16

――……カカシせんせ?」
「アンタいい加減にしてよ。本当に怒るよ?」
「カカシせんせ?」
「どれだけ心配させるつもり? どんどん顔色悪くなって、どんどん痩せていって、挙句の果てにこんな所で何時間座ってんの? そんなに身体冷たくして、アンタ何を」
 拳を握りしめ俺を見下ろしているカカシ先生の蒼い眸が怒りに満ちていて。
 でもカカシ先生の身体にも雪が一杯降り積もっていて。
「カカシせんせ、雪が」
 雪を払おうと思わず手を伸ばすと、それを叩き落され。
 俺は硬直する。
 思考が追い付かない。カカシ先生はここで何をして、何を言ってるんだろう。俺は手を叩き落されて。別れたから? それとももう嫌われた? だから避けられてた?
「嫌わないでください」
「嫌ってない!! アンタ俺より自分の心配しなよ!!」
 怒鳴られて、許し難いと言わんばかりの目で睨まれて。
 俺はもう何が何だか分からなくなって。
「何してたの」
「別に」
「なんでこんな所にいんの」
「……」
「言いなさい。なんでこんな所にいんの」
「家にいたくなくて」
「なんで」
「……眠りたくないから」
「なんで」
 だってカカシ先生。
 俺の身体がカタカタと馬鹿みたいに震えた。
 こころがいたい。
 俺は友人。
 でも俺は、まだ貴方を愛してる。この先ずっと。
 嗚呼、何でだろう。俺はこの人をずっと愛している。限りなく果てしなく、ずっと愛している。それはそれで構わないのに、何で。
 こころがいたい。
「なんで、眠りたくないの」
「だって夢を見るんです。貴方の夢を見るんです。毎晩毎晩、貴方の夢を見るんです。ねぇカカシ先生。俺、もう貴方の夢は見たくない。何で出てくるんですか? 俺、そんなに悪いことしました? 俺はただ貴方を愛しただけ。全てを貴方に捧げ、愛し尽くしただけ。なのに何故こんなに苦しめる必要があるんですか? 別れる時も約束通り縋らなかったでしょ? 別れてからも、約束通り友人に戻ったでしょ? 貴方の夢はもう見たくない。出てこないで欲しい。もう二度と、俺の夢に出てこないで欲しい。お願いだから。ほんとうに、ほんとうに、お願いだから」
 一度口にしてしまうと、次から次へとずっと抱え込んでいた想いは言葉になって零れてしまう。
 俺は本当に、子供みたいにカタカタと震えながらカカシ先生と睨み合った。
 憎いと思った。
 あれほど愛し、これほど愛しているこの人がとても憎いと思った。
「知って欲しかった。如何なる時も如何なる貴方も、ただひたすらに見詰めている人間がいるのだと。これほど貴方を愛している人間がいるのだと。命が尽きる最期の最期まで、貴方を想う男がここにいるってことを、知って欲しかった。愛したかった。貴方を愛したかった。俺の全てを捧げて愛したかった。だから愛した。俺は俺を根こそぎ、貴方だけに差し出した。貴方に嫌われれば俺は損なわれるほど。失われるほど。それほど貴方を愛した。それほど貴方を全力で愛したッ!」
 愛している人が憎くて憎くて、涙が溢れた。
 カカシ先生は強く眉を寄せ、目を細めて俺を見詰めていた。
 その髪や肩に雪が降り積もっていて。
 カカシ先生の銀色の髪が、蒼い眸が、愛しくて。
 でもそれすら、それすら俺は憎かった。
「俺は毎晩夢を見る。それほど愛した貴方を夢に見る。そして、夢の中で俺は何度でも何度でも貴方に恋をする。眠る度に貴方に激しい恋をする。毎晩毎晩繰り返し繰り返し、目も眩むような恋を、唯一無二の恋を、天啓のような恋を、逆らうことを一切許さない絶対的に揺るぎない恋をする。それなのに」
 涙が、俺の涙が止まらなくて。
 視界がぼやけて。

「それなのに、毎朝毎朝、目が覚める度に俺は失恋する! こんなに激しい恋なのに、こんなに愛しているのに、目が覚める度に俺の恋は何度でも何度でも徹底的に打ち壊されるッ!!」

 だからお願いです。
 もう夢に出てくるのは止めてください。
 夢から覚める度に俺はそれに耐えなくてはならない。
 耐えなくてはならない。自分の立場に耐えなくてはならない。貴方はもう恋を終わらせたという事実に、耐えなければならない。そんな鮮やかなほど容赦のない絶望に、耐えなければならない。
 貴方だけが俺を満たすのに、貴方だけが俺を満たしたのに、夢から覚める度に貴方がいないことに耐えなくてはならない。
 分かりますか?
 このこころのいたみが、あなたにわかりますか?
 ねじり切られるような痛みを抱かなくてはならないのです。
 目が覚める度に、俺はその痛みに殺されるのです。
 だからお願いです。頼むから。頼むから。

 俺は幾度も繰り返した。
 お願いだから。頼むからと。
 だってまだ愛してる。
 だってまだ愛してる。

 泣いた。

 声を上げ、全身で泣いた。



 野山を灰にし、海を蒸発させ、天を引き裂き月を崩壊させ、太陽を飲み込むような、そんな恋をした。
 全ての構築物を打ち砕くような、かたちあるものを理不尽なまでに粉砕し跡形もなく消滅させるような、そんな恋をした。
 まるで荒れ狂う嵐のように、全てを薙ぎ倒す竜巻のように、俺を天災のような力で破壊し、莫大な力でねじ伏せ、巻き込み、圧倒する恋をした。

 その恋は今、止めどもなく溢れる涙になった。
 止めどなく溢れる涙は次第に凍えた霙となった。
 凍えた霙はいつの間にかひらひらと舞う雪になった。
 ひらひらと舞う雪は最後に静寂を運んだ。


 俺を支配していた凄まじく激しい恋は、そうやって終わりを告げた。










「落ち着いた?」
 頭がぼんやりとしている。
 すんすんと鼻を啜る音が聞える。
 ああ、俺が鼻を啜ってるんだ。
 ああ、見っともない。
 あまりに見っともない。
 自分が疎ましい。疎ましい。
「ね。イルカせんせ、落ち着いた?」
 カカシ先生が近付いてくる。
 膝を折り、俺と同じ高さまで降りてきて視線を合わせてくる。
 ああ、また探ってる。
 何を?
 見っともない俺をどうしよう。とか?
「嵐、過ぎ去った? かな」
 カカシ先生はふんわりと笑みを浮かべると、手を伸ばして俺の頭に、耳に、肩に、膝に積もっていた雪を優しく払っていった。
「あのね、イルカ先生。今度は俺が話すから、ちゃんと聞いてね」




 俺はね。
 小さな頃から戦場にいたから、辛い思いも沢山した。暗部にもいたから、汚れた仕事も一杯したよ。こんなこと人がすることなのかって思うようなこともした。
 ま、暗部を抜けてからも大して変わりはなかったけどね。任務が終われば次の任務。一人殺せば次を殺す。気を抜けば死ぬし殺さなきゃ殺される、そんな毎日。それが俺にとっての日常。
 でも、罪悪感に潰されることも、心を消去してケダモノのフリをすることもなかった。
 そういうのはとても簡単なんだけどね。自分のしてきた行為を嫌悪し、嘲笑し、命の重さに慄いて一人で暗闇を抱えることは簡単なんだけどね。でも俺は、そんな自分に浸れるほどロマンチストじゃなかったみたい。
 だから俺の精神は折れなかったし歪まなかったし狂わなかった。

 俺は忍なんだ。きっと、どこもかしこも。

 俺はね、そういう、完結した世界を持っていたんだ。
 おそらく忍として。忍として完結しすぎていたんだ。

 でもね、やっぱり問題はあった。
 俺の世界は完結しすぎていて、澱みはじめていたんだ。その澱みを何て言うのか知らないけど、確かにそれは蓄積されていった。
 それは自分で分かっていたんだ。
 そりゃそうだよね、だって流れていく場所がないんだし。
 俺は忍だからって人としての心を失ったわけじゃなかったんだ。むしろ、俺は人であり続けたかった。過去に後悔し、仲間を想い、里を守る、人であり続けたかった。
 でも蓄積された澱みは、そういうものから消去していく。俺が最も失いたくないものを、泥濘のようなもので失くそうとする。
 それってかなり怖いことなんだよ。常に忍として完結しすぎていて人の心まで失うことって、凄く怖いことなんだ。

 だから俺は、新しい風を待っていたんだ。他人が与えてくれるだろう、澱みを消してくれる風を。
 それは何となく女が運んでくれるのだとばかり考えていた。凄いよね、固定観念って。
 でも、違った。違ったよね。

 イルカ先生。

 それは貴方が運んできた。

 俺はアンタに踏み込まれ、踏み荒らされるように愛された。
 俺はアンタの荒れ狂う嵐に巻き込まれた。
 それは新しい風なんて生やさしいもんじゃなかった。
 文字通り、嵐だった。
 それでもアンタは色んな事を教えてくれた。
 見つめてもらえることの喜び。愛されることの喜び。愛することの喜び。セックスって本当は凄く気持ちが良いこと。カッコ悪いことがカッコイイこと。嫉妬や執着。人生ラッキー銀行。
 そこには新しい世界があった。
 俺は幸せだった。




「でも」
 黙って聞いていた俺は、そこで口を挟む。
 俺だって幸せだった。
 カカシ先生と一緒にいられて、本当に幸せだった。二人でいること、二人で過ごした時間、カカシ先生を愛せること、カカシ先生に尽くせること、何もかもが幸福だった。
 でも。
「貴方は俺を捨てたじゃないか。別れようって」
 別れようって。
 そう言って。

「うん。だってイルカ先生もまた、完結した世界の中にいたから」

 意味が。
 理解できない。
 カカシ先生は額当てを外し、閉じられていた左目を開け両目で俺を真っ直ぐに見詰めた。
 俺が愛した蒼い眸、紅い眸。
 それから口布も下げた。
 俺が愛した美しい顔。
 今も愛してる。
 とても愛している。

「ねぇイルカ先生、俺と恋人だった頃の記憶ってどんな感じ?」
「愛してた。幸せだった。必死だった。愛してた。愛したかった」
「うん」
「貴方だけだった。貴方だけをひたすらに愛した」
「うん、そうだろうね。でも俺は」

 カカシ先生はそっと手を伸ばし、両手で俺の頬に触れた。
 身体の重心を傾けて、俺を見詰めたまま近づいてくる。
 鼻先が触れるほどの距離になった時。
 カカシ先生は酷く優しい眸で、哀しそうに言った。

「俺は、アンタと愛し合いたかったんだよ」

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