「イルカ先生は確かに俺を愛してくれた。でもアンタ、愛し合うことはしてくれなかった。俺の愛を信じてないわけじゃなかったのに、アンタは常に一方的だった。そうだよね」
色んな記憶が溢れてくる。
俺にとって何よりも大切な、愛しいこの人との記憶。
それはいつだって鮮明に蘇るのに、今こうしてどれだけ慎重に探ってみてもカカシ先生と愛し合ったと実感している場面は一欠片も出てこなかった。あれほど幸福だったのに、手を繋いで歩いている時も微笑み合っている時もセックスをしている時だって、俺の記憶は俺の愛したい尽くしたいという想いだけに埋め尽くされていた。僅かな緩みもなく強固なまでに、どの記憶もただそれだけにみっしりと敷き詰められていた。
愛し合おうねって言ってもらえたのに、その言葉の意味は俺に届かなかった。
そうだ。
俺は一方的だった。いつもいつも一方的に、ほとんど無神経とも呼べるほど、ただがむしゃらにカカシ先生を愛しただけだった。
「アンタのは希望を伴わず、絶望も伴わず、そんな恋だった」
カカシ先生の声が俺の静寂の世界に落ちてくる。
カカシ先生に、期待する未来を訊ねられたことがあった。あの時、俺は何と言っただろうか。そうだ、あの時もただカカシ先生が幸せな未来を期待して、祈っていて、そこに俺はいなかった。俺の影はその期待する未来にいなかった。あれだけ愛してるって言ってもらっていたのに。
別れを告げられた時もそうだった。
分かりましたと応えた俺を見て、カカシ先生は何かを納得していた。おそらく、俺に絶望がないことを。
だって俺はあの時、失恋したということも認識できず、ただ貴方だけを。
嗚呼。
「俺はもう引き返せないほどイルカ先生を愛していた。愛してもらえるのは嬉しい。愛せるのも嬉しい。だが、愛し合えないのは、致命的だったんです」
「致命的……」
致命的。
幾度も心の中でその言葉を繰り返した。
だから捨てられた。そうだったんだ。
致命的。
あまりの自分の愚かさに笑いたくなった。でも笑えなかった。笑えなかったし、もう涙も枯れていた。
「荒れ狂う嵐のように貴方を愛している。全てを薙ぎ倒す竜巻のように貴方を愛させてください。イルカ先生は最初にそう言った。最初はまたえらく情熱的な言葉だなーって思ってたけど、すぐに違うって分かった。貴方は本当に、そういう、抗うことの出来ない恋をしていたんですよね」
「……はい」
「俺もそれに巻き込まれた。でも貴方自身も、その激しい恋に巻き込まれていた。性欲を忘れるくらい。愛し合うことが分からないくらい」
「失恋したことにも長く気付かなかったくらい」
「二人で巻き込まれた」
そう。
俺は巻き込まれていた。あの、身を焦がすような、攻撃的なほど狂おしい恋に。それは突発的にやってきて、何を考える間もなく俺を攫って粉砕した。
カカシ先生は手甲を外し、また俺の頬に手を添える。
それから、ゆっくりと俺の顔を撫でて両腕で俺の首と頭を抱え込んだ。
コツンと小さな音を立てて額と額がぶつかる。
「荒れ狂う嵐のような、全てを薙ぎ倒す竜巻のような、その激しい恋は過ぎ去ったよね?」
確認するように覗きこまれ、俺は苦笑する。
終わった。
終わりましたよ。
さっき馬鹿みたいに泣いて、今カカシ先生から、真実を聞かされて。
致命的だったと言われて。
「過ぎ去りました」
「そう」
カカシ先生は口元に緩く笑みを浮かばせて。
俺は嵐に徹底的に破壊し尽された荒野に立ちつくしてるみたいに、何だか茫然としていて。
唇の感触で。
キスをされたんだと。
「じゃあ、今度は俺から口説かせて」
俺の唇を優しく啄んだ後、カカシ先生はそう言った。
「はい?」
「はい? じゃなくて。前回はアンタに口説かれまくって俺が落ちたデショ。だから今度は俺が口説きまくって、アンタを落とすの」
「でもカカシせんせ」
「俺はアンタを手放すつもりは微塵もなかったよ」
思考が追い付かずぽかんとしている俺に、カカシ先生は音を立ててキスを続ける。
「カカシせんせ致命的だったって」
「致命的だったから、我慢できなくて別れた。一旦はね。そうするしか、貴方の激しい嵐は終わってくれないだろうって思ったから。でも心配で心配で、貴方の心が本当に離れてしまうのが怖くて、最初はちょっと付き纏っちゃったよ」
「付き纏ってって」
「だって本当に怖かったんだもん。忘れられるの嫌だったし」
「でも俺」
「うん、ずっと恋してたね。だから次に貴方の前から消えてみた。そしたら貴方はどんどん痩せていって俺を心配させて。サムラとは妙に仲良くなるし、俺はもう本気でサムラ殺したくなりましたよ。何アイツ、イルカせんせとイチャイチャしてさ」
「サムラは!」
「結婚するんでしょ。知ってます。でもイルカせんせと仲良くしすぎ」
「ていうか、何で俺とサムラとのこと。いやそれより俺が痩せたこととか」
「だって俺、イルカせんせのストーカーだったもん」
はーーーー?!
俺の素っ頓狂な声が、冬の夜空に響き渡った。
俺があんなに苦しい想いを抱えて、毎晩毎晩この人の夢を見て、毎朝毎朝失恋の痛みで瀕死になってた時に、この人は!
「い、言えば良かったのに! 愛されたいんじゃなく愛し合いたいんだって!」
「あれだけ自分の恋に我を失い翻弄されていたアンタが、その意味を理解できたと思う?」
「う……」
……無理だったと思う。
だってあの頃の俺は、愛したいって一心だった。
正直に言うと、カカシ先生が愛しているって口にしてくれた時だって、何だか夢心地でその言葉とその心を本当に受け止めていなかったように思う。
更に言うと。
俺はあの頃、カカシ先生の俺に対する愛が、いつか冷めるものだといつもコッソリ思っていた。
信じてなかった。
その時のカカシ先生の気持ちは信じていたけれど、そういう意味では信じていなかった。
そう、期待も絶望もなかったから。
「ねぇ、俺ね。イルカ先生のこと毎日考えて、影からコソコソとイルカ先生を追いかけ回して観察して、そろそろ良いかな、まだ駄目かな、でも忘れられたらどうしようって、そういう毎日を過ごしてたよ。もっと手酷くふった方が良かったのかな、イルカ先生に新しい恋人ができたらどうしようって、色々考えながら」
「あの女の人とは……」
「ありゃ口説かれてただけ。でも相手にしてないよ。俺が誰かと付き合ったって話、ずっとなかったでしょ」
「……ありませんでしたね」
「だって俺、ずっと待ってた。イルカ先生の嵐が消えるの、待ってた。ずっと待ってたよ」
それから俺は、数えきれないキスを貰って。
好きだ好きだと言われまくって。
ギュウギュウと抱きしめられて。
今更のように、身体が冷え切っていると叱られて。
抱え込まれて。
「もう一度恋をしよう。俺とイルカ先生で」
この世で一番情熱的な口付けを二人でして、俺はその言葉に頷いた。
「帰ったら一緒にお風呂に入ろうねー」
雪が舞う夜の森の中を、二人で手を繋いで歩く。
「ダメです」
「え、何で」
「カカシ先生はすぐに不埒なことをするからです」
「良いじゃないの。不埒なこともしよーよ」
「風呂場は入浴するための場所です。身体と心を解きほぐす俺の癒しの場所」
「でも前はよく」
「前は前。今は今。俺は過去は振り返らない性格です」
「振り返ろうよ! そういう部分は振り返ろう!」
断固拒否、なんて言いながら歩いていると、雪に覆われた木の根に足を取られてすっ転びそうになった。
カカシ先生が支えてくれてたから転倒は免れたけれども、半分くらいコケた。
カカシ先生は、コケたコケた、忍のくせにコケたと大笑いした。
こんな忍見たことないとかって笑った。
愛しい人の笑顔。
大好き。
大好きだ。
森を抜けると里の灯りが目に入る。もうすぐ新しい年を迎える里は浮かれているように見えた。
カカシ先生が不意に足を止める。
つられて俺も足を止めた。
「どうしました?」
視線を遣って訊ねても、何も答えない。
雪は空から舞い落ち、舞い落ち、俺達に降り注いでくる。
キュっと音を立てて雪を踏み、俺はカカシ先生と向き合う。それからもう一度、どうしました? と首を傾げて視線を合わすように覗き込んだ。
「ね、イルカ先生。俺は上層部の方から、早く子孫残せってたまにせっつかれることがある。あの人達煩いし、きっとまた周りもウザったいこと言ってくると思う。俺は貴方を守るし、一生貴方だけを愛するけれど、一生貴方とだけ愛し合うけど、でも本当に嫌なこと言われるかもしれない。男だとか……そういう事で」
それでも良い? 本当に良い? とその眸が少し不安げに訊ねてくる。
可愛いな。
いや今はそうじゃなくて。
上層部か。ふむ、煩そうだ。
除夜の鐘が聞こえた。
もうすぐ新しい年が来る。
貴方と過ごす、新しい年が。
「俺は平気です。だって間違ってるわけない。こんなに愛しいのに、こんなに好きなのに、こんなに自然に湧き上がってくるこの想いが間違ってるわけないんだ。だから良いんです」
真っ直ぐ迷いのない眼差しを向け、そう告げた。
「俺、イルカせんせのそういう所メチャクチャ好きです。ベッタベタに惚れてます」
そう言ってカカシ先生は、とても小さな子供みたいに、本当に無垢な笑顔を浮かべた。
完