神経質なほど正確に切り刻んだ正方形の細かな紙切れを籠の中に入れて天井から吊るし、俺は正座をしてその時が訪れるのを待っていた。
俺がこれを用意したのは五日前、帰還予定は三日前、今から戻りますと式がやって来たのは二日前。順調に帰って来られればもうそろそろのはずだ。
夕飯の準備は万全で、サンマの塩焼きに茄子の味噌汁、ほうれんそうの御浸しに生姜が添えられたもずくの三杯酢は、食卓の上で今か今かと食べられるのを待っている。風呂も沸いているし家中どこもかしこもピカピカだし、洗濯だって当然完了済みだし、気合いを入れて布団も干した。俺ができることは全てした。あとは待つことだけなのだ。そう、待つだけ。
待ったさ。ああ、待ったさ。足も痺れたさ。
そして正座をして玄関のドアを睨み続けること四時間、ついにそれが動くや否や俺は中忍的頑張りの上限ギリギリの動きで素早く籠に括りつけておいた紐を引っ張り、神経質なほど正確に切り刻んだ正方形の細かな紙切れを上から盛大に降らせて叫んだ。
「おかえりなさいカカシ先生! 今回も任務成功流石です!」
わーっと拍手喝采をしてカカシ先生を崇め奉り、天才だ天才だと褒め讃えながらカカシ先生の身体を何気にチェックしていく。単独任務の場合それほどでもないのだが、複数で任務を行う場合には仲間を第一に考えるカカシ先生は負傷することが多い。今回はフォーマンセルだと聞いていたので心配していたのだが、特に目立った外傷はなさそうだ。
ん。でも腕に軽い切り傷があるな。
でもここで指摘してはいけない。上忍は負傷の指摘を何よりも嫌がるから。
「カカシ先生の任務成功率は木ノ葉の歴史に刻まれるべきです! 天才すぎます! ビンゴブック常連は伊達じゃないです!」
上手く俺の視線から腕を隠そうとするカカシ先生をベタ褒めしながら、俺は脚半を外し老舗旅館の女将のように恭しくカカシ先生を促す。紙吹雪にまみれたカカシ先生はニコニコしながら「ただーいま」と言って、足取り軽く部屋に上がった。
「ごはんにしますかお風呂にしますか、それともベッドで情熱的にあれこれしますか? 貴方のご要望に俺は全力を尽くします」
「ん、お風呂で情熱的」
「了解致しました」
カカシ先生がとっても可愛らしくニコリと微笑みつつ密かに拳を握ったのを視界の端で捉えてから、俺はその手を引いて脱衣所に行く。そして女中さんのように甲斐甲斐しくカカシ先生の衣服を脱がせ、自分も脱ぎ、浴室へ入る。
「美しいです。カカシ先生は美しいです。この寸分の無駄もなく完成された裸体。貴方の肉体はそれだけでひとつの芸術と呼ぶに相応しい。貴方の手も足も、腹直筋も広背筋も全てが完成されている」
伸びてきた手をさっと避けながら、俺はカカシ先生の頭にシャワーをかける。
「はい、そこ座ってください。はい、どうも。そしてこの髪。俺は貴方の髪が大好きです。この高貴な銀髪を俺はたまらなく愛しております。陽の光の下で見るのも良いですが、貴方の銀髪の美しさが最も発揮されるのは月光の下だということを知ってますか? それはそれは素晴らしいものですよ。特に雪の夜の月光に晒される貴方はまるで人外の生き物のようです。目に見えぬ銀色の光の粒が貴方の髪に当たり、柔らかく弾けて輝きを増し、そして夜の闇に溶けて行く様はこの世のものとは思えぬ美しさがあるのです。俺が詩人なら貴方の月夜の銀髪を一目見ただけで、一生涯貴方の銀髪について詩を書き続けるでしょう。どれだけ美しいものなのか、一生かけて表現し続けるでしょう」
こっそりと伸びてくる腕に気を付けながら、俺は愛するその銀髪を丁寧に洗っていく。任務明けなので二度洗う。泡まみれにしていると途中でカカシ先生が「んー」と甘えた声を出したが、全くもって聞こえないふりをした。
「はい、立って。はい、どうも。俺はこの背中が大好きです。男らしく、この人なら何とかしてくれるという頼もしさみたいなものを感じます。里を背負っている貴方の背中をこうして洗えるのは恋人としての特権ですよね。有難く、そして誇らしいことです。この腕も大好きです。貴方の腕の逞しさはどんな屈強な男にも負けません。さぁこっちを向いてください。ああ、この胸板」
「イルカせんせ」
「はい何でしょうか。ああ、この胸板。ああもう、何て素晴らしいんですか。なんか腹立ってきました」
「イルカせんせ」
伸ばされた腕をピシャリと叩き落とし、俺は熱心にカカシ先生の身体を洗っていく。怪我をしている腕を洗う時にカカシ先生は僅かに嫌がる素振りを見せたが、俺が何も言わないと分かると好きなようにさせてくれた。
それにしてもカカシ先生の肉体はいつ見てもほとんど凶器のような鋭さがあり、俺を感動させる。
「貴方の肉体に比べたら他の男の身体などなまくら刀みたいなものです。殺気を放っているわけでもないのに、何故これほどまでに鋭さを感じさせることができるんですか。貴方の身体を職人が生涯をかけ作り上げた凶暴な刀だとすれば、俺の身体なぞバターナイフみたいなもんです。バターナイフ! うわ、なんか余計腹立ってきました。なんですかバターナイフってパンも切れないじゃないですか。バターをさっくりと掬ってまったり塗るだけでナイフとも呼べないナイフとかあんまりじゃないですか。せめて小刀くらいにしろ!」
「イルカせんせ落ち着いて。それからそろそろ触らせてよ。俺の下半身がさっきから可哀想なことに」
カカシ先生の可哀想なことになっている部分には触れず、俺はせっせとその美しい身体を洗い、自分の身体もざっくりと洗い終えると先に浴槽に入った。
入浴剤を入れて香りを楽しみ、浴槽の縁に顎を乗せ、ポカンとしているカカシ先生を見上げる。
「イルカせんせー。約束違う」
唇を尖らせて仁王立ちしているカカシ先生を見て、俺は笑いそうになる。子供が拗ねている表情そのままだ。
「約束は守りました」
「お風呂で情熱的に不埒なことするんじゃないの?」
可哀想なことになっている部分が、未だ衰えない。流石上忍だと俺は感心する。
「不埒なことするなんて言ってません。お風呂で情熱的、とカカシ先生はおっしゃられただけです。そして俺はその御要望に全力を尽くしました」
「アンタ身体洗ってくれただけじゃないの!」
「お風呂で情熱的にカカシ先生を褒め讃えました」
「俺はお風呂で情熱的に不埒なことがしたかったの!」
「断固拒否。俺にとって風呂場はまったりと心身の疲れを癒す場所。それは譲れない」
うーんと腕を上げて浴槽の中でできるだけ身体を伸ばし、カカシ先生の可哀想な部分から視線を逸らす。カカシ先生はずっとブツブツ言っていたけれど、唯一放置されたその辺りをちゃんと自分で洗って足を浴槽に入れてきた。
すかさず俺は自分の足でそれ以上の侵入をガードする。
「ちょっと! 一緒に入らせてくれても良いでしょー」
「嫌です。狭いし」
「俺、任務明け。優しくして!」
「この世ははたけカカシのためにあると俺は考えます。はたけカカシを中心に世界は回り、俺も回ります。だがしかし、俺の癒し風呂タイムは誰にも邪魔させない!」
ビシっと言い放つと、酷い酷いと詰られた。
ヤリたいのならベッドって言えば良かったのに。そうすれば俺はどれだけでも全力で尽くしたのに。カカシ先生が望むことなら、本当にどんなことでもしたのに。
任務明けにこんな酷い目に合って、カカシ先生はなんて可哀想なのだろう……とは思いつつ、俺の風呂タイムは譲れない。家の風呂という場所は風呂好きの俺にとってある意味特殊保護枠、絶対領域、不可侵入域、世界と俺はカカシ先生を中心に回っていると雖も、ここだけは別宇宙。
とは言えあまりにその肉体の特定部位が不憫なので、俺は浴槽にとっぷりと浸かりながら滔々とカカシ先生を褒め讃え続けた。カカシ先生を褒めることに関しては、俺は誰にも負けない自信がある。一週間不眠不休で絶賛し続ける自信すらある。むしろ命尽きるまでカカシ先生を讃えることが確定している。
その類まれなる忍センスと偉大な任務達成率を褒め倒していると、すぐにカカシ先生の機嫌は回復した。カカシ先生はこういう部分がとても単純なので有難い。それに俺に褒められてニコニコしている様はとても可愛い。
良い具合に身体が温まると場所を交代した。俺は髪を洗い、カカシ先生は湯船に入る。髪を洗い終えると浴槽の縁に腰を下ろし、足だけ湯の中に入れて色々な話をする。俺はカカシ先生が任務に出ていた時に里内で起こった出来事なんかを報告して、カカシ先生は任務先で見た光景や珍しい食べ物などの話をしてくれた。
「イルカせんせ、キスして」
カカシ先生がキスを強請る。
顔を寄せて触れるだけのキスを繰り返していると、カカシ先生の腕が俺の足をゆっくりと這い上がってきた。だから精一杯の愛情溢れるキスを贈りながら、その腕を抓った。
「頑固者めー」
カカシ先生がそう言って両手を組み、笑いながら水鉄砲を作って湯をかけてくる。
「黙らっしゃい」
俺も負けじと笑いながら湯をかけた。
それから風呂を出て、飯を食って、済ませることを済ませると。
今度こそ、俺はカカシ先生の要望に全力を尽くした。