翌日、カカシ先生は休暇だったにも拘わらず受付に顔を出し、ソファーでのんびりと寛いでいた。昼の休憩時に全速力で家に帰り、カカシ先生の身の回りの世話をあれこれしていた時はいつもと変わらなかったが、何故か夕方にひょっこりと顔を出したのだ。忙しい人だから休める時にしっかり休んで欲しいのだが、目の保養になるので特に何も言わなかった。
 夕方の受付は混雑する。
 報告書を受け取り依頼書を渡す。帰還を喜び労いの言葉をかけ、説明や補足をして武運を祈り送りだす。ひとりひとり、里の忍達を相手にそんなやりとりを繰り返していると、見知った汚い文字で書かれた報告書が差し出された。
「お帰り、サムラ」
 顔を上げてニヤリと笑うと、少し日に焼けたサムラが嬉しそうに目を細める。
「上忍試験、どーよ?」
「いける。もう結婚は目前」
 サムラは上忍試験に合格したら彼女と結婚する約束をしている。
「お前を推薦したカカシ先生の顔に泥を塗るようなことになったら、受付特権でお前、外周り三年やらせるからな」
 半分以上本気でそう言うと、サムラは鬼だ悪魔だとケラケラ笑った。いくら受付特権など本当はないにせよ、俺のカカシ先生への崇拝ぶりを知っているサムラがこう屈託なく笑うということは、それだけ自信があるからだろう。サムラは基本的に自信家だが自分の力量は正確に把握できるタイプなので、上忍試験合格は確定のようだった。
 それにカカシ先生は以前、サムラは期待を裏切ったことがないと言っていた。そしてそのカカシ先生がサムラを上忍試験に推薦したのだ。
「結婚したらご祝儀は弾む。精神的に弾む」
「そこは現実的に弾んでくれ」
 報告書のチェックをして、判を押す。お疲れ。また飲みに行こうな。と、言葉を続けようとしたら、後ろから声がかかった。
「いつまでくっちゃべってんだ。早くしろ」
 サムラが眉を顰めたので、俺は慌てて立ち上がりすみませんと頭を下げた。サムラにお疲れ様と声をかけ、後ろに並んでいた長身の上忍にもう一度頭を下げる。お待たせ致しました、お疲れ様ですと。
 三ヶ月ほど前に外周りから帰って来たばかりのその上忍のことは、何度か受付で顔を合わせていたので知っている 。チラリとその顔と身体を見てから、俺は腰を下ろしてその人が書いた文字に目を通す。差し出された報告書に不備はなく、どこにも問題はなかった。内容的には。なので判を押す。
「明日の予定はどうなってる。さっさとしろ」
 不機嫌で威圧的な声を出すその上忍を、俺は顔を上げてしっかりと見る。顔から爪先まで、じっくりと見る。
 有難いことに上忍の横にはサムラが待機し、俺の判断を待っていた。
「さっさとしろと言っている。こっちは任務明けで」
―アウト」
 上忍の言葉を遮って小さくそう呟くと、サムラが親指を立てて「アウトー」とおどけた口調で繰り返し、その人の腕を掴んだ。ピンと空気が張り詰める。
「貴方は今日明日ゆっくり休んでください」
「お前なんの権限で!」
 怒気が膨れ上がる寸前で視界に白い閃光が走り、瞬く間に長身の上忍、サムラ、ソファーに座っていたカカシ先生の姿は消える。
「次の方、どうぞ」
 二人に感謝しつつ気軽に声をかけると、中忍が不思議そうに首を傾げながら足を進めた。



 受付の仕事を終えると、どこからともなくカカシ先生が現れる。どこかで待っていてくれたのだなと思うと、有難いと言うよりも勿体ないと思う。カカシ先生の貴重な休暇が。
 有難いと言えば受付での対処は本当に有難かった。
「あの時は有難うございました。あの方、どうでした?」
「ん。病院に突っ込んでおいたから問題ないと思うよ」
 あの長身の上忍は、任務を遂行できる状態ではなかった。顔色や爪の色からして明らかに血液が足りてなかったし、報告書の文字も内容も普段の彼のものとはかけ離れていた。常に悪筆なサムラと違い、あの上忍は非常に達筆で神経質な報告書を書く。恐らく目も霞んでいたのだろう。立っているだけで辛かったはずだ。
 血は止めたようだったが、足には大量の血痕があった。動脈を傷付けた可能性が高い。上忍は自分である程度は処置できるが、そんな状態ですぐに次の任務に出すわけにはいかなかった。本人は増血丸を飲んで何とかしようと思っていたのだろうが、ここは戦場ではないのだ。休める時には休まなくてはならない。
 上忍は自分より格下の者による負傷の指摘を酷く嫌うくせに、やたらと無理をする傾向がある。それを知っている俺達受付が、どんな想いをして彼等を見ているかも知らずに。彼等の矜持を傷付けることもできず、彼等を止めることもできない俺達が、どんな想いで彼等に依頼書を渡し彼等の背中を見送るのかも知らずに。
 今日は運が良かった。カカシ先生も以前は他の上忍と同じ傾向にあったが、今では俺の主張をよく理解し、こういった時は手助けをしてくれる。それにサムラもいてくれて良かった。もうすぐ上忍になるだろうサムラと高名なカカシ先生との二人揃っての説得なら、あの上忍も納得しやすかっただろう。俺一人ならこうはいかない。
「カカシ先生は、凄いです。優しいし美しいし、気も利く。混み合う夕方の受付で、アンタ失神寸前じゃないの。なんてことは言わずに素早く強制的に移動させ、それから説得してくれましたね。それによって彼の誇りを傷付けずに済んだ。カカシ先生は完璧だ」
 にこにこしているカカシ先生を称賛しつつ、夜遅くまで営業しているスーパーに入った。カカシ先生は外食でも良いよと言ってくれたけれど、里にいる時くらいは手料理を食べて貰いたい。それに俺はカカシ先生の好物で栄養を考えて食事を作るのが好きだ。カカシ先生のために料理を作りたい。カカシ先生のために部屋を掃除したい。カカシ先生のために、上等な酒を調達したい。
「今日はシチューが食べたいな」
 カカシ先生がそう要望する。俺は勿論その要望に応え―。
「あ、俺は今日カレーが食べたいです」
 ようと思ったが、隣に並んでいるパッケージを見たらカレーが食べたくなった。
 すみませんカカシ先生。俺は貴方中心に世界は回っていると信じてますし、俺も貴方中心に動きます。カカシ先生は俺の地軸です。だがしかし、俺は今、何故かカレーが食べたくなったのです。
「でも俺、シチューが食べたいもん」
 勝手にシチューの箱をカゴの中に入れられたので、俺はそそくさとそれを陳列棚に戻す。
「ではカレーかシチューかを賭けて勝負しましょう」
「シチュー食べたい」
「勝負です。上忍様が中忍如きに負けたりしませんよね?」
 俺は知っている。美しくて天才忍者のカカシ先生は、実はかなりの負けず嫌いなのだ。こうして挑戦的な視線を向ければ大抵。
「良いよ」
 勝負にのってくる。
「内容は俺が決めても良いですよね? どんな勝負でも天才上忍様が不利になるわけでもありませんし」
「勿論」
 軽く返事をしつつ自分の勝利を確信してシチューの箱に手を伸ばすカカシ先生を見て、俺は内心万歳をする。勝負あった。
「ではどちらがよりそれを食べたいのか、情熱的に語る勝負をしましょう」
 手を伸ばしたまま硬直したカカシ先生を尻目に、俺はカレーの箱をカゴの中に入れて買い物を続けた。
 サラダに使う野菜を栄養価が高く新鮮なものの順に選んでいく。任務中は野菜を多く摂ることが難しいので、里にいる間くらいは沢山食べて欲しい。肉も野菜も、カカシ先生が里にいる時は金に糸目をつけず、とにかく良いものを買う。その分一人の時に出費を抑えれば良いだけなのだ。
 帰り道、拗ねているカカシ先生が可愛くて可愛くて堪らなかった。家に帰ってからもカカシ先生は少しだけむくれていて、カレーを作っている最中などはこれみよがしに盛大な溜息を吐いていた。普段はどこもかしこも完璧で大人な態度を崩さないカカシ先生が、こんな子供みたいなことをする。こんな可愛いカカシ先生を知っているのは、きっとこの世で俺だけなのだ。
 そう思うと嬉しくて堪らない。
「できましたよ」
「シチューが?」
 わざとそんなことを訊ねるカカシ先生が可笑しくて仕方なかった。
「安心してください。天才上忍はたけカカシがその気になれば、カレーだって瞬時にシチュー味になります」
 皿を出しながらそう言えば、カカシ先生は「そう言われると、そんなような気分になってきた」と神妙な顔で呟いて、とても機嫌が良くなった。そして美味しい美味しいとカレーを食べ、二杯おかわりをした。



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