「今日だけで良いんだってば。な? 俺ってば来年はもっとすっげー強くなってる。絶対強くなってる。だから頼むカカシ先生」
返事をしない、いや出来なかった俺に焦り、ナルトが懸命に懇願する。
俺は努めてゆっくりと胸に溜めた息を吐き、目を開いてナルトを見詰めた。
「守る。イルカ先生は必ず俺が守る。約束する」
俺はナルトの頭に手を置き、笑みを以てグシャグシャとその金色の髪を撫でた。
ナルトに言いたかった。
お前、良く頑張ったなと。
良く耐えてきたなと。
俺に頼るしかないほどの事が、彼のことを俺に頼むしかないような事が、過去にあったのだ。おそらく、何度も。
彼を巻き込んだことに、ナルトはずっと苦しんできた。
それでもお前は彼を手放せなかった、いや彼がお前を見捨てなかった。
彼はお前の手を、絶対に離さなかった。
そうだろう?
だからお前、余計辛かったんだろう?
嬉しかったのと同じだけ、辛かったんだろう?
「ナルト?」
「今行くってば」
彼の呼びかけにナルトは大きく返事をし、俺に向かっていつもの笑顔を見せて戻って行った。
食事を始める寸前に、一度外で不穏な気配を感じた。
ナルトをベタベタに甘やかしつつ、絶えず神経を尖らせていた彼もそれに気付いた。
暫く様子を窺っていたが、立ち去る気配がないので彼が動く前に俺が出た。
アパートの外に中忍らしき男が三人、酷く歪んだ顔をしてこの部屋を見上げていた。
俺の姿を確認すると、無言で去って行く。
「申し訳ありません」
部屋に戻ると開口一番で彼にそう言われた。
何に対してなのか、一瞬分からなかった。
食事はいらないと言ったが、彼は俺の分もちゃんと用意してくれた。
「生憎酒を切らしてまして。申し訳ありません」
「イルカ先生、冷蔵庫にビ」
「――ナルト、溢さず食うんだぞ」
彼はナルトの横に座り、細々と世話をする。
美味いか? 一杯食えよ?
ナルト。ナルト。
彼はそうやってナルトを甘やかす。過保護な母親よりも深い愛で。子供を見守る父親よりも強い愛で。
時折ナルトと目が合う。ナルトはニシシといつものように笑う。
ナルトは飯を食って、それからケーキも食って。俺がそれまですっかり忘れていた明日の任務の変更を告げると、ケーキを口一杯に頬張ったまま、猫探しなんかよりずっと面白そうだと笑った。
食事が終わり、彼はナルトに風呂を勧める。
ナルトは彼と一緒に入りたいと言う。
何だ、小さな子供じゃあるまいしと彼はからかってナルトを一人で入らせようとするけれど、ナルトは粘る。イルカ先生と一緒が良いと。
それから俺を見て、カカシ先生はこう見えて結構強いんだぜ、などとのたまいだす。
ナルトは言いたいのだ。
今日は大丈夫だからと。
「ナルトー、三人で入るかー」
俺が笑いながらそう言うと、彼はぎょっとし、ナルトはカカシ先生の素顔を見るチャンスだとケラケラと笑った。
結局彼とナルトが二人で風呂に入り。
俺は居間で壁に背を預けて本を読んだ。
二人が風呂から出た後もそうして俺は本を読み続け。
ただ夜が更けるにつれ、不穏な気配がやって来ては去って行くのを、感じ取っていた。
「風呂、入ります?」
「いや、良いです」
たまに短いやりとりを彼と交わす。
彼とナルトは楽しげに会話を続ける。
そのうちに、ナルトが欠伸を連発するようになった。
彼が奥の部屋にナルトを連れて行き、二人で布団の中に潜り込んだ。
ヒソヒソと楽しげな会話が続く。たまにナルトが大きく笑う。とても幸せそうに。
俺は立ち上がり、寝室らしいその部屋に顔を覗かせて声をかけた。
「ナルト。言うの忘れてた。誕生日おめでとう」
ナルトはすぐに返事をしなかった。しかし彼に、小さな声で良かったなと囁かれ、俺にありがとうと照れくさそうに返事をした。
何となく、目が離せないでいた。
ナルトは彼の腕に包まれ、それでも彼にぎゅっとしがみついており、彼はそんなナルトを腕で大切に大切に抱え込み、ずっとその金色の髪を撫で続けていた。
夜遅くに嫌な気配を察してアパートの屋根に瞬身を使って飛ぶと、そこに見知った上忍が二人、虚ろな目をして佇んでいた。酒臭く、酔っているのは明らかなのだが、妙に冷めた目をしていた。
「何故カカシがここにいる」
「俺の可愛い部下が、ここにいるから」
ナルトに彼のことを頼まれた時、必死になって殺したものがまたやってくる。
轟音を立て、制御できない程の力強さで俺を突き動かそうとする。
「で、お前等。俺の可愛い部下と、その可愛い部下の大切なイルカ先生に一体何の用なの? ついでに何でお前等如きに俺が呼び捨てにされてんの?」
普段は気にならないことが、やけに癪に障る。
自分の身体から漏れていく酷く陰湿な殺気を、自分で止めることが出来なかった。
彼は中忍だ。上忍の手にかかればそれは良い鬱憤晴らしになったろう。
そう思うだけで殺気が一層強くなる。見せしめにヤってやろうか。彼とナルトに手を出したらどうなるのか、一度はっきりと見せてやるか。彼とナルトが耐えてきた分を全部コイツ等で解消してやるか。彼とナルトの背後には俺がいるということを、知らしめた方が良い。その方が手っ取り早い。うん、そうしよう。
ふっと口元に笑みが零れると同時に、腐れ上忍どもは姿を消した。
「申し訳ありません」
部屋に戻ると本当に小さな声でまた言われる。
「六回目」
「は?」
「その言葉、六回目。もういらないから」
俺は居間と寝室を仕切る襖に背を預け、本を取り出してそっけなく言い放った。
「ナルトは?」
「寝ました」
「寝れたの?」
「ええ、初めてです。貴方がいるので安心したんだと思います」
「そう」
彼は俺に背を向けナルトを抱え込んだまま、ピクリとも動かなかった。
殺すなら俺を殺してからにしてくださいとでも言いたげに、ただひたすらにナルトを抱き締め続けていた。
「イルカ先生。俺、味方だから」
返事はなかった。
ナルトの穏やかな寝息だけが聞こえる。
その後も誰かがこのアパートの前を通り、足を止め、通り過ぎて行くことが数回あった。
「ねぇ、今までかなり酷いことされてきたんでしょ」
返事はない。
しかし彼は起きている。
「何で上層部に言わないの?」
「彼等も普段は良い人ばかりです。ただ、どうしてもこの日は駄目なんです。特に酒が入ると、我慢できなくなるんです」
「関係ないでしょ」
「大切な人を失った痛みは、なかなか消えません」
「アンタも殺されたって聞いてるけど。両親」
「ええ。だから痛みは分かるんです」
「で? 大人しくサンドバッグになってるわけ?」
「彼等も辛いんです。彼等もナルトに当たるのは間違っていると分かっているんです。だから俺が出て行くと、ナルトには手出しをしません。それは間違っていると、本当はちゃんと分かっているから」
俺は怒鳴りつけたくなるのを何とか抑え、三度深呼吸をしてから頭をガシガシとかいた。
本当は間違っていると分かっているのにそんなことをする奴等に、酒に飲まれ自制を失うような奴等に、何故付き合う必要がある。何故殴られる必要がある。何故貴方がそこまでしてやる必要がある。
「何それ。自己犠牲? 自己満足? 偽善っぽいよそこまでいくと」
「それらの言葉は散々言われ続けていますから、今更何の打撃も受けませんよ」
「俺は別に攻撃してるわけじゃない。ただね、そんなことで問題は解決しないでしょ」
「ならば上層部に報告すれば問題は解決するとでも?」
彼の言葉に俺は口を閉ざす。
ある程度は、つまり直接的な彼への攻撃は減るだろう。しかしそうすることで彼への風当たりは更に増すし、そもそもの問題は何ひとつとして解決しない。
俺は自分でもよく分からない苛立ちを抱えながら、目を閉じて身体を休めた。
彼はずっとナルトを抱いたまま、きっと同じように目を閉じて身体を休ませている。
俺も彼もそうしたまま、神経を尖らせている。
そんな中、ナルトの安らかな寝息だけが聞こえる。
夜が明けるにはまだ時間がある。
それなのに彼は影分身を出して影をどこかに行かせた。
「なに?」
「ナルトの部屋を見てくるんです」
俺も影分身を出して、彼の影を追わせる。
二人の影はなかなか帰ってこなかった。何かあったのだろうか、どこかで馬鹿な誰かと遭遇して一悶着あったのだろうかと心配していると、ふと記憶が蓄積される。
影達のすべきことが終わったのだ。
ナルトの部屋に誰かが押し入った様子はなかった。ただ、投石により寝室の窓ガラスが割られていた。影はそれを片付けていたようだ。
「毎年ですか?」
俺は静かに訊ねる。
「ええ」
彼は静かに答える。
ナルトが何か寝言を呟きながら、布団を捲りゴソゴソと体勢を変える。彼はナルトがもう一度深い眠りに落ちるのを待って布団をかけ直し、ゆっくりと腕に抱き込む。
「今日のナルトは俺から見ると別人のようでしたが、貴方の前ではいつもああなんですか?」
「毎年この日は俺がベッタベタに甘やかします。それでもナルトは甘えてくれたことなどありませんでした。この子は俺に気を遣うくらいです」
「ナルト、今年で終わりにしようと思ってたのかもね」
「終わりって?」
「貴方に庇ってもらうの、終わりにしようって」
「なんでそんな」
「ナルトはナルトで色々考えている。今日、俺はナルトに、貴方を守ってくれって頼まれたんですよ。来年俺はもっと強くなってる、だから今日だけで良いからって」
彼の身体が僅かに動いた。
暫く、何事もなかったかのような静寂があって。
それから、彼はずっと長い間我慢していたものがついに抑えきれなくなったかのように、突然ナルトを強く抱き締めた。ナルトが驚いて目を覚ましてしまうほど強く。
衝動的に叫び出したくなったのを、腹の底から力一杯何かを叫び出したくなったのを、その行為によって何とか押し止めたような激しさで。
「イルカせんせぃ?」
息を詰め、彼は全身でナルトを抱き締めていた。
「イルカ先生?」
「……あーごめんごめん。俺、寝ボケてた」
彼は穏やかな声を出してゆっくりと力を緩め、ナルトの髪を撫でてまた寝かしつける。
優しく金色の髪を撫でる手を、俺はただ見詰めていた。それは飽きることなく繰り返され、飽きることなくナルトに愛しいと告げる。お前は愛しいよと告げる。
ナルトはまた、穏やかに眠りにつく。
ナルトの髪を撫でる手が止まり、それが小さく震える。
それから、本当に、真心という真心を全てかき集めたような手で、ナルトの頬をゆっくりと撫でた。
「カカシさん。今日は申し訳ありませんでした」
「その言葉はもういらないって言ったよね」
「今日の俺の態度が許されるものではないという自覚はあります。今も貴方に背を向けて俺は横になったままで」
「俺は気にしてない。抱いてあげていたいんでしょ?」
「貴方を信用せず」
「今もしてないよね」
「……申し訳ありません。今日だけは」
彼は初めてそれを認めた。
「良いよ。過去に、誰も信用できなくなる事があったんでしょ。貴方の頑なな態度を見てれば大体見当はつくから。それから、申し訳ありませんは、もういらない」
彼はナルトの頬を撫で続ける。
ありったけの真心を込めて。
俺はそれを見詰め続ける。
「少し、貴方の傍に寄りたいんだけど」
彼は返事をしない。
俺はそれでも、ゆっくりと彼に近付く。
俺を信用していない彼の背中に緊張と警戒が溢れる。
うみのイルカの信頼が欲しい。
強くそう思う。
貴方の信頼が欲しい。
今貴方がナルトにしているように、俺は貴方の頬を優しく撫でてやりたい。
今貴方がナルトにしているように、俺は貴方をこの両腕に抱え込んでやりたい。
良く頑張ったねと。
良く耐えてきたねと。
痛かったでしょう、辛かったでしょう、苦しかったでしょうと。
貴方を思い切り抱き締めたい。
貴方が今そうしているように、俺もまた貴方を一晩中抱き締めていたい。
貴方がずっとそうしてきたように、俺は貴方をずっと守っていきたい。
だから。
「イルカ先生、俺を信じて」
俺はありったけの真心を込めて、彼の黒い髪を撫でる。