしていた時だ。
一話目は、それはそれは本当に哀しい、けれど一途な愛を貫き通した美しい恋の物語だった。俺は最後にヒロインが指輪を嵌めて海に沈んでいくシーンで涙腺が決壊、と言うか全壊し、涙どころか鼻水までボタボタ垂らしながら観ていた。カカシさんがティッシュをそっと寄越してくれたので、雰囲気をぶち壊して申し訳ないと思いつつも、何度もずびずびと鼻をかんでいた。
一話目のエンドロールが始まると、俺はしゃくりあげながら感想を口にする。
「か、哀しすぎっ…ます! 特にあの……あのっ…うう……あの猫が指輪を…」
「うん」
「持って、持って来てくれ…うううう」
「うん」
カカシさんは泣いている俺の目に指を当てて、優しく拭ってくれる。それから子供にするみたいに俺の身体を両足で囲むように挟んで、ぎゅっと抱き締めて背中をさすってくれる。
俺はカカシさんの肩に顔を埋めながら、まだしつこく泣きながらスンスンと鼻を鳴らす。
「俺はこういうの、あんまり好きじゃないな」
背中をさすってくれていたカカシさんが、ポツリとそんなことを言う。
「なんで?」
「だって悲恋って嫌じゃない? どれだけ愛し合っていても不幸に死んで終わりなんて嫌じゃない? 物語なら幸せで終われば良い。哀しいことは現実だけで充分だもん」
「でもこれ、実話だって」
「実話でもこうして映画になった時点で物語になるじゃない」
ハッピーエンドじゃないと嫌だったのかと思い、二話目が始まる前にビデオを止めてしまおうかと思った。
けれどカカシさんはリモコンを取り上げて、そんなことする必要はないって言う。
「好きじゃないけど、イルカ先生がいっぱい泣くの見るの楽しいから、良い」
「俺は泣いてません。断じて泣いてません。ちょっと目から体液が氾濫しただけです」
その二の腕を小突きながら反論すると、カカシさんが笑う。凄く楽しそうに笑う。俺の髪をぐしゃぐしゃと掻き回し、俺の目の下をちょいちょいと指で擽り、凄く楽しそうに笑う。
それからまたポツリと言った。
「俺は、自分の恋はハッピーエンドで終わらせたい。諦観しなくちゃならないことばっかりの人生だけど、恋だけは…恋だけは幸せに実らせたいんだ」
「カカシさんがそう望むなら、必ずそうなります。ハッピーエンドな恋に必ずなります」
「そう?」
「そりゃ勿論。だってカカシさんはカッコイイし優しいし、ハッピーエンドにならないわけない」
断言すると、カカシさんはまた「そう?」と言って少しだけ笑った。
今度は少し哀しそうな笑顔だった。
二話目が始まってから、俺達は少しだけそれを観る。ほんと、少しだけ。最初だけ。
どうしてかって言うと、カカシさんが俺を背後から抱き寄せて密着してきたからだ。そして俺は、背中に感じるカカシさんの鼓動がやけに早くなっているのが気になって仕方なかったからだ。カカシさんはしょっちゅうふざけて身体をひっつけて来るけど、今日はそういうのと違う気がした。だから余計気になった。
何ですかという意味を込めて少し身体を捻り、カカシさんを見る。
暗い部屋の中でテレビの明かりだけが光源となり、カカシさんの綺麗な顔に陰影を作っていた。光が強くなったり弱くなったりする度に、影も色を濃くしたり薄くしたりする。
なんて綺麗な人だろうと思う。
形の良い鼻も唇も、優しい瞳も銀色の睫毛も、その睫毛が作る影ですら、なんて綺麗なんだ。
カカシさんは俺を見詰めていた。
俺もカカシさんを見詰めていた。
互いの顔が少し近付いて、ああ、今度こそキスをするのかもしれないと思った。
そして本当に俺達はキスをした。唇を合わせるだけの、酷く優しいキスを。
俺は、はたけカカシの恋人みたいなものになるのかな。俺の秘密を暴きたいカカシさんが、もっと俺に近付くために俺を恋人みたいなものにしようとしているのかな。もしそうなら……ここまでするんだ、カカシさん個人の行動とは思えない。綱手様の正式な依頼があったのかもしれない。
カカシさんが少しだけ唇を離し、もう一度キスをしてきた。
今度はもっと深いキスだった。
俺はきっと嫌って言える。言える立場にある。
そうしたらカカシさんは謝ってくるはずだ。きっと、ごめんね今の忘れてって言う。それから友達みたいな関係に普通に戻る。俺はカカシさんと友達になりたかった。唯一の親友になりたかった。でも恋人になりたいなんて望んだことはないんだ。
嫌だって言える。断れる。冗談めかして、なにすんですかーって言えば良いだけ。
でもどうしてだろう。
カカシさんとのキスは、ちっとも嫌じゃない。