6

 俺とカカシ先生は、そうして付き合い始めた。
 愛しくて愛しくて、毎朝心を切り替えるのが本当に大変だった。
 気を緩めると俺の心はカカシ先生への恋心に支配されてしまうから、任務だ任務、これは戦地に赴く任務なんだと自分に言い聞かせてアパートを出て、アカデミーで授業を行ったり受付をしたり火影様の雑務を行ったりした。
 カカシ先生は少し戸惑ってはいたけれど。
 でもちゃんと俺とメシを食ったり、俺のアパートへ来て寛いでくれたりした。
 俺は常にカカシ先生を中心に動いた。カカシ先生の居心地が良いようにやたらと部屋を磨き込み、カカシ先生の好物で栄養を考えて食事を作り、カカシ先生が楽しめるように上等な酒を調達し、カカシ先生が笑えるように会話をし、カカシ先生のためにカカシ先生の体質に合った丸薬を考え試作し続けた。
 カカシ先生のために。カカシ先生のために。
 貴方のために。貴方のために。
 愛しくて愛しくて仕方なくて、よくその銀色の髪を撫でた。
 激しく燃えさかるような想いを込めて優しく優しく。
 頬も撫でた。
 カカシ先生は僅かな戸惑いと、時折苦笑のようなものを浮かべつつも、俺のしたいようにさせてくれた。

「ナルトにね、最近イルカ先生変じゃない? って訊かれたんですよ」
 夕食が済み、壁に背中を預け足を投げ出して寛いでいたカカシ先生が、少しからかうような口調でそう話しかけてきた。
 俺は食器を洗い終えタオルで手を拭いていて、手の水滴を拭き終えるとカカシ先生のいる居間に戻り、その隣に腰を下した。
 肩が触れる。
 俺はその体温が嬉しい。カカシ先生の体温を感じることが出来る喜びに打ち震える。
「どこが変だって言ってました?」
「なんかね、カッコイイんだって。最近」
「何だそれは」
 酷いなナルトー、なんて言いながら、俺は手甲の外されたその白く美しい手を取る。カカシ先生は嫌がらないから、それを両手で包みこんで愛しい愛しいとその手に訴える。
「イルカ先生ってば、いつもは何でもない所でコケたり考えごとしててボヘーってしてたりすることあったのに、最近はいつ見てもピシってしてるってばよ。だって」
「ああ、あの子は本当によく見てるなぁ」
「せんせ、コケないでよね。忍のくせに」
「うみの家の家訓なんです。コケてみろ、さすれば幸運たまに来るかも」
「なんですかそりゃ」
「竹藪の散歩中に何でもない所で蹴躓いて転んだ七代前の爺様が、その三歩先で偶然埋蔵金を発掘し、思わず持病の腰痛が治った挙句に竹藪を出た所で巨乳の女性を偶然拾って後に結婚し、あまつさえ鶴亀も驚くくらい長生きをして巨乳女房と添い遂げたらしく」
「うわー、どこから突っ込んで良いのか分かんなーい」
「うみの家ではその他にも、ボヘーっと気を抜け、さすれば幸福たまに来るかもって家訓もありまして。これは五代前の婆様が」
「いやいやもう良いからっ」
 俺達はクスクスと笑い合う。
 愛しくて愛しくて俺は両手で包みこんでいたカカシ先生の手を持ち上げ、唇を寄せた。
 その狂おしく愛しい手の甲は肌理細かく薄い肌に覆われ、その狂おしく愛しい指は優秀な戦忍らしく硬くてそれでも細く長く優美で、その狂おしく愛しい爪は理想的に形良く整えられていて。
 全ての愛を捧げるように、俺はその手のあらゆる場所に唇を押しつけた。
「で、何で最近はコケないの?」
「貴方を愛しているからですよ」
 俺はその手を持ち上げたまま自分の頬に寄せ、恍惚としながらカカシ先生を見詰めた。
「関係あんの?」
「ありますよ。だって俺は貴方に恋をした日から、常に貴方のことだけをひたすらに想っているから。貴方のことしか考えることができないから。貴方を想うことだけが俺が生きている理由になっているから。でも、それじゃ仕事になんないでしょう。仕事になんないのは困るから、子供達や里の忍が困るから、同僚が困るから、俺は一歩でも外に出る時は、戦場任務の時の心持ちでいるんです」
 カカシ先生はすっと目を細める。
 俺はそんなカカシ先生を愛おしく記憶に刻み込む。どんな表情でも良い。全てを記憶する。どんな一瞬でも。
「イルカ先生……」
「はい」
 カカシ先生は目を細めたまま黙って俺を見遣っていた。
「愛していますよカカシ先生。それほど」
 貴方を愛しているのです。
 俺はまたその美しい指に唇を押し当てた。
 それまでは為すがままにさせてくれていたのに、その時カカシ先生は不意に眉を顰めて。
 測ってきた。
 はかって。
 俺は咄嗟にその手を離し、両手で勢い良くカカシ先生の柔らかい銀髪を掴んで引き寄せ、その顔を固定させた。
 強く。
 逃げられないように。
 逃がさないように。
「測らないでくれッ!! 俺とアンタの距離をはからないでくれ! 適切な距離を取ろうとしないで。考えないでください。アンタはただ、カカシ先生はただ……」
 突然の俺の暴力にも似た行為に驚くカカシ先生を睨むように見詰めながら、その美しい銀色の髪を掴んだ自分の手が異様に震えているのをどこか遠くに感じていた。力を緩めなくちゃと思うのに緩められなくて、カカシ先生はきっと痛いだろうに、抑えられなくて。
「ただ?」
 緩めなきゃって思ってて。
 自分の手を。
 カタカタ震えてて。
 気付くとカカシ先生の眸が柔らかくなっていた。
「ただ、見ていてください」
「何を?」
「俺を。俺の貴方に対する想いを。一心に突き進む強靭な竜巻のように、揺るぎない恋をしている俺を」
 真っ直ぐに、祈るように、囁くように、叩きつけるようにそう言った。
 カカシ先生は暫くじっと俺を見据え。
 どこかとても透明な眸をして。
 それから俺の頬を優しく優しく撫でてくれた。
 俺はカカシ先生の透明なその眸に宥められ、優しく撫でてくれるその手に宥められ、ようやく震え続けていた手から力を抜いた。


 カカシ先生は約束を守ってくれた。
 任務の後は必ず真っ先に俺に会いに来てくれた。どんな時間でも、どんな場所にいても、たとえ深夜でも早朝でも俺の所に来てくれた。トントン、と窓を叩き、俺が目を覚ますと口布を下げて「ただいま」と唇を動かしてくれる。そして俺が「おかえりなさい」と応えると、ひとつ頷いて帰っていく。一度寝ている所を起こすのは躊躇いがあると言われたのだが、俺が望んでいることだからと熱心に訴えたら、それで納得してくれた。
 アカデミーで授業をしている時でも、教室の窓の外からこっそり覗いて俺に視線を寄越し、俺が唇を読みやすいように口布を下げてはっきりと「ただいま」と言ってくれた。それからヒラヒラっと手を振って、微笑んでくれる。授業の邪魔にならないように、それは本当に一瞬で行われるんだけど。
 俺はとても嬉しかった。
 約束を守ってくれようとするカカシ先生の心が嬉しかった。その誠実さが嬉しかった。
 愛したい。
 この人をもっともっと愛したい。
 もっと強く。もっと激しく。
 戦場任務という心構えで日々の仕事を行っていてもなお、そうやって極めて不規則に訪れる激情が俺を翻弄した。

 付き合って暫くすると、カカシ先生は俺のアパートに毎日のように遊びに来るようになった。
 曰く、居心地が良いと。
 努力の成果が実った俺は、カカシ先生が感じてくれるその居心地の良さを維持するために更にカカシ先生のためだけに尽した。
 お互い忍であり、ましてカカシ先生は戦忍として長く生きてきた。他人の気配がある場所で熟睡できるはずもなく泊まることはなかったのだが、それでも毎晩のように俺の所に来てくれた。そして俺は毎晩のようにその訪問を、熱烈に歓迎した。
 好きだ好きだと語った。
 愛しているのだと。
 俺は毎日カカシ先生のことだけを考え、何をしている時もカカシ先生から決して意識を逸らさず、一言一句、一挙手一投足を正確に読み取り、何をどうすべきなのか考えた。


「イルカ先生」
 クナイを研いでいたカカシ先生が、俺を呼ぶ。
 俺はその時、カカシ先生がクナイを研ぎ終えそうだと背後で感じながら、翌日の授業で使う火遁の巻物の最終チェックを行っていた。
「はい」
 巻物をそのままにすぐさまカカシ先生に向き合うと、カカシ先生は研いだクナイを持ち上げて、その切っ先を注意深く確認していた。一本一本全てそうやって細心の注意を払って確認して、それが終わるとてきぱきとクナイを片付けていく。
 俺はカカシ先生に向き合ったまま、それをじっと眺めていた。
「イルカ先生」
「はい」
「あのね」
「はい」
「素朴な疑問なんだけど」
「どうぞ」
 カカシ先生は深く息を吐くとガシガシと頭をかいて、それからまた深く息を吐いた。言い難そうだったので、俺は何の心配も必要ないことを知らせるためにカカシ先生の手を取り、いつものように口付けをした。
 こんなに愛している。だから何でも言ってくださいと。
 柔らかく柔らかくその手を撫でる。
「あのさ、イルカ先生って性欲ないの?」
「は?」
 凄く間抜けな声を出してしまったと思う。
 セイヨクって何だっけ、なんて、恐ろしく馬鹿な疑問まで浮かんできたほどで。
「イルカ先生と恋人としてお付き合いしてるわけじゃない、俺。でもイルカ先生ってそういうことを望んでいるようにも見えないし。そこんところどーなのかなーって」
 その白く美しい手を包みこんでいる自分の身体の中に、その時になってやっと性欲という言葉がしみ込んできた。
「失念してました」
「は??」
「性欲、失念してました。ありますよ俺、普通に。性欲」
 カカシ先生が眉を寄せて困惑する。性欲を失念していたなんて、実際変な話だった。これだけ好きだ好きだと毎日のように口にしていて、しかも最近は毎日のようにカカシ先生はこの部屋を訪れていて。
 だが俺は、そんなことどうでも良かったんだ。
 ただカカシ先生を愛したかった。愛し尽くしたかった。
 そしてその時大事だったのは、俺の性欲なんかじゃなくて、全てはカカシ先生に捧げるということだけで。
「カカシ先生、溜まってますよね。すみません気付かなくて。俺で良ければ何でもしますよ。萎えるなら女体化します」
「俺はそういうの大嫌いだよ」
 大嫌いだよ。
 その言葉で俺は凍り付き、弾かれるように包みこんでいたその手を離した。
 カカシ先生に嫌われるのは嫌だ。
 死んでしまう。
 恋人として別れても、嫌われるのだけは嫌だ。
 それだけは嫌だ。
 嫌だ嫌だ。
 怖い。
「嫌いにならないで」
 お願いだから。
 死んでしまうのです。
 貴方に嫌われたらこの鼓動は止まってしまうのです。
 俺は失われてしまうのです。
 失われるのです。俺は。
「イルカ先生、落ち着いて」
 どこか遠くからカカシ先生の声が。
「ね、落ち着いて。深く呼吸して。イルカせんせ、イルカせんせ」
「貴方は俺の全てなんです。世界なんです。色であり匂いであり喜びであり悲しみであり価値であり意味であるんです。海であり空であり光であり闇であるんです。鼓動であり呼吸なんです。夢であり現実なんです。大気であり大地であり血であり肉であるんです」
「分かったから。分かったから。嫌いになんてならないから」
 トントンと。
 子供をあやすようにトントンと心地の良い振動が背中から伝わってきて。
 それで漸く俺はカカシ先生に抱きこまれているのだと分かった。
 カカシ先生の体温が伝わって。
「好きなんです」
「知ってるよ」
「貴方を愛したいんです」
「愛してもらってるよ」
 どこかぼんやりしていた。
 カカシ先生の体温が嬉しくて、あやしてくれるその手のひらが嬉しくて、抱きこんでくれるその優しさが嬉しくて。
 背中を心地良く叩いていたその手が俺の頭に触れて、髪紐が解かれた。微かな音を立てて解かれた髪を、カカシ先生はとてもゆっくり、そして何度も梳いてくれた。
「俺はイルカ先生だから付き合ってるんだよ」
「はい」
「女体化とか、考えなくて良いから」
「はい」
 自分の声が震えていた。
 意識を失う程怖かった。嫌われると思うだけで息が止まりそうな程怖かった。何よりもどんなことよりも怖かった。
 同時に、カカシ先生の肩に顔を埋めたまま俺は幸福感に酔っていた。髪を撫でられることが喜びで、こうして抱きこまれることが喜びで、こうして体温を感じられることが喜びだった。
 カカシ先生は俺が落ち着くまでそうしてくれて、真夜中に帰って行った。

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