四日目も五日目も、私は彼に会った。
 彼は毎朝おにぎりを作って来て、森の中で私と食べる。沢で水を汲み、それを飲ませてくれる。何でもないことばかりだけど、彼は色々な話を語って聞かせてくれる。この森の木々や草花のこと、ここから見える空の色のこと、子供達のこと、里のこと。それからずっと手を握ってくれる。たまに髪を撫でてくれる。
 小鳥の巣があるよと笑顔を全開にして彼が言い、それを二人で覗き込んだ時、私は無条件で愛される雛が憎いと思った。雛は母鳥に何もしなくても愛される。賛同しなくても良ければ美しくなくても良い。愛を求めることすらしなくて良い。求めることすら、だ。捻り潰してやりたいと思った。でもすかさず彼に「駄目」と言われた。あの瞳で柔らかく「駄目」だと言われた。汚らわしい虫が私に付いた時も、それを振り払い踏み潰そうとしたら「駄目」だと言われた。
 彼のその言葉には説得力があり、私はそれに従った。高圧的な物言いではないのに彼の言葉はどこも澱みがなく迷いもなく、私にそれらの行為を止めさせるだけの力があった。
 それは私が初めて見る類の力だった。
 六日目は朝だけではなく夕暮れ時にも彼と会った。夕日に赤く染まる里を見下ろしながら彼は私に歌を教えてくれた。大切な人の帰還を待ち続けるという内容の、里の者が好んで歌う歌だった。でも私にはそんな者いやしない。待ちたいと思う誰かも、待ってくれる誰かもいない。殺したい者なら山のようにいるのに、私には誰ひとりとして大切に思う者がいない。家族も死ねば良い。友人なんていやしない。大切に思う人間なんて、自分以外の人間を全て軽蔑の対象にしている私にいるはずがない。
 それでも私はその歌を覚えた。数日経てば私は死ぬのに、彼が歌うから。俯く私に歌うから。
 七日目の朝がやって来た。
 私が火影岩に上ると、彼は既にそこにいて私を手招きした。呼ばれるまま彼に近付くと、彼はトントンと自分の膝の上を叩く。暫く逡巡してから、私はそこに腰を下ろした。
「おはよう」
 と、彼は言った。私もおはようと返事をした。
 それから彼はアカデミーの生徒に教えて貰ったらしいマジナイを教えてくれた。そんなものは所詮子供の遊びで甚だしく馬鹿馬鹿しいものなのに、彼はやけに懸命に私にそれを覚えさせた。拳を握り親指だけを立て、左右の親指の腹と、それから曲げた人差し指の第一関節を合わせる。尖った親指を自分の胸に突きさして、願い事を「逆さ」に言うのだそうだ。
「レドモテキイ」
 彼は私の前でそれをやって見せ、そう言った。とても真剣な顔で。
「レドモテキイ」
 何度も言った。私を真っ直ぐに見詰めながら。
 最初、写輪眼が任務にでも出ていて、その帰還を願うものなのだと思っていた。だが彼は私を見て言う。私の目から一切視線を逸らさずに、語りかけるようにそう言う。
「私のことを知っているのか?」
 と、私は訊ねた。彼は火影からの信頼も厚い。もしかしたら何か聞いていたのかもしれないし、それどころか実は私を監視していたのかもしれない。私は警戒し、私に対する裏切りに備え嫌悪を露にする。
「知らない。君は名前も教えてくれないから。でも君がどこかに行くことは分かる。多分、戦場」
 と、彼は答えた。そしてもう一度「レドモテキイ」と言った。きっぱりとしたその物言いから、私のことは本当に知らないように思えた。
 しかし、知らないからそんなことが言えるんだ。私が何をしたか、私がどんな人格なのか、私の精神の穢れはどれほどのものなのか。それらを知ればそんなことは言えなくなる。いや、それでも彼はそう言うのかもしれない。彼の健全な精神は清らかにそう願うのだろう。下品で世俗的な私と違い、人の不幸を何よりも悦び人の不幸によって優越感に浸る私と違い、彼は人として正しくそう願うのだろう。
 唐突に、初めて彼を見た時の感情が甦った。
 それは純然たる憎悪。満たされている者、自分より幸福な者、自分より何か優れている者、自分以外の全てに向かう嫌悪感。
 殺してやろうか。この能天気な中忍を。今ここでこの男を殺して、すっきりして死地へと向かおうか。それでも良い。良いんだ。何もかも関係ない。激しい憎しみと病が私を蝕んでいく。負の感情だけに支配されて私は生き、そして死ぬのならばそれも良い。私は私のしたいように。
 そう思った時、彼が私の頬を両手で挟み、真っ向から私を見詰めた。中忍とは思えぬ力強さで。
「貴方が危険な人だと言うことは、何となく分かります」
「何故?」
「カカシ先生が俺から離れないから」
 息を飲み目線だけで周囲を見渡すと、確かにそこに写輪眼がいた。木の陰に隠れ、冷たい視線で私を監視する男がいた。
 気付かなかった。今まで、一度として写輪眼の存在に気付くことはなかった。この私が。
「貴方は危険な人かもしれない。しかし俺は貴方を放ってはおけなかった。力一杯咆哮したいのにそれすらできない貴方を放ってはおけなかった。貴方はもっと強くなるべきだ。そして、戻って来てください。俺が貴方の咆哮を全て聞きますから」
「強くなるべき?」
 私は心の底から嗤い、それから殺気を漏らした。
「私は強い。お前など一瞬で殺すのは容易い。写輪眼を相手に、いや監視の暗部も纏めて相手に出来るほど強い。お前も私を認めないのか。火影のように。私を囲む多くの人間のように」
 殺気立ち嘲笑する私を彼は強い視線で縛る。
 何故。どうしてそこまで揺るがないんだろう。たかだか内勤の中忍風情が、上忍の、この私の殺気を浴びて何故怯えないんだろう。どうしてこんなにも私を真っ直ぐ見据え、私を捉えるのだろう。
 見られる。私の薄汚い精神を。人を蔑み罵り他人をコキ下ろすことしか出来ない、蛆虫が集る私の精神を。
「顔を上げて俺を見て。貴方が本当に強いのなら、俺を見て」
 見てどうなる。嗤うのか? この魂を憐れむのか? 気休めの言葉を掛ける気か? 私を叱るのか? また駄目と言うのか? 私を否定するのか? 私を認めないのか?
「強くなれなんて、所詮強者の戯言だ。お前は生まれながら盲目の人間に空の色を思い浮かべろと言えるか? 生まれながら腕のない人間に抱きしめろと言えるか? 生まれながら羽のない人間に空を飛んでみろと言えるか? 良いか良く聞け。【私はそのように作られていない】のだ。わたしは、そのように、作られていない」
 強ければとっくにこの腐敗サイクルを止めている。他人を認める人間になれている。人の幸福を自分の幸福と心から祝福する人間になれている。嫉妬する自分を止められる。他人のことなどと嘯いていながら、毎日毎日他人のことばかり考える、他人の目に映る自分のことばかり考えるこの思考を止めている。
 下衆な精神をお前は知らないのだろう。想像も出来ないのだろう。下衆の中で生まれ下衆の中で育ち下衆の思考しか出来ない者のことなど、何も知らないくせに。私がこの一週間で幾度お前の不幸を願ったか。幾度あの写輪眼に、公衆の面前で惨めに捨てられる様を想像したか。いつかそうなるに決まっていると、願望に満ちた想像でお前のまだ見ぬ不幸を幾度せせら嗤ったか。
 お前には一生分からないだろう。自分に圧倒的に欠落しているものへの渇望感と憎しみ。そして、憎悪の裏にある苦しいほどの憧れなど。胸を切り裂くほどの憧れなど。この腐敗した魂の絶望など!
「いつかまた俺の元に戻って来て」
 彼はそう言って私を抱き締めた。
 生まれて初めて、私は他人に抱き締められた。
 強く、とても力強く。
「戻って来たら、貴方が溜めこんだ咆哮を聞きます。そして貴方が知らない貴方の良いところを、全部見つけます。だから戻って来て。この里に、俺の元に戻って、俺を見て叫んでください。何もかもを」
 何故殺気立つ私をこうもしっかり抱き締めることができるのだろう。何故こんな私にまでこうも慈愛に満ちた眼差しを向けることができるのだろう。何故私を見てくれるんだろう。
 今にもお前を殺しそうなのに。
 焦がれて、焦がれて、お前のそのあまりに澱みない、揺るぎない、迷いのない精神に憧れて、今にもお前を殺しそうなのに。
 なのにお前ときたら、愛しそうに私の髪を撫でる。
「俺はうみのイルカです。貴方は?」
 本当に小さな子にそうするように、彼は私の髪を撫でる。
「スイ」
「スイ。良い名前だ」
 殺したい。イルカを殺したい。歪みようのない、悪質なものなど一切寄せ付けない精神を持つイルカを殺してやりたい。でもイルカはそう言って私を抱き締め私の髪を撫でる。良い名前だって言って。
 私を抱きしめて私の髪を撫でる。

「イ……タ…リワカ」

 今にも消えそうな、掠れた声で。
 私はイルカに教わったように、拳を握り親指だけを立て、左右の親指の腹と曲げた人差し指の第一関節を合わせ、尖った親指を自分の胸に突きさして、そう呟く。
「イタリワカ」
「うん」
「イタリワカ」
「うん。スイ、良い子」
「イタリワカ」
「うん。大丈夫、怖くない。大丈夫」
 褒めて。イルカ、私を褒めて。撫でて。抱き締めて。もっと見て。私を認めて。
 里に戻ったら、イルカに愛してもらう。アカデミーの生徒達のように、絶対的な愛を貰う。慈悲溢れる眼差しを向けてもらう。しっかりとイルカを見詰めて、どれだけ苦しかったか、どれだけ辛かったか聞いてもらう。
「イタリワカ」
「うん」
 強くなりたい。
 健全な精神を持って生まれ変わりたい。
 そしてイルカに愛してもらう。
「イタリワカ」
 私はイルカの魂になりたい。
 生き伸びて、生き伸びて、生き伸びて、強くなって。
 イルカのような真っ直ぐな魂になって、生きて里に帰ると私は誓う。

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