「イ、イルカせんせ?」
カカシ先生が、思わずといった感じで俺の名を呼ぶ。うみの中忍ではなくイルカ先生と。
「お、おいうみの」
サムラもまた、突然ボロボロと泣き出した俺に、焦って声をかけてくる。
俺はぶっ壊れたみたいに流れ出る滂沱の涙を拳で拭い、もう一度言う。
「はたけ上忍、見せてください」
俺の断固とした声に負け、カカシ先生は苦笑を浮かべ後頭部をガシガシとかきながら俺の前に座った。
ポーチの中から医療用具を出し、素早く的確に、と意識しながら処置を進める。
「お前、大丈夫か?」
サムラが俺を心配し声をかけてくれる。俺は鼻をすすりながら、平気だと、すまないと返事をした。
カカシ先生の身体の熱が低い。チャクラで体温をコントロールしているんだ。心みたいに上手く、誰にも悟られぬように。脈を測ると、随分と遅い。これも自分でやっているのだろう。
カカシ先生は手当てを受けながら、式を飛ばして処理班を呼んだ。
「一応応急手当ては終了致しました。しかし毒を受けておりますのですぐにでも医師に見せたいです。怪我人を運ぶのは慣れてますよね?」
サムラに訊ねると、当然と応えてくる。彼は戦場に長くいたようなので、任せても良さそうだ。それにコハダは背が低く細い。運ぶのは楽だろう。
「コハダをお願いできますか? 私ははたけ上忍を」
「オケ。俺はコハダっと」
俺はカカシ先生の前で膝を折った。
「いやだから、俺、自分で走れるし」
「いい加減にしていただけますか?」
「元暗部だからね、毒の耐性強いんだよ」
俺は粘り強くカカシ先生が折れるのを待った。しかしカカシ先生はいくら待っても折れてはくれなかった。
サムラがコハダを背負い、困った顔をして俺達を見比べている。
俺は立ち上がり、カカシ先生と向き合う。
「はたけ上忍、いい加減にしてください」
カカシ先生は、結構本気で気分を害していた。
確かにカカシ先生ならばその気になれば里まで帰れる。この状態のまま帰れる。何度も何度もそうしてきたのだろう。
「俺の目の前に突っ立っている上忍様は馬鹿ですか」
俺の言葉にカカシ先生は目を見開き、それから微かに眉を顰めた。
「うみの中忍。あのね」
冷えた声。僅かだが、抑えきれないようなカカシ先生の苛立ちが俺を包む。
だが俺は負けない。負けなかった。
それは、この時俺が既にカカシ先生に恋をしていたからではない。俺は、上忍達がこういった無理をするのが、何よりも嫌いだからだ。
「毒を受けた身体で走りまわるな、なんてことはアカデミーの生徒でも知っていることですが、はたけ上忍はアカデミー在籍期間が短かったからご存じないと?」
「だから、俺は元暗部だから毒には耐性が――」
「――暗部は毒が一切効かない超絶耐毒生物ですか。サイボーグですか。私にははたけカカシが人間に見えますが違いますか。どっちにしろ病院に突っ込みますから、私は早く正しく貴方を連れて帰りたいと思います」
俺はまたカカシ先生に背を向け、膝を折り、続ける。
「受付してると、よく分かるんです。皆がどんなに無理をするのか。大抵は俺も目を瞑りますよ。人の矜持を傷つけるなんてことしたくないですから。でも上忍の方々は限度を超えるでしょ。毒受けてても骨折してて肉引き裂かれてても、平気って顔してそれを隠そうとするんだから。でもね。でもねカカシ先生。俺達受付が、どんな想いでそれを見ていると思います? そんな状態の貴方達に次の任務依頼書を差し出す時、どんな想いでいると思います? どんな想いで貴方達を見送ると思います? 無事帰還してくれることを祈ることしかできない俺達が、どんな想いで貴方達の背中を見送っていると思います?」
柔らかく柔らかくと意識してそう言うと、カカシ先生の苛立ちが消える。
それでも動かないカカシ先生に、俺は独り言のように続けた。
「毒は、駄目です。見逃せませんよ。いくら耐毒あっても、これ、強い毒だし。ここに俺が居合わせてしまったってことで諦めてください。こう、スパっとすっきりとあっさりと。思い切り良く鮮やかに」
軽い口調で説得を続けたら、漸くカカシ先生が身体を預けてくれた。
「イルカせんせって、本当に頑固」
「お互い様」
俺達は笑いながら移動を始める。
途中で二度休憩を入れた。川辺に二人を下ろして水を飲ませ、身体の活動が低いまま安定しているかどうか確かめる。
「アンタのトラップ面白かったよ」
戦忍のサムラが何度もそう言う。彼と俺は同じ中忍だが、戦えば彼の方が強い。彼は次の上忍試験で上忍になれるほどの実力がある。それは肌で感じる。でも彼は何度も俺を誉めてくれた。
二度目の休憩が終わると、それまでずっと大人しくしていたカカシ先生が、背中で俺に話しかけてくるようになった。
「俺、カッコ悪いなー」
「何ですか急に。憎たらしいほど男前の天才上忍様が」
「あの程度の敵だったのに」
「仲間庇って毒食らった状態で戦って見事敵忍殺して、それで不満って何様ですか超男前美形上忍様ですかそうですか。良かったですねあー良かった良かった」
「イルカ先生カッコ良かった」
「俺はあの一番弱いのにしか対抗できませんでしたが何ですかそりゃ厭味ですか中忍に嫌味ですかこのヤロー」
「一杯誉められて。サムラに」
俺は少し笑う。
ああ、何か嬉しいなこういうの。
「カカシせんせ、意識のない仲間庇う必要なくて毒食らってなかったら、あんな敵の三人や四人瞬殺でしょ。どこまでいけます? ひとりで」
負傷した仲間を庇いながら、という同じ状況でも、その仲間に意識があるのかないのかで肉体的にも精神的にも全く変わってくる。意識のないコハダを守るため、そしてそのコハダをあえて狙い続けた敵の攻撃のせいで、カカシ先生は盾のように全くあの場から動けなかった。
「うーんどうだろ。一人頭の切れる奴いたからねぇ。それなりに時間かけて良いならチャクラ切れるまでどれだけでも?」
「なにそれそのアホみたいな強さ。それで何ブツクサ言ってるんだ里一番の稼ぎ頭が。里の宝が。ビンゴブックのくせに」
俺なんてあの一番弱いのであれだけ時間かかって、カカシ先生がすぐに殺した二番目のでズタボロになって戦った挙句に結局殺されて、最後の上忍の敵だったらクナイ振る間もなく地獄へ突き落されてます、なんて。
俺も負けず劣らずブツブツ言って。
でもカカシ先生はやっぱりちょっと気にしてて。多分人質の女性のことを。
一言も口にしなかったけど。俺も口にしなかったけど。
「俺カッコ悪いなー」
そう何度も呟いてて。
「仲間を助けるためにこんなに頑張って何を言ってるんです。凄く格好良いんですよ、貴方は」
俺は何度もそう言った。
だってカカシ先生は何も分かっていない。
カッコ悪いって何か。
カッコ良いって何か。
里に到着する寸前に、カカシ先生に降りるかどうか訊ねた。降りるかなって思ってたけど、カカシ先生は背負われたままで良いって言った。チャクラ切れの時には毎回背負われてるから、今更だって。こういう所は潔いみたいだ。
俺とサムラは朝方里に戻り、そのまま病院に直行して二人を下した。案の定すぐに解毒を飲んだので大したことにはなっておらず、俺は医療忍に挨拶だけして報告書を出しに行き、すぐに家に戻ってアカデミーの支度をし、朝飯を食わずに出勤した。ハードはハードだったが、この程度のスケジュールでへばるようなことはない。それからいつものように授業をして、子供たちと沢山笑って、叱って、目を配って。
アカデミーから帰るまでずっと俺は。
家に入り部屋の中に入るまでずっと俺は。
任務をしている時のうみのイルカだった。
そしてベッドに入って忍じゃなくなると、のたうちまわるように苦しんだ。ひたすらに荒れ狂う恋心に翻弄されるがまま苦しんだ。愛しくて苦しんだ。
愛しくて愛しくて愛しくて、好きで好きで好きでしょうがなくて。
カカシ先生の毒抜きは二日で終わった。
コハダの方は十日程かかったそうだが、それでも問題ないようだった。コハダは元気になるとすぐにカカシ先生に会いに行き、呆れるほど長く謝罪の言葉を口にしたそうだ。
俺はそれをカカシ先生から聞いた。
いつもと同じ会話の、いつもと同じ口調の、いつもと同じ店で。
好きだ。
あまりにも好きだ。
どうしよう。どうすれば良いんだろう。
何をすれば良いんだろう。何をしてあげられるんだろう。
想いは激烈で一切の妥協を許さず、俺を徹底的に追い詰めてくる。
逃げられないほどに俺をせかしてくる。
ただただ直線的に。何かにぶつかり粉々になるまでひたすらに直線的に。
好きだ。
あまりにも好きだ。
友人のままで寄り添うか?
あの人が閉じ込めよう閉じ込めようとしている時に、そっと手を差し出す友人で?
そんなこと出来るのか?
あの人がそんな隙を見せてくれるのか?
手を取ってくれるとでも?
馬鹿か。そんなわけねぇだろ。
俺、何か勘違いしてねぇ?
あの人のこと、乙女チックでヤワな心を抱えて、それでも無理してる繊細な人だと見くびってねぇ?
嗚呼、馬鹿じゃねぇの俺。
違うだろ。あの人そんなんじゃねぇ。
俺はどうすれは良い。あの人に何をしてあげられる。
俺は何をしたい?
何をしたいんだろ。
あの日からずっと考えた。俺は何をしたいんだろうと。
俺がカカシ先生にしてあげられることはきっと凄く少なくて。多分、俺ができることなんてほとんどなくて。いやきっと全然なくて。
何をしたいんだろ。
どうしたいんだろ。
そう考えている間も時間は過ぎて、カカシ先生を想う心は一瞬たりとも緩まることを知らず、俺はカカシ先生に占拠される。荒れ狂う恋心に占拠される。
だからいつも家を出る時は任務を行う精神に切り替えた。子供達や他の先生方、受付の同僚に迷惑をかけることはできないし、仕事を疎かにするわけにもいかなかったから。
それでもたまにカカシ先生に会えると嬉しくて。
嬉しくて嬉しくてしょうがなくて。心と頭がバラバラになりそうで。
そういう日は家に帰ってから思う存分に苦しんだ。呻き、歯を食い縛り、どうすべきか考えた。
カカシ先生と一緒に任務に行った日、つまり俺が突発的な恋に完全に支配された日から暫くはそういう日々だった。何をすべきか、何をしたいのか、それを悶々と考えるだけ。
寝ても覚めても俺はカカシ先生を想った。
カカシ先生だけを想った。
そして恋と同じようにそれはやって来た。
やっぱり唐突に。
翌日に薬草の授業を行う予定だった俺は、その日の夕方里の外れの森にいた。
危険な場所、生物、モノがないかという安全確認と、目的の薬草が生えているエリアと、子供達が目の届かない場所に行ってしまった時にどう動きどこを最初に探すべきかという確認作業。
日が暮れるまでそうやって森をうろついて、暗闇が訪れると少し休憩した。大きな樹の根元に腰を下ろし、夜空を見上げた。
銀色の月が見えて、森には俺ひとりだけで。
妙に暑い夜だった。
風なんて吹いてなくて、汗ばんだ身体が少し気持ち悪い。早く家に帰って風呂に入って何か腹に詰めこんで、そしてベッドに潜りこみたい。
しかし俺はずっとそこに座りこんでいた。
何だか動くのが億劫で。
ここでずっと月を見上げていたくて。
あの人の髪と同じ色をした銀色の月が俺を誘う。
泣きなさいと誘う。
あの人を想って泣きなさいと。苦しみなさいと。
誘う。
俺は誘われるままに忍の俺から解放される。
すると想いは俺の心臓に刃を突き刺すようにやってくる。それは何度も何度も絶えることなく俺を襲う。
心臓を掴むように右手をベストの上に置いた。爪が剥がれるかと思うくらいベストを握り締める。
なんて苦しい。
俺は足を折りたたんで小さく小さくなる。心臓を抉るようにベストを握り締めたまま俯いて、誰よりも小さくなって震えた。
あの人を想うことは、なんて苦しい。
「イルカせんせ?」
はっと顔を上げると、そこには暗部装束を身に纏った忍が。
銀色の髪が。
「イルカ先生どうしたの? どっか痛い? 苦しい?」
カカシ先生は俺に近付いて膝を突き、焦ったように訊ねてくる。
俺はあまりに突然のことに、ただ漠然とこの愛しい人を眺めていた。
暗部からは抜けたはずだが、まだ時折その仕事を請け負っているのだろう。そして今はその帰りだったのだろう。
美しい銀色の髪に血が。
美しいその腕に血が。
愛しい貴方の手に血が。
「俺、カカシですよ。イルカ先生大丈夫? どうしたの? 怪我してる?」
面をしていたので分からないと思ったのだろう。
俺が貴方を分からないはずなんてないのに。だってこんなに好きなのに。
カカシ先生は俺を驚かせないようにそっと面をずらし、少し緊張した面持ちで俺の頬にその手を添えた。
「カカシ先生」
「うん、俺ですよ」
俺が声を上げると、カカシ先生はようやくほっとしたように表情を緩めた。
「イルカ先生どうしたの? 何かあった?」
「いえ」
貴方を想っていたのです。
貴方を想っているのです。
「カカシ先生、任務だったんですか?」
未だ震えベストを掴み続ける右手はそのままに、俺はそっとカカシ先生の頬に自分の左手を添える。
互いの手が互いの頬に添えられる。
愛おしい。
俺の身体が、心が、狂うように貴方を求める。
叫ぶ。
声を枯らして貴方の名を叫ぶ。
「うん、久々のコッチの任務だった」
カカシ先生は空いている方の手でずらした面を指さし、何てことないよって顔をして、どうってことないよって顔をして、平気って顔をして。
俺に微笑みかける。
それから俺の頬に添えていた己の手に血がついているのに気付き、そっとそっと手を離した。
別に何でもないみたいに。
でもその時、貴方の目は。
思い出したものを閉じ込めようと。
思い浮かんだものを閉じ込めようと。
閉じ込めようと。
貴方の眸が。
ねぇカカシ先生。
嫌な任務だったんでしょ。
暗部の任務だもん。
俺はほんの少しだけ目を瞑る。この愛しい人が請け負った任務を想像してぎゅっと目を瞑る。好きだ。俺はこの人がとても好きだ。
目を開けると、普段のカカシ先生がそこにいた。
穏やかな眸をして。
今の今までそこに浮かんでいたものなど、初めから無かったかのように。
それを見て俺の身体が反射的に激情に支配された。
怒りにも似たその過激な激情は、決定的な一撃のように一切の容赦なく俺の身体ごと鷲掴みにした。
「カカシ先生」
俺は心臓を握るみたいに掴んでいたベストから右手を離し、両手でカカシ先生の顔を挟んで固定した。
見て。
見て下さい。
「一生に一度のお願いがあります」
聞いて。
聞いて下さいカカシ先生。
俺はカカシ先生を刺し殺すようにその蒼い眸を見詰め続ける。
「お願い。一生のお願い。お願いですカカシ先生」
「俺に出来ることなら」
カカシ先生は少し困ったように、それでも優しく微笑みを浮かべ続ける。
「俺と付き合ってください」
カカシ先生の目が大きく開かれる。
戸惑い。困惑。
でも俺はカカシ先生を両手で挟み込み、その視線を逸らすことを許さない。
俺は射抜き続ける。
貴方に何ができるだろう。
それは分からなかった。
貴方に何をしたいだろう。
それは今理解した。心と身体で理解した。
俺は身を燃え尽くす激しさを持って、優しく優しくその頬を両手で撫でる。
「荒れ狂う嵐のように貴方を愛している。全てを薙ぎ倒す竜巻のように貴方を愛させてください」