翌日からカカシ先生は少し長めの任務に就いたので、せっかく仲良くなれたのにと思う反面、これで暫くは散財しなくて済むと思ったりもした。もう少しだけで良いから中忍の給料レベルに近付けた店にして欲しいのだが、カカシさんはいつもの店を気に入っているようなので言いだし難い。確かにあそこなら静かだし料理も美味いし個室だけれど、とにかく俺の財布が悲しいことになっている。他の出費を削れるだけ削っているので、最近では生徒にラーメンも奢ってやれなくて少し寂しい。
 俺はハァと重い溜息を吐きながら、毎度毎度の素うどんを啜る。せめてここにおにぎり一個を足したいのだが、それは我慢して後で水をガブ飲みし腹を満たすことにしよう。午後からは体術の授業があるので素うどんのみでは心許ないが、いざとなれば奥の手を……兵糧丸を使うという手もある。里から支給される安価な兵糧丸ならまだストックがあるので、給料日までは俺の財布も保つはずだ。多分。
 俺はアカデミーのロッカーの中に隠してある兵糧丸と自宅にある分の計算をしながら、机の上に置いてある小さなカレンダーと睨み合う。それから気合いを入れて素うどんを食べ、最後の一滴まで汁を飲み干した。
 結局その日は家に帰るまで何とか持ちこたえた。受付所にいる時に盛大に腹の虫が鳴るので、苦笑していた五代目も最後にはあきれ果てていたが、仕方ないことなのだ。しかし見かねた同僚がイチゴ味の飴を二個くれたし、任務帰りの中忍仲間は柿をくれた。今から任務だと言っていたゲンマさんも酢昆布をくれた。木ノ葉の里は優しい人ばかりだと俺はちょっと感動する。俺の生徒達も優しい忍になって欲しい。戦場では冷徹であったとしても、人の心を失わない忍になって欲しい。と、酢昆布を食べながら強く思う。
 翌朝はいつもよりも早めに目を覚まして、握り飯を作った。結局自炊に勝る節約はないのだ。いつだかに近所の婆ちゃんから貰った梅がたんまりあったので、具は梅。梅のみ。梅焼酎を飲む時のみに使っていてたのだけれど、なかなか減らないので丁度良かった。
 持参したそれを昼にむしゃむしゃと食べていると、アヤメ先生が声をかけてきた。今日は空いているかと。受付はなかったので空いていると答えると、ならば約束した通り飲みに行きませんかと誘われる。断る理由なんてどこにもなかったので、いや、懐事情は別だが、それ以外はどこにもなかったのでふたつ返事で承諾した。勿論激安居酒屋でお願いしますと注文はつけたけれど。
 本当ならば、女性と一緒に食事をするのだからそんなことは言うべきじゃないだろうし、男としてそれはちょっと格好悪いことだと思ったりもする。でもアヤメ先生は俺にとって、そういった体裁みたいなものを取り繕う必要が不思議と全くない人だった。例えば一緒に任務に就いてやっかいごとに巻き込まれ、なんだかんだと二人で努力して解決したことがあるとか、生徒のことで何度も相談に乗って貰っているとか、共通の趣味があるとか、そういった個人的な距離を縮める出来事などは皆無と言っても過言ではないにも拘わらず、だ。毎日顔を合わせているにせよ特別親密にしているわけではないし、一緒に飲んだこともアカデミーの新年会や忘年会の時だけなのにも拘わらず、だ。
 これはもう、相性だとしか言いようがない。ウマが合う、反りが合う。しかも、抜群に。勿論これは俺が一方的に抱いている親しみなのかもしれないけれど、アヤメ先生の様子を見ている限り、向こうも同じ感覚を抱いているような気がする。とにかく俺はアヤメ先生と一緒にいると、自分を良く見せようと気張ったり必要以上に気を遣ったり、沈黙に困ったりとか、そういうことが一切なくて済む。
 握り飯と一緒に入れておいた沢庵をポリポリと齧りながら、俺は今日は安い酒を目一杯飲もうと心に決めた。
 午後からの授業を滞りなく終えて放課後になると、一人の少女から相談を持ちかけられた。まだ生徒達が残っている教室では言い難そうだったので、空き教室に移動して話を聞いてみると、特定の男子生徒から嫌がらせを受けていると言う。何かとケチをつけられる、何かと厭味を言ってくる、何かと目の敵にされると言う。苛めかどうかは分からないが、嫌がらせをされている……その子が嫌がらせを受けていると感じているのは確かなので、何とかしなくてはならない。
 相手の名前を訊くと、普段は明るくて活発なアゲハという名のその少女は、憂鬱そうに目を伏せて「高尾」と小声で答えた。思わぬ名前が出たので少し驚いたが、「明日先生が高尾と話をする」という約束をするとアゲハは少し安心したようだった。
 職員室に戻るとアヤメ先生と目が合う。二人でニシシと笑い合い、それから仕事の片付けにかかった。明日の教材の準備をして、提出させた生徒達のノートに目を通していく。一区切り終えると出る準備をして、アヤメ先生に声をかけると、アヤメ先生も丁度仕事を終えたようだった。では行きますか、と席を立ち、日誌を持って来た生徒に真っ直ぐ帰れよ、なんて言葉をかけて見送る。
「俺は真っ直ぐには帰らないけどねー」
 生徒が職員室から出ると、俺はニカっと笑ってアヤメ先生に向けてそう言った。
「私達、寄り道して帰りますからねー」
 アヤメ先生もニカっと笑う。アヤメ先生は、見た目とこの笑顔のギャップが凄いんだ。普段は大人の女の顔をしているのに、こうやって笑うとただの悪戯っ子みたいになる。でもそこが魅力的でもある。
 二人で一緒に職員室を出て、並んで校門を出た。とにかくやたらと安い店か、そこそこ安くて一皿の量が多い店かで、二択を迫られる。相当悩んだけれど、俺は後者を選んだ。アヤメ先生は見た目に反して大食いということを知っているからだ。俺が毎日素うどんを食べているのをアヤメ先生が知っているように、俺もアヤメ先生が毎日やたらとデカイ弁当と、更におにぎりを二個別にして持って来ているのを知っているのだ。
 店は「満福」と言う、店員がやたらと大声を出す店だった。活気があって宜しい、とでも言いたいところだが、少々五月蠅い感が無きにしも非ず。しかし笑顔で元気に働いているので、不愉快にはならない。
 早めに店に到着したので、客はまだほとんどいなかった。案内された座敷に腰を下ろしてとりあえずビールを注文する。
「今日は飲むわよ」
 アヤメ先生がニィっと笑う。
「桃源郷の幻覚が見えるまで飲みましょう!」
 俺も拳を握って挑むように笑う。
 ビールが来るとまずは乾杯し、それから一気に飲み干す。口についた泡を手の甲で拭い胃から上がって来たゲップを吐きだすと、アヤメ先生が気合いを入れて「おかわり!」と叫んだ。ついでに胡坐まで組む。この人が飲む時に胡坐になるのは、忘年会や新年会の時に見ている。
「鳥の唐揚げ! それから野菜炒めみたいなもの!」
 ビール一杯で完全にノってきたアヤメ先生の声が響くと、店内のそこかしこからやたらと元気の良い返事と注文の復唱が返ってくる。すぐにビールはやって来て、俺達はそれも一気に飲み干す。そこで漸く一息吐く。
 アヤメ先生は本当に面白い人で、どこからどう見てもアダルティでしっとりとした美人さんなのに、本当は全然しっとりしていない。本当は、と言うか、本性は、非常に豪快な人だ。噂によるとその細い身体に似合わず相当な体術の遣い手らしい。先日旦那さんの七回忌を終えたそうで、話題はアヤメ先生のその旦那さんの思い出話から始まった。
「そりゃもう、何を考えてんのか分かんない人だったわよ」
 無口なんてもんじゃなかったんだから、と付け加えて、アヤメ先生は突き出しの豚の角煮に箸を伸ばす。聞くところによるとその人はアヤメ先生の上忍師で、当時は何を考えているのか分からない彼とかなりのいざこざはあったらしい。が。
「要は愛されてたのよ、私。ずっと」
 こーんなちっちゃい頃からよ。あの人、ロリコンだったんじゃないの? と、アヤメ先生は笑う。でも上忍師と下忍がそのままくっ付いて結婚することは特に珍しいことではない。それにどうやら呆れるほど熱烈に愛されていたようで、逸話はどれもこれも亡くなった旦那さんの彼女に対する強い愛情に満ちていた。多少執着が強すぎる感もあったし、アヤメ先生もそれに頭を悩ませていたらしいが、こんな美人で魅力的な人を嫁さんに貰ったんだから多少の執着は仕方ないと俺は思う。
 それからアヤメ先生の出生からどんな親にどんな風に育てられたのか、どんな青春時代を送りどんな結婚生活を送ったか、という話題になり、店内が他の客と店員の熱気でごった返す頃になると酒のペースも更に上がり、この里がどういう方向に向かうべきなのか、なんて真面目なことを二人で熱心に話し合って、最後には生徒達がいかに可愛いかについて、俺達は酔っ払い丸出しで泣きながら語り合った。泣きながら、だ。アホだ。
「だからさ、だからさ、みんな良い子ばっかなの。ほんと、良い子ばっかなの。もう泣けちゃうくらい」
「良い子ばっかですよ! そりゃ色んな子がいますよ。いる。でも接してれば分かる。なんだかんだ言って、みんな本当に良い子!」
「そうなの! そうなのよ! ちょっと歪んだ子も捻くれた子も、そりゃいるわ、いるわよ、だって人間だもん! まだ子供だけどちっちゃいけど、人間なんだからそれぞれ事情も性格も色々あるのは当然よ! でも、みんなみーんな、こっちが愛情を向けるとその愛情に応えようとしてくれるのよ。ちゃんと。ほんと、そこよ。ここテストに出すぞ、うみの! それにさ、結局さ、みんな誉めて欲しいの。みんな愛が欲しいの。ただそれだけ」
「分かる!」
 俺はバシバシと机を叩きながら鼻を啜り、壊れた人形のように何度も頷いた。分かる。みんな誉めて欲しい、愛が欲しい、ただそれだけ。子供は、人間は、結局のところただそれだけ。
 激しく同意しつつも、何度も首を縦に振っていたら酔いが回った。子供達の話に夢中になるにつれて、次第に呂律が回らなくなってくる。そのうちウチの子自慢ならぬ受け持ち生徒自慢まで繰り広げ、嫌いな上忍の愚痴の言い合いまで発展した頃には俺はぐでんぐでんになっていた。俺は、だ。アヤメ先生はここから強い。この人は酔ってからが本領発揮と言った方が良いくらいの人だ。
「うみのー! お前、なにウーロン茶頼んでんだぁ!」
「頼んでらぃってえ! これ泡の抜けたビールらからぁ!」
 物凄く些細なことで爆笑。もう自分でも良く分からないくらい可笑しくて堪らない。アヤメ先生はトイレに立つ度に足をテーブルにガンガンぶつけるんだけど、それだけで腹が痛くなるくらい笑える。
 結局夜遅くまでその店に居座って、次に一楽に寄って二人でラーメンを食べて、二人でゲラゲラと笑いながら公園まで歩いてそこで別れた。おやすみなさいと挨拶して、んじゃ、っと手を上げた時に「うみのー、明日は朝から職員会議だぞー」とアヤメ先生が言うので、笑い所でも何でもないのにまた二人でゲラゲラと笑った。こんなに笑ったのは久し振りだった。
 翌朝、酷い二日酔いに苦しみながらバタバタと職員室に駆け込むと、アヤメ先生は完璧に化粧をして完璧にいつものしっとりとした大人のアヤメ先生として、俺にニッコリと微笑みかけた。ほんと、この人には敵わない。




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