「俺はナルトの上司です。担当上忍師。イルカ先生、俺は大丈夫ですよ」
ゆっくりと、言い聞かせるように柔らかく言葉を紡いだはずなのだが、彼の瞳からは覚悟の光が消えず、また緊張した面持ちは警戒心を隠すことなく俺を牽制し続けた。
「申し訳ありませんカカシ先生。俺が伺います」
「ん、分かりました。明日の七班の任務のことなんですが」
早くここから撤退した方が彼の負担も軽くなると考え、俺は手早く彼に用件を伝える。彼は周囲と俺を警戒したまま丁寧に相槌を打つ。
しかし、話を終えたところで再びナルトが襖の奥から顔を覗かせた。
「――奥へ」
「カカシ先生は、平気だってばよ」
「奥へ行っていなさい」
「カカシ先生は、大丈夫だってばよ」
「ナルト!」
押し殺すような彼の声と怒気に構わず、ナルトが玄関まで走ってくる。それからドアを大きく開け、制止する彼の手を力尽くで振り切って俺の腰にしがみついてきた。
ナルトが彼にこうしてしがみつくことがあるのは知っている。だが、俺にこんなことをしたことは今まで一度もなかった。
「これから俺とイルカ先生で夕飯食べるんだけど、カカシ先生も一緒に食べてこうぜ!」
俺と彼の間に、妙な沈黙が落ちてきた。
「イルカ先生、今日はケーキ買ってくれたんだってば。な? カカシ先生も食べたいよな? 一緒に食って行くよな?」
「駄目だ。カカシ先生は忙しい」
「忙しくないってば。な? カカシ先生忙しくないよな?」
「駄目だと言っているだろう。カカシ先生にご迷惑だ。早く奥へ行きなさい」
「迷惑なんかじゃないってば。カカシ先生は一緒にご飯食べてくよな? そうだろカカシ先生!」
うんと言えと言わんばかりに必死で俺の腰にしがみつき俺の身体を揺するナルトを見て、何か異様なものを感じた。そのナルトの必死さが、懇願しているとしか思えないナルトの目が、この状態でなお焦ったように周囲を窺いつつ俺に対し酷く張り詰めた気を晒す彼が、とにかく異様だった。
「良いよ」
俺はナルトの頭にポンと手を置きそう言った。
彼が弾かれたように顔を上げ、俺を見詰める。
「イルカ先生ん家で、御馳走してもらうよ」
「やった!!」
ナルトは飛びあがらんばかりに喜び、彼は一瞬眉を寄せて俺に訴えてくる。
彼の覚悟を。真っ直ぐで決して折れない確固たる覚悟を。
彼の黒い瞳で。
「カカシ先生ってば、こんな怪しい格好してるけど本当はすっげー強いんだぜ?」
ナルトはさっきからそんなことばかりを彼に言っている。
「波の国でも、なー、カカシ先生?」
「んー。まーね」
俺は卓袱台の前に座り、さっきから生返事ばかりをしている。
もう時間も遅いし、夕飯の準備が整っているかと思いきや、そこには何も置かれてなかった。
部屋には卓袱台がまるで不必要なもののようにポツンと置かれ、俺はその前に座らされ、ナルトは何故か彼に見せつけるかのように俺にベタベタし、彼はそんな俺とナルトをさっきからひたすら真っ直ぐ見詰めている。見詰めているというよりも、俺を牽制している。
何なんだろうね、この状態。
俺は溜息を吐いてさっと部屋を見渡す。
古いアパートに相応しい古い家具。色褪せた畳、積み上げられた巻物。奥の部屋に見えるのは、一組の布団。今までナルトが潜り込んでいたようで、まだぽっこりと膨らみがある。
「お前、寝てたの?」
隣室を顎でしゃくってそう訊ねると、ナルトは怯えたように彼の方を見る。それから一度隣室の布団に視線をやり、最後に俺を見て変な顔で笑った。
「俺ってば俺ってば、今日はイルカ先生と一緒に気配を消す特訓してたんだってばよ」
変な笑顔のままそう言うと、ナルトはまた怯えたように彼を窺う。言っても良かったよね? とでも言うように。
「あーだからか。気配感じなかったよ。お前上手く気配消せるじゃないか」
「でもカカシ先生、何で俺がここにいるって分かったんだ?」
「どこ探してもいないからさ、忍犬に探してもらったんだよ」
「あー、パックンかー」
何気ない会話をナルトと交わしながら、俺は心の中で大きな溜息を吐いていた。
そこまでする必要がある出来事が、過去にあったということなのだ。
この子に、この子と共に、気配を消して部屋の中で潜んでいなければならないような出来事が。温和な彼が一切俺から視線を逸らさず、絶えず俺を牽制しなければならないような出来事が。
事態は俺が予想していたよりも、ずっと困難で苦痛に満ちたものだったのだ。
最初は杞憂かと思った。
彼の様子は確かに普段の彼からかけ離れたものだったが、それでもナルトを贔屓し続けた彼の杞憂かと思った。そんなことが起こってはならないという、彼の杞憂かと。
だが、それは違った。
これはそんなものじゃない。
「ナルト、台所へ行って湯を沸かしてくれ。腹、減ってるだろ?」
「えーー、イルカ先生今日は俺、カップラーメンじゃなくてイルカ先生の料理が食べたいってば」
「ナルト、言う通りに」
彼の有無を言わせない口調に、ナルトはしぶしぶ立ち上がって台所へ向かった。
彼は俺から視線を逸らさない。
それは普段の彼からは想像できないような、好戦的とも言える視線だった。
「俺は、ナルトの上司です」
ナルトに聞かれないよう、静かな声で俺は言う。
「知っています」
彼もまた、静かに答える。
「上忍師です」
「知っています」
「イルカ先生、俺は大丈夫です」
彼は返事をしない。
「あのねイルカ先生。俺、怪しい格好してますけど、そりゃ遅刻も多いですけど、七班の子供達はみな可愛いと思っているし、実際に可愛がってます。俺なりに、ですが」
「分かっております」
「仮に俺がナルトをどうこうしようと思っていたら、とっくにしてますよ。今だってできます。貴方じゃ俺は止められない」
「理解しております」
「でも俺はしない。そんなつもりもない。俺はあの子の味方であり仲間であり師です。例え如何なる時でも」
彼は返事をしない。
ただ目を見開き俺をじっと見詰めている。
「ま、とにかくナルトは何故か俺にいてもらいたがってる。ちょっと様子変だし、少しここにいさせてもらいますね。あの子が帰る時に一緒に帰りますから、それまで我慢してください」
「ナルトは今日、ここに泊ります」
「そ。じゃああの子が寝るまでいるよ」
「ナルトは今日、眠りません」
眠らない?
俺の怪訝な様子を見て、彼は言葉を続ける。真っ直ぐに俺を見据えたまま、警戒を一瞬たりとも解かずに。
「ナルトはこの日、絶対に眠りません。眠れないんです。俺が気付いた時には、既にそうなっていました」
なんてこった。
先程心の中で吐いた溜息の数倍はデカイ盛大な溜息を、今度も心の中で吐き出した。
ナルトの中の九尾のことに触れるのは禁忌だ。
だからナルトは何も分からないまま、おそらく繰り返し身体的精神的に、眠れなくなるほどに――。
それは何と理不尽なことだったろう。理不尽で、横暴で、非道なものだったのだろう。
「申し訳ありません」
彼は俺から目を逸らさないまま、はっきりと言う。警戒は解かないが、それなりの誠意みたいなものが浮かんでいた。
「何が?」
「ナルトはきっと、実力者である貴方といると安心するんです。貴方なら守ってくれると。守り切ってくれると。だからあんなに必死になって貴方を引き止めたのだと思います。俺が不甲斐ないばっかりに、こうして貴方を巻き込んでしまったことをお詫びします。申し訳ありません」
「それ、多分違うよ」
「は?」
「ナルトはそういうタイプじゃない」
ナルトはそういうタイプじゃない。ナルトもサスケも、いやこのくらいの年の男の子はみな、自分のプライドを何よりも必死に保とうとする。特にナルトは俺に頼るなんてことはしない。個人的なことであればあるほど、事態が深刻であればあるほど、だ。
台所から、シュンシュンと湯が沸いた音がする。続いてナルトがビニール袋を漁っている音。
「ま、とにかくさ。ナルトの奴も貴方も腹減ってるんでしょ? アイツなんて今日はずっとここに閉じ籠って気配消して潜んでたんでしょ? 何か作ってやってくださいよ。俺はいりませんからアイツのために、カップラーメンなんかじゃなくて何か他のものを。俺はナルトが落ち着いたら帰りますから安心してください。それに万が一という事態になった時、俺がいた方が良いと思いますよ。一応、ほら、写輪眼のカカシですし。強いんですよ俺、結構」
にっこりと笑って指を台所に向け彼を促すと、彼は辛そうに眉を顰めて何かを考え、一度大きく息を吸い込んでからハッキリと決断をした顔で立ちあがって台所へ向かった。
親子。
そうとしか思えないような会話。
彼の声は俺と話していた時とは打って変わって、いや普段の彼より更に優しく穏やかな声でナルトに語りかけている。ベタ甘やかし、としか言いようがない。
俺はお前が愛しくて愛しくて仕方ないのだと、彼は言葉の端々からそれをナルトに伝えている。
ナルトもそれを感じている。
「俺、皿を持ってく」
「良いよナルト。俺が持ってく」
「皿出すのはいつも俺の仕事だってば」
彼を振り切ってナルトが戸を開け、満面の笑みで居間にやってくる。
「お手伝い御苦労さん。お前普段の任務もこれくらい一生懸命やれよなぁ」
軽口を叩くと、ナルトはへへーーっと無駄に大きな声で笑い、膝を突いて卓袱台の上に皿を置く。すぐに彼が顔を覗かせたがナルトは満面の笑みを浮かばせて彼を見上げる。
「火を使ってる時はそこから離れたらいけないんだぞ!」
きっとそれは彼に何度も言われていることなんだろう。彼の口調を真似てからかうように言うナルトに苦笑し、彼は一度俺に極めて冷静な視線を寄こしてから戻って行く。
台所に戻ってもなお、彼が全身全霊で俺とナルトの様子を窺っているのが手に取るように分かった。
ナルトが皿を並べながら、俺の傍に近付いた。
あれだけ花開いていた満面の笑みがすっと消え失せ、すがりつくような視線と真剣な表情に変わる。
「カカシ先生」
ナルトは声を潜める。
「んー?」
俺も声を潜める。
「俺ってば、俺ってば。絶対に強くなって火影になる」
「もう何度も聞いたよ」
「強くなる。絶対に」
「ん」
「でもまだ弱いから。俺ってばまだまだ弱いから」
ナルトの顔が苦痛と怒りに歪み、本当に小さい、自分を守る術など何一つ持たない子供のような哀しみをその青い瞳に浮かばせた。
泣くかと思った。
ナルトが、声を上げて泣くかと。
「だから、俺が弱いから。……カカシ先生がイルカ先生を守って欲しいんだ」
もう溜息など出なかった。
俺は息を止めて目を瞑り、自分の中で轟音を立てて湧き上がろうとする何かを必死で殺していた。