12

 カカシ先生と過ごした日々を胸に抱いて生きていた。
 あれだけ力強く空に存在していた積乱雲はいつの間にか姿を消し、巻積雲が姿を現すようになっていた。
「イルカせんせーさよーならー」
「おう、気をつけて帰れよ」
 元気に手を振る子供達に応え、俺も手を振って声をかける。
 アカデミーに受付、火影様の雑用に任務、するべきことは沢山ある。もっと沢山あっても良い。もっと仕事が欲しい。
 やる気は充分で、カカシ先生と過ごした記憶を抱え、俺は子供達に囲まれていて。
 それでも何故か、一人になると心が痛む。
 俺はまだカカシ先生に恋をしているのだ。一生続く恋を。
「良いよな、別にそれでも。あの人の幸せが俺の幸せ。うん」
 言い聞かせるように呟くと、背後にふっと気配が舞い降りた。
「何ブツクサ言ってんだ?」
「お、帰って来たな」
 俺は振り返って、おかえり、と言う。
 サムラは埃にまみれ背嚢を背負った姿で元気に笑顔を作って、ただいまと言う。
 たった今帰って来たばかりだというサムラは、ここ一ヶ月間戦場に赴いていた。長引くかと思われたその戦はヒョンなことからあっという間に終結し、思ったより早く済んだらしい。
 里に到着し解散してから真っ先に俺に会いに来たと言うサムラに、飲みに行かないかと誘われた。俺とサムラはウマが合う。何度かカカシ先生と一緒に任務に行っただけだが、お互いにそれを自覚していたから、俺はすぐに頷いた。
 幸いその日は残業もなく、家に帰っても何もすることがなかったのだ。

 サムラが連れて行ってくれた店は、俺の財布に親切な小料理屋だった。老夫婦と娘さんだけで店を回しているらしく、数席のカウンターと少し離れた場所に仕切られた座敷が二つ。
 俺達はカウンターへ座ってビールを飲んだ。お通しの酢の物がかなり美味い。
 サムラとは料理をつまみながら色々な話をした。先の任務の話、アカデミーの話、お互いに知っている上忍の話、そしてサムラの彼女の話。
「俺が上忍になったら結婚するって約束してんだ」
「お前なら次回の上忍試験余裕だろ」
「余裕ってわけじゃねぇけど。うんでもまぁ、自信はある」
 へへっと口元を緩ませてサムラはビールを飲む。
 俺は運ばれてきただし巻き卵に箸を伸ばした。これもかなり美味い。こんな当たりの店を紹介してくれたサムラに俺は感謝する。
「そういやカカシ先生もお前のこと誉めてたよ」
「はたけ上忍が?」
「うん。サムラは期待を裏切ったことがないって言ってた。お前カカシ先生に褒められるくらいだ、結婚はもう確定だぞ」
 にぃっと笑うと、サムラもまたにぃっと笑う。
 からかうように肘で突けば、サムラもまた嬉しそうに肘で突き返してくる。
 それからふとサムラが表情を改め、そう言えばお前さ、と口にしたところで背後から声がかかった。
「イルカせーんせ」
 気配を感じなかった俺とサムラは二人して驚き、二人して振り返った。
「こんばんは、カカシ先生」
「お久しぶりです、はたけ上忍」
「どーも」
 カカシ先生はいつもの如く額当てで左目を隠し、口布をし、少し猫背で俺達の背後に突っ立っていた。
 奇遇ですね、とサムラが言えば、この店はガイのお気に入りでね、とカカシ先生が返す。どうやらガイ先生を含め上忍の方々何人かと座敷の方で飲んでいるらしい。
 視線が絡み、俺は友人としての笑みを浮かべた。カカシ先生も友人としての笑みを浮かべる。
「イルカせんせ、何食べてんの?」
「だし巻き卵。めちゃ美味ですよ。美味美味」
 そう言うと、あの白い指先が皿に伸びてくる。箸、と言おうとする間もなく指でそのままひとつまみし、口布を一瞬だけ外してカカシ先生はそれを食べた。
「ホントだ、うまーい」
「手で食べないっ」
 俺はしょうがないなとブツブツ言いながら、おしぼりでカカシ先生の手を拭いてあげた。
「イルカ先生の丸薬もう切れちゃったんだけど」
「もうですか?」
「うん。また作って」
「分かりました。材料揃えるまでちょっと時間かかりますが、出来次第お渡ししますね」
「はーい」
 カカシ先生は子供みたいに返事をし、手をひらひらっと振って座敷の方に戻って行った。
 俺は少しだけカカシ先生の後ろ姿を目で追って。
 とても好きで、好きで好きでしょうがないあの人の気配を追って。
 その気配が奥の座敷に消えると、ビールグラスに手を伸ばした。
 少しの沈黙があった。
「噂、嘘だったのか?」
「どんな噂だ? カカシ先生が俺と別れたって噂?」
「そう」
「その噂は本当」
 その噂は本当なんだ。
 別れたんだ。
 ただ俺がまだ好きなだけ。
「じゃあ、今の何だよ」
「友人関係は続いてるから」
「はぁ? 友人関係?」
 友人。
 だって最初にそういう約束していたし。
 俺だって、避けられて全く会えなくなったり気まずくなったりするよりも、友人関係でいたいし。だって俺はまだあの人が好きなんだ。あの人の幸福を誰よりも願っているんだ。あの人を愛しているんだ。
 サムラはどこか怒ったみたいにグラスにビールを注いだ。
「変なの」
 ぶすっとした顔でサムラが呟く。
「変かな」
「変」
「どこが?」
「分かんねーけど、何か変」
 サムラが何に対して怒っているのか分からなかった。でも、悪い気はしない。サムラは俺には真っ直ぐに感情をぶつけてくる。他人のそういう真っ直ぐな感情は嫌いじゃないから。
 それからサムラは一気に酒を飲むペースを上げ、俺もそれに付き合った。お互い忍だからアルコール耐性もそれなりにあるし、歩けなくなるほどは酔わない。酔えない。でも何となく、俺は酔いたい気分だった。どんな理由か知らないが、きっとサムラも。

 別れてからすぐ、カカシ先生とは友人関係に戻った。
 俺は何人ものくのいちに、本当に別れたのかと確認された。その都度頷いた。
 カカシ先生とは受付で会えば挨拶し、軽く言葉を交わす。丸薬が切れたと言われれば新しいのを作り、たまにだけど仕事帰りに二人で飯を食ったり飲みに行ったりもする。あれほど人の目を気にせず恋人として付き合っていた俺達が友人関係にあっさり戻ったのは、他人から見ると少し不自然だったのかもしれない。
 誰かに別れたのかと確認される度に頷く。頷くと憐憫か嘲笑、同情、侮蔑、そんな目で見られる。だがそんなものはどうでも良い。俺にとってはカカシ先生が全て。
 カカシ先生は会う度に俺の目を見詰めてくる。
 何かを探るように、また確認するように。
 そして、測ってくる。
 元恋人の現友人に対する最も理想的な距離でも測っているのだろうと思う。
 俺は友人であり続ける。
 毎晩毎晩カカシ先生のことを想おうが、カカシ先生を想って自慰しようが、繰り返し繰り返し飽きることもなくカカシ先生との思い出に浸ろうが、俺は友人なのだ。


 朝の冷え込みをはっきり感じる頃になると、カカシ先生の姿をあまり見なくなった。
 今さら避けられる理由もないと、俺は高を括っていた。任務が忙しいのだろう、長期の任務に出たのかもしれない、と。
 そんなこと思っていたある日、偶然カカシ先生を見た。
 上忍待機所へアスマ先生を呼びに行く途中、普段あまり使われない資料室の引き戸が中途半端に開いていて。
 覗き見るつもりはなかった。ただ、チラリと視線を遣ってしまっただけだった。
 でもそこには壁に凭れかかったカカシ先生と、くのいちがいて。
 くのいちの腕が、カカシ先生の背中にべったりと回っていて。
 思わずそこに立ち竦んだ。
 意味が、分からなかった。
 カカシ先生の隣に女性が立っているという状況が、何故かその時の俺には理解出来なかった。
 視線に気づいて、カカシ先生がゆっくりと俺を見た。
 俺は凄く間抜けな顔をしていたと思う。
 だって分からなかったんだ。
 理解出来なかったんだ。
 俺は息を飲み、弾かれるようにその場から立ち去った。

 その日の夜、吹きすさぶ嵐のような激情が俺を襲った。何に対してのどのような激情なのか分からない。飢えて、渇いて、乱れて、望んで、もがいて、苦しんで、身を丸めて、俺はその激しさから自分を守った。

 カカシ先生が女性と。
 でも俺は友人で。
 カカシ先生の幸福が俺の幸福。
 そう、俺は友人で。
 でも俺はカカシ先生を愛している。心から。
 心から。
 こころから、愛している。


 何がいけなかったのか。どこが悪かったのか。今までそんなことも考えなかった。
 恋人として付き合っていて、別れたのに。
 今更そんなこと考えても遅い。
 でも、一体何が悪かった?
 あんなに愛していたのに。あんなに愛したのに。

 教えて欲しい。
 俺の何がいけなかったのか。
 どこが悪かったのか。
 愛してるから。
 だから教えて欲しい。
 今更だけどさ。

 あらゆる大陸を一瞬で埋め尽くす砂嵐のような後悔が襲ってくる。

 今更。
 今更。
 今更だろ?



 俺はカカシ先生と別れてから、今、ようやく理解する。
 ようやく、これだけの時間をかけて、ようやく理解する。




 俺、失恋したんだ。

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