この世は地獄だ。
 しかし幼い頃はそれが普通だと思っていた。世界は小さく、私の周りには家族しかいない。私は膿みきった小さな世界の中で、それを当たり前のものとして生きていた。ゴミ溜めの中に産み落とされれば嗅覚は直ぐに麻痺し、そこがどれほどの悪臭に満ちているのか気付く事など出来やしないのだ。
 妹しか愛さない屑のような母親、何もかも自分の思い通りにならないと癇癪を起こしすぐに暴力を振るう低能な父親、傲慢で頭の悪い姉、そしてどうすることも出来ない悪質な遺伝子を受け継いだ私。小さな小さな、歪で吐き気がしそうな私の腐敗した世界。
 私はそんな中で育った。そして世界は全てそういうものだと信じ込み、あろうことか自分は選ばれた人間だと思い込んでいた。
 他人を見下すことしか出来ない家族の中で育ったからだろう。人は誰かを非難し蔑視することで、自分はその誰かより高みにいる気分になれる。誰よりも冷静で知的な気分になれる。だから毎日繰り返される家族による他者への批判を耳にする度に、私は私の家族が里の誰よりも優れており、その血縁者である自分もまた同じように優れているのだと錯覚してしまったのだ。
 私は同じ年頃の子供を見る度にせせら嗤った。くだらない、馬鹿らしい、なんて低能な会話なんだろうと他人を常に全力で否定した。私はお前達のような者とは違う、一緒にしてくれるなと他人を否定した。そんな私に友人など出来るわけもなく、それでも必死でクラスメイトの話に耳を傾け、家に帰れば彼等または彼女等の話題を思い出しそれを馬鹿にして独りで悦に浸った。
 姉も同じだった。私より若干社交的だった姉には幾人かの友人がいて、姉はそのグループの中心格だった。そしてその友人達と毎日他者を蔑むのだ。蟲のように固まって、皮肉めいた笑みを口元に浮かばせコソコソと他者を馬鹿にするのだ。更に家に帰れば私を相手に姉は自分の友人達を蔑む。時には「だからお前は馬鹿なんだ」と私を嗤う。
 母は更に屑だった。スーパーで並ぶ前の者の籠の中を覗いて、それが豪華なものならばとにかく罵詈雑言を並べ立て、貧相なものならば「貧乏人が」と鼻で嗤うような下衆で俗物的な屑だった。いつも他人の目を気にし、いつも他人をじろじろと見ては品定めする。恐ろしく低俗な視点で他人を値踏みする。そして何よりも、母は妹しか愛さない屑だった。妹は病弱だが、誰もが羨むような美貌の持ち主だったからに違いない。綺麗な子だねと周りの人間が口にする度に、母は馬鹿みたいに喜んでいたから。
 父は、誰も愛してはいなかった。自分以外は。
 私はそんな家族に囲まれて育った。そして家族とは、世の中とはそういうものだと認識したまま成長した。
 姉がしきりに夕日紅の話をするようになっても、私は自分の世界の異常性を感じることはできなかった。姉はアカデミー時代からやたらと夕日紅を嫌っていたが、彼女が姉より先に中忍になると毎日のように口汚く罵るようになった。運が良かっただけ、男に媚びを売るのが得意なだけ、幻術だけの低能。姉は私を相手にあらん限りの言葉を使って彼女を罵倒し続けた。
 しかしすぐに夕日紅は里から期待される中忍の一人として有名になった。姉の言うように運だけでは、幻術だけではこうはいかない。忍社会は実力がなくては誰からも相手にされないのだ。私は姉が、ただ単に彼女に嫉妬しているのだと初めて気付いた。
 アカデミーを卒業すると、私は同期の中で最も早く中忍になった。その時の姉の嫉妬も凄まじかった。私は家に帰るのが疎ましくなるほど姉に厭味を言われ、如何に私が姉より劣った人間なのかを滔々と説かれた。姉の友人達の前で過去の失態を暴かれたりもした。それでも私は、私の家族と私の世界が正常だと信じていた。
 しかし決定打はやってきた。私は夕日紅と同じ任務に就き、そして彼女の人柄と実力をまざまざとこの目で見ることになったのだ。
 除け者だった私にも彼女は平等に話しかけた。横柄な態度の私に対し、姉のように影でコソコソと悪口を言うわけではなく、彼女はその場で私を叱った。キツイ人だったが後に残るような言葉は使わず、叱った後も何かと中忍になったばかりの私の世話をした。それも、恩着せがましさを一切感じさせずに。
 戦闘時の指揮も素晴らしかった。彼女は理性的で、とても勇敢だった。誰も彼もが彼女の言うことを信じ彼女に従う。彼女の指示を待つ。そして彼女の勇気に励まされて闘う。
 夕日紅は、尊敬に値する人間だった。
 姉が彼女に嫉妬していると分かっていつつその言葉の数々に感化され彼女を蔑んでいた私にとって、それは自分がいる掃き溜めの臭いに気付かせるには充分な出来事だった。
 一度臭いが鼻に付けば後は我慢ならなくなる。
 姉さんを見る目が変わった。母さんを見る目も父さんを見る目も。
 姉さん、貴方は自分が如何に愚かで惨めな存在か分かっているか? 貴方は自分のプライドを保ちたいがために人を見下す。人を蔑む。でもそうすることでしか保てないものは、プライドとは呼べない。それは誇りなんかじゃない。貴方が必死で守っているものは、誇りなんかじゃない。何故そこまで人の悪口を言う? 何故いつも人を見下すことしかできない? それを考えたことがある? 貴方は誰かを蔑視することでしか自分を保てないのだろう? 薄っぺらな人生。薄っぺらな人間。誰かを非難することで、自分は誰よりも賢く一段上から他者を見下ろしている気分でいられるからそうする、ただそれだけの惨めな人間。
 見てごらんなさい。貴方の周りにいる人間も、貴方と同じ。屑の周りには屑しか寄りつかない。貴方、アカデミーでも今でも、夕日紅に相手にされなかったのだろう? あの人に相手にされないような人種が、貴方の周りに集まっただけなのだろう? いつも誰かの悪口を言い合うような人種に囲まれているだけなのに、それなのに世の中は全てそういうものだと思い込んでいるのだろう? 本当の友人なんて一人もいない、でも皆そんなものだと思い込んでいるのだろう?
 違う。違う。
 貴方が密かに憧れているはたけカカシ。そして夕日紅。あの人達に一生相手にされないのが、姉さん。貴方みたいな人種だ。客観的に見れば分かる。中立的な視線で見れば分かる。貴方は恐ろしく惨めな存在。
 諸悪の根源である母さん、貴方が私達にこの歪んだ世界観を植え付けた。
 どうして子供の前でいつも他人を馬鹿にしていた? どうして子供の前で平気で人の悪口を並べ立てることができた? 毎日毎日、どうして誰かを見下す発言しかできない? そして、どうして妹だけを愛した? 美しいから? 他人が妹の容姿を褒めるから? ただそれだけで?
 貴方が妹を褒める度に姉さんがどんな目をしていたか知っているか? 姉さんがどれほどの憎しみを込めて妹を見ていたか知っているか? 姉さんは貴方に褒めてもらいたくて必死だったことを知っているか? 貴方が誰かを貶す度に何故姉さんはああも懸命に話を合わせていたか、考えたことはあるのか?
 母親だというただそれだけ。ただそれだけで、姉さんと私から永遠に愛を乞われる存在なのに、貴方は私達に愛を与えなかった。貴方にとって私と姉さんは家族ではなく賛同者。背くことを許されない絶対的な賛同者。貴方が貶す相手は、私達も貶すことを自然と義務付けられていた。
 私の小さな世界は腐っていた。腐りきっていた。毎日飽くことなく繰り返される根拠も何もない憶測だけの誹謗中傷。他人の不幸を望む声。他人の不幸を嘲笑う声。他人の幸福を妬む思考。気に入らないとどこまでも執拗に他人を口汚く罵る、おぞましい世界。そんな、小さな小さな、歪で吐き気がしそうな私の腐敗した世界。
 それが異常だと気付いた時には、既に手遅れだった。
 せっかく気付いたのに。客観的な視点で世の中を見渡し、漸く自分の勘違いに気付けたのに。腐りきった精神の臭いに吐き気がし、漸く正常な嗅覚を取り戻したと思ったのに。
 私の病は、取り返しのつかないところまで侵攻していた。

 病は精神を蝕み、澱みを作る。澱みを苗床にし、病は更に悪化する。
 蝕まれた精神は人を羨むことを止めず、人を蔑むことを止めず、人を憎み続ける。
 臨界点に達すると、その病は自動的にサイクルをはじめる。
 蝕み、澱みを作り、更なる嫉妬を呼び込み、また蝕み、澱みを作り、負の感情を増殖させるサイクルを。
 増殖をし、増え続けることによって病はそのサイクルを強固にしていく。
 完璧なシステムのように。
 本人が止めようと思っても、そのサイクルは絶対に止められない。
 自分の意思とは関係ない場所で、着実にそれは私を喰らっていく。

 そう、知らぬ間に私は病に冒され、その病は既にそのサイクルを始めてしまっていたのだ。
 私は私の知らない内に腐った肉親と同じ思考を持っていた。どうしても止められない。人を蔑み貶し見下し憎むことが止められない。嫉妬が抑えられない。他人の幸福が許せない。他人が楽しそうにしている、ただそれだけで私の病は悪化する。他人が他人に認められている、ただそれだけで私は耐え切れぬほどの醜い思考に支配されてしまう。
 夕日紅を見る度に思う。
 あの女より私の妹の方が美しい。あの女より実力のある幻術使いを知っている。あの女は男に媚びを売る女。誰にでも良い顔をして、そうまでして人気を得たいのか。あの女の喋り方が嫌いだ。あの女の足の形が嫌いだ。偉そうに。偉そうに。偉そうに。あの女より私の方が、私の方が、私の方が……私の方が、きっと強い。
 夕日紅は尊敬に値する人間だと分かっているのに、どうしても認められないもう一人の私がいた。客観的に物事を見たいと思っているのに、自分より美しい者、優れている者に対し心の中で誹謗中傷を止められないもう一人の私がいた。
 私は自分の精神から発せられるおぞましい腐敗臭に絶望せざるを得なかった。
 姉や母のような人間にはなりたくないのに、所詮私も彼女達と同じなのだ。醜く歪み、悪臭を放つ精神の持ち主なのだ。頭の中で他人をこき下ろすことしか出来ない。他人の失敗を悦び他人の不幸を願い、他人の幸福に嫉妬することしか出来ない。願望と嫉妬だけで出来た私の他人に対する誹謗中傷。
 この世は地獄だ。
 この病を、このサイクルを止められないならば、私は一生こうして他人を妬み羨み蔑む人生を送らなくてはならない。他人のどうでも良いことに目を向け、せせら嗤い、人のあげ足を取るような思考回路のままで生きていかねばならない。他人を一切認めることも出来ず、真の友人も作れず、人の陰口ばかり叩くような人生を。
 私は自分が気持ち悪かった。自分の汚らわしい精神がたまらなく嫌だった。それでも病は侵攻し続ける。病の無限のサイクルを止めることは、私には出来なかったのだ。
 家族の中で私の容姿は一番凡庸だったと思う。この黒髪を羨む者はいたけれど、身体の中でそこしか自慢できるものはなかった。だから私は美しい者を憎んだ。夕日紅のような美女を憎んだ。
 しかし家族の中で私は最も忍としての才能があった。私は夕日紅より先に上忍となり、多くの戦場を渡り歩いてそこそこ名の知れるくノ一となった。私は強かった。戦闘技術において、私より強いくノ一を私は見たことがない。
 だから私は夕日紅を馬鹿にした。私より弱い女。私がその気になればすぐにでも殺せる女。美貌だけが取り柄の、のろまな女。同様に姉を、母を、父を馬鹿にした。私がその気になれば皆殺せる。あっという間に殺せる。あの屑どもを、私は心ゆくまで殴りつけて殺すことができるのだ。
 いつの間にか家族の中で私の位置が最高位となっていた。家族に暴力を振るっていた父は私を避けるようになり、姉は私を見る度に上忍のゴシップを聞きたがって擦り寄り、母は私が家に戻る度に私を連れて歩きたがる。勿論自慢したいだけだ。自分の娘が凄腕の上忍だということを、世間に知らしめたいだけだ。
「可哀想な人ね」
 ある日妹にそう言われた。何も出来ない、下忍にもなれない穀潰しにそんな生意気な口を叩かれ、思わず手を上げた。妹が何に対してそんなことを言ったのか分からないまま殴りつけてやった。謝るまでずっと。
 私の病は私には止められない。
 だから私は地獄の中にいた。
 自分の精神の醜さが何よりも汚らわしい。それなのに蔑んでしまう。いつでも誰でも蔑視してしまう。僻むことが止められない。妬むことが止められない。幸福な者が許せない。私より美しい者が憎くて仕方ない。私より才能のある者を殺したくて仕方ない。
 だから殺した。味方を。
 敵忍の罠に嵌ったのだと見せかけて、私より若くして上忍になったくノ一を殺した。私より才能があって私より称賛を浴びているから、我慢出来なかった。誰も彼もがその子を褒めるから、その子の才能を認めるから許せなかった。私の方が、私の方が、私の方が……私の方が認められるべきなのに。
 一度殺すと癖になった。私は誰にも見つからないように上手く味方を殺していった。
 そして、五人殺したところで捕まった。
 火影に激戦地の最前線に回されることを言い渡された時、私は最後の願いを申し出た。一週間、時間をくれと。火影は渋ったが、私は引かなかった。どれだけ私がこの里に貢献したと思ってるんだ。今までどれだけの敵忍を殺したと思ってるんだ。私が敵忍を殺す度に一体何人の役立たずな中忍下忍を救えたと思っているんだ。そもそも私は最後の戦地で何人の敵忍を殺せると思っているのだ。そこらの上忍の二倍三倍は殺せるのだぞ。その私の願いを聞き入れずお前はここで私を殺すのか? 殺れるものなら殺ってみるが良い。私の命と引き換えに、この場にいるお前の有能な暗部数人の命は貰っていく。
 私の言葉が強迫を含み始めると、火影は漸く願いを聞き入れた。
 火影室から出ると、私に三人の暗部が張り付いた。私は里にとっては危険な存在で、何をしでかすか分からないと思われていたからだろう。
 たった三人の暗部。火影は私を見縊っていると思うと腹立たしく、私の実力を認めていない火影を殺せば良かったと後悔した。火影や里に対する忠誠心など私にはない。私は誰にも屈しない。この病以外には。
 私は他人を妬んでいることを認められない母や姉とは違う。だからこそ苦しい。私は自分の精神が穢れていることを知っているのだ。だから何よりも激しく自分の精神を嫌悪する。この腐敗した、悪臭を放つ汚物のような精神を嫌悪する。
 この世は地獄だ。
 これだけの人間を殺し、その上この穢れた魂だ。死んでも地獄だ。
 神という存在がいるならば、何故神は私に不治の病を植え付けた? この世でもあの世でも、死んでも苦しむしかない私は何故そこまで神に疎まれている?
 何故私には、健全な精神が宿らなかったのだ?
 私は絶望していた。家族にも里にも火影にも人生にも私自身にも、神にすら、何もかもに絶望していた。
 その時見た、私を打ちのめす私の腐りきった魂のような夕日をやけに鮮明に覚えている。夜に蝕まれ、ぐずぐずに溶解し形を崩していきそうな、病んだ夕日を。
 私は絶望していた。信じもしない神を憎むほど。
 そんな時、彼に出会った。

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