第三章

 目覚めると酷く頭がぼんやりとしていた。
 ベッドから身体を起こして頭を振る。それから両手を突き上げて背伸びをし、カーテンを開けて外を見る。昨晩から降り出した雪は今も振り続いていて、見事な銀世界を作りだしていた。これなら毎年恒例の生徒達との雪遊びができる。
 しょぼついた目のまま米を研ぎ、炊飯器のスイッチを入れてからぼんやりした頭をスッキリさせるために浴室に向かう。寒いなぁと独りごちながら服を脱ぎ、ぼけた頭で今日の予定を何とか思い出しながら髪を洗った。しかし、シャワーを浴びてもどこか頭はスッキリしなかったし、それに妙に眠かった。疲れているのかもしれない。
 必要なものを鞄に詰めて台所に向かい、炊きあがったごはんで握り飯を作る。朝飯の分と昼飯の分だ。あとは湯を沸かしてインスタントの味噌汁を作り、お茶を淹れようといつものカップを取り出そうとして。
「斜めになってるよ、俺」
 手を伸ばすとイルカカップの向きが反対になっているのに気付いた。イルカくんが横を向いている。
 昨日は元気だったはずなんだけど、どうやらそうでもなかったらしい。こんな調子じゃそのうち仕事でミスをしでかすぞと、俺はパチンと両手で頬を張って気合いを入れた。
 その日は予定通り、午前中は雪遊びに興じた。雪と戯れることはとても楽しいが、同時に非常に体力がいる。雪だるま一個作るにも子供たちはすぐに汗だくになるくらいだから、良い体力作りになる。雪合戦は地形を含めた戦略を練らせるにはもってこいだし、俊敏さも戦術も必要とされる。子供達はそういうことを楽しみながら学べる。それから最後に森の中での鬼ごっこ。これは毎年俺が鬼になる。雪の日の任務は大変ハードで、寒さと体力の消耗は勿論あるし、なんと言っても足跡の問題があることをそれで学ばせる。雪の中では隠れられる場所も限られるので、生徒達は毎年とても苦労する。だからこそ、良い。
 午後は予想通り、授業にならなかった。午前中に目一杯遊んでヘトヘトになった上に、教室はストーブがあってホカホカと暖かいのだから眠くなるのは当然だ。甘やかすのは良くないが、無理に起こしたって眠い頭には何も入らない。だから起きている生徒達には自習をさせ、俺はその子達を見て回った。
 放課後になると昨日のアゲハとの約束通り、俺は高尾と話をした。
 高尾はクールな子だ。口数は少ないし表情の変化もあまりない。それでも目立たないタイプではなく、何でもスマートにこなすしやけに大人びているので、クラスの子達から一目置かれている。俺もその能力の高さと精神的な成熟具合には注目しているし、この子はいずれ上忍になれるかもしれないと期待していた。上忍が無理でも暗号解析能力の高さから言って、まず間違いなく特別上忍にはなれる。
「何の話か、聡いお前なら分かっているな?」
 誰もいない空き教室で向かい合って座ると、俺が口火を切る。高尾は澄ました顔をして頷いた。
「どうしてアゲハを目の敵にする?」
 昨日アゲハから話を聞いた時、そして高尾の名前が出た時には非常に驚いた。高尾は無口だしあまり他人と接触したがらない。友達も極端に少ないし、その大人びた態度に苦手意識を持ち近寄らない子供も多い。しかしそれでも、この子は非常に優しい子だということを俺は知っていた。例えば班で行動する時なんかにその優しさを垣間見ることがある。高尾は非常にさりげないシーンで、誰にも分からないように、こっそりと他人を助ける。そういう子なのだ。
 仮に高尾がアゲハを嫌っていても、嫌がらせをしたり厭味を言う子ではないのだ。
「アゲハが嫌いか?」
「嫌いだよ」
 即答。しかしアゲハも悪い子じゃない。多少男勝りな部分はあれど、カラっとした性格の明るい子だ。意地悪な性質でもない。
「何でだ?」
「うるさいし、目障り」
 高尾は普段の彼からは程遠い、やけに感情的でストレートな物言いをした。確かにアゲハは明るい子なので、高尾のようなタイプからするとちょっと煩く感じることもあるかもしれないが、アゲハより煩い女の子は他にもいる。それ以上に煩い男の子もいる。その辺りを突っ込んでみたが、高尾はとにかくアゲハだけを嫌っているようだった。
 何故アゲハなのか。多分答えは簡単。
「アゲハは、ちょっと困っている。嫌がらせをされていると、思っている」
 俺がゆっくりとそう言い聞かせると高尾はむっつりと黙りこみ、眉根を寄せて俺から視線を逸らした。
 言い訳はたんまりあるだろう。多分高尾は、アゲハのやることなすこと全てが気に入らないはずだ。だからどんな些細なことでもアゲハの非をあげつらって己の主張と行動を正当化したいはずだ。だが高尾はそれをしない。自分でもやりすぎているという自覚があるから。そして、この子は何故自分がアゲハを嫌っているのか、疾うに自分で分析しているだろうから。
 そして高尾は、その答えをもう知っている。
「アゲハは、困っている。男は女の子を守るもので、困らせたり泣かせたりしてはいけない」
 意識してもらいたくて仕方なくても、困らせてはいけない。そんな幼稚なことはしていけない。そんなみっともないことをしても、好感は抱いてくれない。そのうち意識されるどころか、嫌われることになる。高尾もそれは分かっているだろう。でも、止められなかった。それは仕方ない。高尾は他の子に比べて精神的に成熟していると言っても、まだまだ子供なのだから。
「高尾。お前は男だな?」
 だから誰かが、それを止めなくてはならない。この場合は俺。
「男だ」
 高尾は視線を上げ、俺の目を見てそう言う。
 俺は頷き、話を終える。


「それで、たまたまもらったから貴方にと思って」
 カカシさんはそう言って、ゴソゴソと袋の中から包みを取り出した。
 昨日の今日で一体どういう心境の変化があったのか、カカシさんはとてもよく喋っている。やはり場所の問題だったんだろうか。今日はカカシさんが選んだ店で、中忍の俺の財布にも優しいし、多少近くの客の笑い声なんかは聞こえるものの全て小さな個室になっているので周囲が気にならないという、全くもって理想的な店だった。そこで飲んでいる。ビールを。それで今、カカシさんが任務先で貰ったという温泉の素を俺にくれたところ。
 礼を言って中身を確認すると、有名温泉の温泉の素がたんまりと入っていた。風呂好きの俺には心底有難いし、いつも使っていた入浴剤が切れていたので丁度良かった。しかし何と言うか、今日のカカシさんの依頼主も変わったものをくれたものだ。任務先で報酬以外のものをいただくことはあるが、入浴剤の詰め合わせを、しかもこんなにたんまりとくれる人はそうそういないだろう。温泉の素は結構な値段がすると言うのに。それも密書を届けただけらしいのに。
 本当に全部頂いても良いのかと訊ねたが、カカシさんは自分は入浴剤を使わないからと構わないと言う。匂いが駄目なのか体質的なものかは分からないが、使わないというのならば遠慮なく貰っても良いはずだ。気が楽になって、嬉しいですと全開の笑みを向けた。本当に丁度良いタイミングだったのだ。
「もうひとつあるんですよ」
 カカシさんは俺の反応を見てほっと笑顔を見せ、またゴソゴソと袋の中から包みを取り出す。
「これも、俺は使いませんから」
 それじゃこれまた遠慮なく頂こうとそれを受け取り、今度は何だろうと中を覗いてみると、そこには紺色の髪紐が入っていた。
 ―髪紐?
 いやいや待て待て。ちょっと待て。何がどうしたら、カカシさんに髪紐? 何をどうしたら、この人に髪紐? どんな密書をどんな人に届けたら、温泉の素と髪紐を持たせてくれるんだ? まぁ温泉の素は良い。わざわざすまないねぇ、これでも使って疲れを癒しなさいと、隠居した大名の爺様が持たせてくれた、なんて話はあるかもしれないが、これは何だ。適当にその辺にあったものを持たせたのかもしれないが、それにしてもだ。
 今使っている俺の髪紐が切れそうなので、嬉しいことは嬉しい。有難い。丁度良かった。しかし。
「面白い人ですね。お土産に、しかもカカシさんに髪紐ですか。あ、もしかして、彼女にでもーなんて言われて?」
 貰ったのかな。取り出してみると、確かに高価そうなものだった。しっかりしている。
 返事がないので顔を上げると、カカシさんがポカンとした顔をして俺を凝視していた。何か変なことでも言ってしまったか?
「あ、いや。その。それ、違う人に貰って。えっと、貰ったと言うか、たまたま」
 よく分からないが、焦っているカカシさんを見るのは初めてだった。上忍、しかも写輪眼のカカシも焦るんだなぁと呑気な感想を浮かべながら、俺は曖昧に頷いてもう一度礼を言う。どういう顛末で入手したのかは、言い辛そうだったので話を変える。
 まず、この店について。一体どうやってこんな良い店を見付けてきたんですかと問うと、カカシさんはアスマに、と答えた。アスマ先生は上忍でも俺やアヤメ先生に近い価値観の持ち主なので納得だ。あの人は大衆居酒屋でもしょっちゅう見掛ける。大抵紅先生と一緒で、酒豪である紅先生の世話を焼いているのが常だけれど。ここ、気に入った?と訊ねられたので、気に入りましたと答える。つまみも美味いしそこそこ量もある。それに安い。個室も四人だったら狭いかもしれないが二人なら余裕があって寛げる。カカシさんも気に入ったようで、今度からここで飲むことが決定した。
 とにかくカカシさんは本当にどんな切っ掛けや思考のシフトがあったのか知らないが、今日はとてもよく喋る。ぎこちない部分もあるけれど、普通の人みたいに喋る。普通の人って言ったら失礼かもしれない。でも本当に昨日とは別人のようで、俺達は極めて楽しい時間を過ごした。やっぱり会話だ。コミュニケーションは会話が必要なのだ。
 俺は今日、アカデミーで早速生徒達と雪で遊んだことを報告した。雪だるまを作って、雪合戦をして、鬼ごっこをしたと。その時の生徒達の様子、去年に比べての成長ぶりなどを語る。カカシさんはうんうんと聞いてくれる。カカシさんは今日の任務であったことを報告してくれる。眠くて休憩中に少し寝てしまったこと、届け先はもっと雪が積もっていて雪溜まりに子供が嵌っていたことなどだ。
 泳いでました?と俺が訊くと、泳いでました、とカカシさんが答える。それから二人で笑う。
 雪溜まりに子供が嵌ると、いや酷い時は大人でも、その溜まりが深いと水の中を泳ぐように両手で掻き分けて進まなくてはならない。雪というものはとてもやっかいで、浮かぶことはできないし下手をすると窒息しかねない。だからフガフガと懸命に雪の中を泳ぐはめになる。本人的にはとても大変で笑いごとではないのだが、雪溜まりに嵌った子供が泳いでいる様子を想像するとどうしてか微笑ましい。
 その後は雪の話で盛り上がり、いつか雪見酒でもしたいと言う話にもなった。散財してしまった金をもう一度貯め直すことができたら、カカシさんと二人でちょっと高い店で雪見酒をするのも良い。温泉がある場所に遠出をしても良い。カカシさんが今日のようにリラックスして喋ってくれるのであれば、お互い楽しく過ごせる。
 午前中の雪遊びで今日は俺も疲れていたので、酔うのは早かった。店内は暖かいので眠気もやってくる。そんな俺の状態を察して、カカシさんが早めに切りあげようと言ってくれた。優しい。カカシさんは優しい。
「今日、楽しかったですね」
 ふらふらと歩きながら何気なくそう言うと、カカシさんはぱっと顔を輝かせて頷いた。
 この人、どんどん表情が現れるようになった。驚いたり喜んだりして、うん。良い。
 へっくしょい!と盛大なくしゃみをすると、カカシさんは大慌てで袋の中から丁寧に折り畳んだマフラーを取り出し、俺にそれを巻いてくれる。昨日俺がカカシさんに貸してあげたマフラーだ。それで、返すの遅くなってすみませんと謝ってくる。そんな、良いのに。俺だって今の今まで忘れてたのに。優しい。うん、優しい人。
 いつもの四つ角で挨拶をして別れる。雪溜まりに嵌らないようにーなんて言うから、思いっきり笑ってしまった。冗談まで言えるようになったか。素晴らしい。
 次の角で振り返ると、カカシさんは俺に手を振ってくれた。
 その日からどうしてか三歩進んで二歩下がる状態はなくなり、俺とカカシさんの関係は常に前進するようになった。一歩ずつどころか階段を一段飛ばしで駆け上がって行くような勢いで俺達は急激に近付き、軽口を叩き合うことすら何の躊躇いもなく行われる。物の貸し借りもするようになったし、年が明けると一緒に初詣にも行った。いつもカカシさんといることが当たり前になって、カカシさんのスケジュールに自然に合わせて行動するようにもなった。
 カカシさんは想像以上に良い人だった。とても細々としたところに気を遣う人で、俺の、要は人の喜びを自分の喜びとして感じられることのできる人だ。カカシさんの心の中に悪意なんてものは存在しないんじゃないかと思うくらいで、どんな話題になったって皮肉めいたことも言わないし意地悪な思考も見当たらない。こんな良い人なのに、何故あまり友達がいないんだろうと不思議に思うくらいだ。いや、それどころかカカシさんの周囲には女性の影すらない。顔も性格もこんなに良いのに。でもそう考えた時、答えはすぐに見つかった。
 この人は、名前が一人歩きしているんだ。
 俺もずっとそうだった。カカシさんを写輪眼のカカシとして意識していた。凄腕の上忍で、俺なんかとは別の世界に住んでいる特別な人なんだと思っていた。映画スターみたいに羨望と敬意と若干の畏怖の対象としてカカシさんを捉え、そこにカカシさんを勝手に当てはめて勝手に偶像化していた。一人の人間として見ていなかった。
 きっと周りもそう。俺の同僚なんかはカカシさんが来るだけで緊張するし、腰の引けた対応をしている。中忍連中はみんなそんな感じで、上忍だって余程の実力者じゃないと物怖じしてしまうに違いない。それにカカシさん自体も酷く人見知りするタイプらしく、積極的に自分を知ってもらおうとしない。俺だってそのカカシさんがアプローチしてくれて、しかもこれだけ紆余曲折あってやっとカカシさんを知ることができたのだ。
 寂しかっただろうなと思う。腕が立つから里から随分頼られて、責任と期待は他の人の何倍何十倍で、毎日高額の金銭が動く殺伐とした任務を振り当てられて、黙々と仕事をこなしても愚痴る相手もいなくて、労わってくれる人もいない。
 でも、カカシさんは頑張ってきた。頑張って生きてきた。捻くれることなく優しい心を持ち続け、こうして生き残ってきた。
 俺はカカシさんを誇りに思う。
 友人としてカカシさんを誇りにしている。写輪眼のカカシじゃなくって、里の誉れの上忍じゃなくって、はたけカカシを誇りに思う。こんなに頑張っている人だから。
 そして、カカシさんと友人になれた自分を誇りに思う。
 階級を超えて築くことのできたこの関係も、誇りに思う。



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