彼はアカデミーの校庭で、生徒に肩車をしてやっていた。肩の上で煩そうにはしゃぐ子供の他に、彼の周りには四、五人ほどの子供がうじゃうじゃと群がっており、手を引いたり目を輝かせて彼に話しかけたり、または彼の腰にしがみついたりしていた。何をしていたのかは分からない。放課後に生徒達と戯れていただけなのかもしれない。ただ彼等はやけに楽しそうで、私とはまるで違う世界の住民のようだった。
夕日に照らされ長い影を作る、穢れを知らぬ健全な精神を持った者達。よく笑いよく泣く、テレビや映画に出てくるような普通の者達の何気ない日常の欠片。恐らく多くの者達が心の中に持っている、あたたかい情景の中のひとつ。
私がぼんやりと彼等を見詰めていると、彼がふと夕日を眺めた。遠くからでもはっきりと分かるような、動物の母親のように純粋な慈愛に満ちた目で。
私の魂のように醜い夕日を、闇に融解され腐り落ちて行くような夕日を、彼は愛しそうに眺めたのだ。
私がその時感じたものは、純然たる憎悪だった。
彼のことは知っていた。ひとつに括られた黒髪、顔を横切る大きな傷、アカデミーの教師。姉が密かに想いを寄せているはたけカカシの恋人だということは一目で分かった。里の誉れである上忍の恋人が冴えない中忍、しかも男だという話題は姉から散々聞かされていたからだ。うんざりするほどの誹謗中傷とともに。
彼は姉に憎まれて当然の人間だった。あたたかな眼差しを持ち、誰もが憧れる恋人を持ち、子供に囲まれ健やかな生活を送り幸福に満ちている。憎まれて当然なのだ。姉に。私に。
彼には一生分かるまい。自分に圧倒的に欠落しているものへの渇望と憎しみなど。
拳を握り締めその情景を見詰めていると、子供達が手を振って彼から離れて行った。彼もまた子供達に手を振り返し優しい眼差しで見守る。そうして、子供達の姿が見えなくなると漸く歩き出した。
私はじっとそれを見ているだけだった。彼の姿が視界から消えるまで。
家に帰ると母親がヒステリックに怒鳴りつけてきた。一族の恥さらしだと喚かれた。父親は私が死の戦線に出るまで一度も帰って来ず、姉は私の所業に怯えたようで一度も話しかけてこなかった。妹は私の顔を見るなり「可哀想な人」だと言った。私は殴らなかった。所詮妹も私達家族と同じ病に冒されているのだ。言い回しが違うだけ、ベクトルが違うだけで、私達が他人を蔑み自分を保つ代わりに、妹は他人を憐れんで自分を保っているだけなのだ。
思い残すこともないし、しなくてはならないこともない。私が火影と交渉した上にもぎ取った最後の一週間、特にこれといった目的などなかった。だがどうしてか時間が欲しかった。私の病んだ精神が最後に何を望むのか、知りたかったのかもしれない。
その日の夜は、驚くほど良く眠れた。私は早朝に目覚め、コップに一杯の水を飲んでから家を出て散歩に出かけた。子供の頃、比較的大人しかった私は家の中で遊ぶことが多かったし、中忍になってからはすぐに外周りに出されたので、私には木ノ葉の里を散策した記憶がない。どこもかしこも初めて見る景色のようで、とても新鮮だった。
子供のようにはしゃいでみようと思った。私を監視する暗部の目はあったが、どうせ一週間経てば私は死地へと送られる。その間は、自分の思うままに振舞ってみようと決めた。殺したかったら殺せば良い。笑いたかったら笑えば良い。蔑みたかったら蔑めば良い。私の思うがままに。
どうせならと、子供の姿に変化をした。小さな身体と低い視線は楽しく、私は自分の思いつきに得意になった。
森の中を駆け回り、小さな身体のまま監視する暗部を捲いてその後わざと見つかってやる。そしてまた捲いてやる。それを繰り返して高笑いをした。何と言う無能な人間。何と言う弱者。何と言う力差。暗部も私に掛かればこの程度なのかと笑いが止まらなかった。
ひとしきり暗部をからかって遊んでから、私は火影岩の上に降り立った。眼下に広がる光景を見下ろし、私がその気になればこの里を半壊出来るだろうと悦に浸った。これだけ里に尽くしてきたのに、里は少し常軌から逸しただけでこの有能な私を処分しようとする。どうせ死ぬなら殺したいだけ殺してみようか。力尽きるまで、下衆な魂を持つ私の苦悩など何も知らず健康に生きている者達を殺して回ってやろうか。無垢な瞳を絶望に変え、悪戯に残虐の限りを尽くしてみようか。
良い案に思えた。何も里に従う義理はない。私は私の思うようにする。
しかしその時、またもや彼と出会った。
階段を上り私に気付くと、彼は優しい笑顔で「おはよう」と声を掛けてきた。周りに暗部はいない。写輪眼もいない。その時、男の命は私の手の上にあった。
「見かけない子だな。アカデミーには通っていないのかな?」
彼はそう言い、図々しく私の隣に腰掛けた。他の全ての子供に向けるような瞳で私を見詰めながら。
愚かな男。私がその気になればアカデミー生全てを数秒で殺せると言うのに、そして私はそれを実行出来るのに、その時の私に留め金などなかったのに、彼はそんなこと何も気付かず私に近付き声を掛ける。それはそれは優しい瞳で。
「俺は、うみのイルカって言うんだ。アカデミーで先生をしてるんだよ。君は?」
彼は私を覗き込む。その慈愛溢れる瞳を見て、本気で殺そうかと思った。役立たずな中忍、しかも戦地にも出ない内勤風情がのうのうと生き、気安く私に話し掛ける。いかにも真っ直ぐに育ち愛情に溢れた生活を送っていると言わんばかりの、捻り殺したいほどの笑顔を私に向ける。
虫唾が走った。
「この里の子なら、忍術は見たことあるよね? 怖くないからね」
彼はポケットから紙切れを一枚出すと苛立つ私に変わらぬ笑顔を向け、のろのろと印を結んだ。何てことはない、ただの式だ。
小鳥に姿を変えた式は空高く旋回し、私の肩の上に降り立って言った。
「オハヨウ、オハヨウ、名前ヲ、教エテ!」
「怖くないよ。大丈夫だよ」
彼の言葉に思わず失笑する。
「怖くないよ。名前を教えて?」
今の今まで殺気が漏れる寸前だった私に、彼は何度も「怖くないよ」と繰り返す。何が? 何に対し? この、出来損ないのくだらない式について、怖くないよと言っているのか?
目を逸らして鼻で笑い、私は肩に乗った式を手で掴む。そしてそれを握り潰そうとした時、彼の手が私の手に重ねられた。
「駄目」
彼は真っ直ぐ私を見据え、その瞳と同じだけ真っ直ぐな言葉を柔らかく寄こした。それは反感を抱く隙もない、中忍とは思えないほど揺るぎのない、極めて力強い瞳だった。
彼の手が、そっと私の手を握る。私は子供に変化したままだったから、彼の手はやけに大きく感じた。
その日、私は一言も喋らなかったけれど、彼はどうでも良いことを話し続けていた。里を照らす朝の光のことや、木漏れ日や、私の黒髪、それから虫や鳥について。顔を叛ける私の手を、ずっと握ったまま。
二日目も彼に会った。
火影岩の上に座っていたら彼がやって来て、やっぱり私の隣に腰を下ろして手を握った。そして持参していた絵本を何冊か読んだ。私にだ。いくら変化しているとは言え、絵本など読む年齢でもない私に向かってだ。
「どこが、一番好き?」
と、彼は訊いた。そっぽを向いたままの私が返事をしないと分かると、彼は頁を捲って駝鳥が大きな木になった絵を指して「俺はここが一番好きだ」と言った。「泣いてしまう」とも言った。
彼はそうやって私に読んで聞かせては「どこが一番好き?」と訊ね、私が答えないと「俺はここが好き」と勝手に語った。そこに何の意味があるのか全く理解できなかったし、馬鹿にされているのかもしれないとさえ思った。しかし私は彼を殺すこともその手を拒絶することもしなかった。殺そうと思えばいつでも殺せるんだ。今はただの暇潰しなんだと、そう思った。
三日目も彼に会い、手を繋いで森の中を歩いた。
朝日を浴びて草木を眺め、信じられないくらい他愛もないことを彼が一方的喋っていた。あの木はもうすぐ綺麗な花を咲かせるだの、昨日忍具を扱う授業で服を破いただの、あそこに野兎がいるから見てみろだのと。
それから具合の良さそうな陽だまりを見付けるとそこに腰を下ろし、私を座らせ、肩にかけていた鞄の中からアルミホイルの包みを取りだした。
「おにぎり、作って来たんだよ。朝ごはんまだだったら、一緒に食べよう」
彼はそう言い、顔を叛けて黙りこくっている私におにぎりをひとつ寄こした。アルミホイルに包まれていたそれは貧乏ったらしくて不格好なものなのに、彼があまりに美味しそうに食べるから、私に差し出す手を引っ込めようとしないから、私はそれを受け取る。
梅が入ったとてつもなく平凡なおにぎりだったが、味は良かった。漬物もくれた。玉子焼きもくれた。甘い玉子焼きで、私が「甘い」と言うと彼はとても喜んだ。
「初めて喋ってくれた」
そう言って、私の髪を何度も何度も撫でた。とても優しい顔をして。
私はその日、自宅に帰ると自分の荷物を全て整理し家を出た。そしてもう二度とそこには帰らなかった。