7

 もうすぐ夏が始まろうとしている。そう感じる夜だった。
 その日の夜、俺はカカシ先生を待っていた。三日前に任務に出たカカシ先生は、昨日帰って来る予定だった。だが忍の任務の予定ほど当てにならないものはない。カカシ先生のような実力者なら予定より短くなることもあるし、何かトラブルがあれば実力云々関係なくどれだけでも延びる時もある。
 やけに湿気が気になった。
 この時期の湿気は身体を苛つかせ、カカシ先生の無事を願う心を何かと盛んに急きたてる。焦燥がそれに拍車をかける。
 俺はベッドから降りて服を脱ぎ、汗を流すために浴室に向かった。
 コックを開いて冷たい水を浴びる。
 身体が落ち着くと今度は湯を出して少し汗ばんだ髪を洗う。
 ふっと気を抜いた時、その気配に気づいた。
「カカシせんせ?」
 良く知った気配。待ち望んだ気配。俺が間違えるはずもない気配。
 勢い良く浴室のドアを開けると、やはりそこにカカシ先生が立っていた。
「お帰りなさいカカシ先生。お怪我は?」
 カカシ先生は僅かに首を振る。
 ベストに少し返り血が残っていた。それ以外は汗と埃にまみれていただけで、確かに怪我はないようだった。
 でも貴方の目が。
 眸が。

 閉じ込めようと。

「一緒に入りましょ」
 俺はその腕を持って強引に浴室に引き入れようとした。
 カカシ先生はそれを拒み、取られた腕を引き離す。でも俺はまたすぐにその腕に手を伸ばす。
「洗ったげます。だから」
 カカシ先生のベストを脱がせ、額当てをもぎ取ってアンダーに手をやる。

 だって貴方の眸が。
 必死で閉じ込めようと。

 僅かに抵抗の意思を見せるカカシ先生を無視して、俺はアンダーを脱がす。
 その下には、匠の手によって丹念に作られ磨きこまれたかのような、極められた忍の肉体があった。鋼のようで、芸術品のようで、眩暈がするほど美しかった。
 俺は着々と忍服を脱がせていく。足を上げさせ、カカシ先生を裸にする。それから手を引いて浴室に入れる。
 シャワーの前に立たせ、俺はカカシ先生の銀髪を両手で抱え込む。そして無理矢理視線を合わせようとした。
 カカシ先生はすぐに視線を逸らす。
 任務帰りの昂った忍が己を取り戻す方法は本当に千差万別だ。女を抱く者もいれば一人になりたがる者もいる。しかしカカシ先生の場合、それは一瞬で行われる。
「見せてください」
 カカシ先生は気配を薄くしていた。すっと深く息を吸い込もうとする。
「見せて欲しいのです」
 俺はカカシ先生の眸を覗き込む。
「愛しています。貴方だけを。貴方しか見えない。貴方しか。だから見せて、愛させて」
「手を離して、イルカ先生。それと俺が良いと言うまで視線を逸らして」
 とても小さな声であったが、それは僅かな殺気を感じさせる低くて鋭利な声でもあった。
 それでも俺は貴方の眸が。
「離しません。逸らしません」
「少しだけで良いから。分かるでしょ?」
「嫌です」
「俺の個人的な範囲に入ってこないで。いい加減にしないと怒るよ」
「嫌です」
「俺に別れたいって言わせたい?」
「嫌です」
 愛しくて愛しくて堪らなかった。カカシ先生の魂に拳を叩きこんで引き摺り出し、どれだけ愛しているのか噛み付くように伝えたかった。頬を寄せて、触れて、宥めて、抱き締めて、掴んで、燃やして、癒して、守って。そうやって伝えたかった。
 カカシ先生を引き寄せ、近くなったその唇に触れるだけの口付けをする。
 愛させて。
 愛し尽くさせて。
 出しっ放しにされたシャワーがカカシ先生と俺に当たっていた。
 愛しくて愛しくて堪らなかった。
 好きで好きで堪らなかった。
 その少しひんやりとした唇にゆっくりと舌を這わせ、一度離して角度を変え、次は深く口付けた。
 舌を押し入れ、絡ませ押しつけ、弄った。
 長い口付けを終えると、俺達はもう一度見詰め合う。
 カカシ先生の眸はゆらゆらと、どこにも辿りつけないみたいに揺れていて。

 それでも閉じ込めようと必死で。

「カカシ先生は、たまにこんな時がありますよね。きっと酷く嫌な任務をした時。きっと酷く辛い思いをした時。そういう時、貴方の眸は懸命に心を閉じ込めようとする。命がけってくらいに必死で。そして貴方は実際にそれをしてしまう。貴方の思うタイミングで、誰の視線からも逃れこっそりとそれをやってしまう。そうですよね?」
 俺は言葉を紡ぎながら、その頬に、鼻先に、顎に、幾つもの口付けを落としていく。
「でもね、でもそんなに必死になって閉じ込めた貴方の心って、どこに行くんでしょうか。俺はそれが気になってしまうんです。だからと言って俺は貴方に何も出来ない。何か出来るとは思っていない」
「俺はアンタに心配されるほど繊細な人間じゃない」
「知ってます。貴方がどれほど強いか知っています。心身ともに貴方は本当に強い。不自然なほどに。ただ俺は貴方にも知って欲しいんです。貴方がそうやって常に自分であることに立ち帰ろうと努力しているのを、ひたすら見詰めたい人間がいることを。見詰めている人間がいることを。俺は貴方の一挙手一投足から心の動きまでも余さず見詰めて愛したいんだと、知って欲しい」
 俺は最後にもう一度、カカシ先生の唇に口付けをした。触れるだけの、俺を激しく突き動かす想いを込めた優しい口付けを。
 カカシ先生は暫くゆらゆらと眸の奥を彷徨わせていた。
 それを行うのに最も適した瞬間を探すみたいに。
 それから俺に視線を合わせたまま不意に虚空を見詰め。
 ほんの少しだけ、本当にちょっとだけ、カクンと身体を仰け反らせた。
 俺はカカシ先生の背に腕を回し、じっとそれを見ていた。
 カカシ先生は酷く嫌そうに目を閉じ、眉を寄せ、何かに耐えた。
 しかしすぐに目を開け、また俺と視線を合わせたまま虚空を見詰め。
 子供のような純粋な悲しみと、漠然としたあまりにも激しい憎しみと、損なわれ続けた結果のような諦観。
 それが一瞬のうちにその眸に浮かびあがって、一瞬のうちに消滅した。

「見ててって言ったり見せてって言ったり。イルカせんせって我儘なんだから」
 そう言って笑みを浮かべるカカシ先生は、もう普段のカカシ先生で。
「見せてって想う俺も見てて欲しいんです」
 そんな俺の言葉にもクスクスと笑う。
「ごめんね勝手に家に上がって」
「良いんです。ベランダから入りました?」
「うん」
「ただいまって言いに来てくれたんでしょう?」
「うん。ただいま。今日はとてもイルカ先生に会いたかったよ」
「はい、おかえりなさい」
 それからカカシ先生を座らせて、髪を洗ってあげて、身体の隅々まで洗ってあげた。カカシ先生はもう何も抵抗しなかった。
 凄く好きだった。カカシ先生のことが凄く。
「こうやって甘えるってのも良いもんだね」
 爪の間に入りこんでいた血を俺が熱心に洗っている時に、ポツンとそんなことを言われた。
「もっと甘えても良いですよ」
「ほんと?」
「愛してますから」
「あんぱん買ってこーい。とかも?」
「何ですかそりゃ。カカシせんせ、腹ペコ?」
「腹ペコー」
 爪の中の汚れも全て洗い終えると、次は泡を流す。
 カカシ先生の美しい身体から、滑るように泡が落ちていく。
 余計なものが消え去った後に、俺はその背中に唇を押し当てた。
 それから二人で浴室から出て、俺はカカシ先生の身体を綺麗に拭いてあげて、腹ペコだと言うので食事を素早く整えて、カカシ先生に食べさせて。
 眠いと言うので、客用の布団を出してそこで寝かせた。
「キスして」
 気持ち良さそうにタオルケットに包まり、目を閉じたままそう強請られた。
 だからその唇と鼻先と瞼に口付けをした。

 カカシ先生は俺の部屋で、朝まで眠った。
 夏が始まろうとしている夜だった。

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