「で、ですね。俺は言ってやったんです。自分の気持ちを認めてあげなって。いつかその人に恋したことを笑って話せるようになるまで、お前は自分の恋を認めて、その恋を大切にしてあげなよって」
御猪口を手にして酒を飲みながらそう言うと、カカシさんは小さく頷いた。
どんな心境の変化か、今日のカカシさんは非常に反応が良い。
受付業務が終わると俺とカカシさんは並んでこのいつもの小料理屋にやって来たわけだが、ここに来る最中に「うん」と「そうだね」を三回も聞いた。それどころか、「それでどうなったの?」もあった。信じられないくらい、今日のカカシさんは俺の言葉にリアクションを返してくれる。勿論それでも一般の人間よりは無口な方なのだが、規則で決められたように無表情で黙り込んでいた頃に比べると雲泥の差だ。
「アイツは、認めるのは苦しいって言いました。でもその恋が成就するかしないかで言うと、しないんですよ。それは俺も分かってるしアイツも分かってる。だから、成就を望むんじゃなくて、まず自分の恋をしっかりと認めてあげて、そこから次に進もうって俺は言ったんです」
「次って?」
ほらまた。カカシさんは俺の顔こそ見ないが、ちゃんと会話を成立させてくれる。
「区切りです。こんな恋をしたんだって、心が区切りをつけるための準備をしようよってことなんです。恋を認められないなら、区切りもつけにくいじゃないですか。それに、恋が可哀想だ」
「恋が可哀想?」
良いぞ良いぞ。
「ええ、恋が可哀想。恋をした心が可哀想です。だって人が人を想うのに、良いも悪いもないじゃないですか。それなのに誰にも認められないなんて、恋が可哀想だ。恋に罪なんてありゃしないんだから」
俺は熱燗が入った徳利を傾けて、御猪口に酒を注ぐ。それから、とてもさりげなく徳利を持った手をカカシさんの方へ伸ばした。カカシさんは少し戸惑ったようだけど、御猪口を手にして俺から酌を受ける。
素晴らしい。今まではカカシさんのあまりの動かなさっぷりに上手く酌ができず、いつの間にか俺達は手酌で飲むようになっていたけれど、一緒にいるんだからこうして飲むのも良い。
カカシさんの御猪口に酒を注ぐと、丁度酒が切れた。カカシさんはすかさず御品書を俺にくれる。
「次、何いきます? あ、つまみも何か頼みましょうか」
「うん」
「鍋でも頼んで二人でつつくってのはどうですか?」
「うん」
カカシさんと二人で鍋をつつく日が来るとは思ってもいなかった。凄い進歩だ。
俺は調子に乗ってカカシさんの正面から隣に場所を移動し、カカシさんと一緒に御品書を見る。身体を斜めにして顔も寄せて、どれが良いか一緒に選んだ。財布の中身が非常に厳しかったけれど、今月を乗り切ることよりもカカシさんと親しくなりつつある喜びの方がずっと大きい。カカシさんもそう感じていてくれると嬉しいのだけど。
蟹か牡蠣かアンコウかで悩んで、結局牡蠣鍋になった。決めるまでにカカシさんは、五回の「うん」と、二回の「良いよ」を口にした。注文が済むと俺は元の場所に戻る。
「区切りがつかない場合は?」
皿に少しだけ残っていた、どんな食材が使われているのかもよく分からない凝った創作料理を貧乏ったらしく食べていると、そう訊ねられる。一瞬何のことかと思ったが、話が戻ったのだと理解した。
「区切りはいつかつくと思うんです。それに、仮にアイツがそれを恋だと認めなかったとしても同じじゃないですかね。どっちにしろ忘れられないならずっと忘れないし、死ぬまでその恋心を抱くなら同じく死ぬまで恋心を抱きます。ならば認めた方が良い。認めて、自分の恋を大切にしてやれば良い。自分の心を大切にして欲しいと俺は思うんです」
カカシさんは珍しく真っ直ぐ俺を見ていた。額当てのせいで左目は見えないけれど、口布はないので表情は窺える。とは言っても表情らしき表情なんて浮かんでいない。でも、カカシさんは今まで見た中では最も人間らしい顔をしていた。人形みたいだったり何を考えているのか全く分からない生き物みたいじゃなくて、血の通った人間らしい顔をしていた。
恋の話、か。
もしかしてカカシさんは、誰かに恋をしているのかもしれない。相手は中忍で、だから俺に色々訊きたいのかもしれない。でもこの人はこういう人だから、なかなか言い出せないのかもしれない。そう思うと合点がいく。
「カカシさんは好きな人いるんですか?」
あっさりとした口調を心がけてそう訊ねてみるとカカシさんは俺を見て何度か瞬きをし、それからいつものように俯いた。せっかく温もりのある人間らしい顔になったと思ったのに、また無表情な人形に戻ってしまっていた。どうもこの人は、俺から何かを質問されるのが苦手のようだ。
今度から気を付けよう、せっかく良い感じだったのにブチ壊しだと反省していると、店員が鍋を運んでくる。この話は終わったということを告げるために「美味そうですね」と笑顔で言うと、カカシさんはゆっくりと頷いた。鍋なんて見てないくせに。
コンロに火を付け、できあがるまで鍋の話をする。どんな鍋が好きなのかを俺は一人でだらだらと語り、カカシさんは時々頷いたり「うん」と返事をしたりしていた。暫くそんな感じだったけれど、俺が「鍋の締めで一番好きなのは雑炊、次は餅」だと言ったら、カカシさんは「俺も」と呟いた。新しいバージョンだ。「うん」でもなく「そうだね」でもなく、「俺も」。更には、鍋に火が通り「カカシさんの分も分けましょうか」と訊ねると「お願い」とも言われた。今日は何だか凄い日だ。
鍋をつつきながら、他愛もない話をする。同僚のこととアカデミーのこと、それから俺が温泉好きなこと。
「俺だけが知っている秘湯があるんです。俺は内勤だからあまり行くチャンスがないんですけど、火の国と砂の国の境目くらいに、トウヤ渓ってあるじゃないですか。あそこにね、あるんです。凄い場所ですよー。普通なら絶対気付かない。だってね、険しい岩壁の間に出来た隙間、その隙間がちょっとした洞窟みたいになってるんですけどね、その奥に何故か温泉が湧いてるんです。しかもその隙間の前には、それを隠すかのようにやけに尖った大岩が川から突き出ていて――」
「あ、知ってる!」
カカシさんがそんな大きな声を出したのも、そんな素の表情を見せてくれたのも初めてだった。
「知ってるんですか?」
「うん、その尖った岩の片側に、小さな松が一本だけ、へばりつくみたいに斜めに生えてて」
「そうそう! あれ目印になりますよね。あとあそこの温泉、奥に行きすぎると熱いですよね!」
「熱い。洞窟に入って二メートルくらいがベスト」
「そうそう!」
大変驚くことに、俺だけが知っていると思っていた秘湯をカカシさんも知っていた。そのあまりの偶然に俺達は、少なくとも俺は酷く興奮して持っていた箸を置き、思わずカカシさんに握手を求めた。カカシさんは差し出された俺の手をまじまじと見て、多少遠慮がち、もしくは多少引き気味に俺の手を握り返してくれた。何だって良い。ともかく俺は興奮した。その場所を知っている人がいるとは思わなかった。
「俺は俺は、ずっと昔、任務でヘマをして、あの谷に落ちたんです。戦闘時に敵方が起爆札を使いまして、その爆風に吹き飛ばされたんですよ。んで、川に落ちて、ああ、俺死んじゃうかもって思った時に偶然あの洞窟を見付けて、身を隠そうと中に入ったんです。そしたら温泉湧いてるじゃないですか! 俺、死にかけなのに一気にテンション上がりましたよ! 爆上がりですよ!」
拳を握って身振り手振りを交えて馬鹿話を熱く語ると、カカシさんは俺を見てとても嬉しそうに笑った。
カカシさんが笑った。
もう今日は凄すぎる日だ。今までどれだけ試してみても一向に縮まらなかったカカシさんとの距離が、今日一日で飛躍的に縮まった。カカシさんが近い。親しみを感じるどころの話じゃない。
だって、俺がカカシさんの友達になりたいって強く感じている。カカシさんが俺と友達になりたいんだ、だから友達になろうじゃなくて、俺がカカシさんと親しくなりたい欲求で一杯になってる。
「カカシさんは? カカシさんは何であそこ知ってるんですか?」
「俺も一緒なんです。俺も、以前あの山で戦闘でしくじって谷に落ちたの」
「ええええ! 物凄い偶然! 何ですかこの偶然、もう奇跡みたいなもんじゃないですか!」
俺は嬉しくて嬉しくて、もう一度カカシさんに手を差し出した。今度はカカシさんも変な間を置くことなく俺の手を握り返してくれる。
「温泉が繋ぐ絆!」
俺が叫ぶと、カカシさんは噴き出した。それを見て、俺も噴き出した。
それから俺達は牡蠣鍋を食べながら酒を飲み、その温泉をネタに盛り上がり、沢山の会話を成立させた。会話を、だ。俺が喋ってカカシさんが頷いたり「うん」と返事をするだけではない、本当の会話を。
勿論カカシさんは饒舌なタイプではないから、ほとんどは俺が一人で興奮して喋っていただけだ。でも問題なかった。意思の疎通はできているし、カカシさんはカカシさんのペースというものがある。それに何よりも、カカシさんはもう「何を考えているのか分からない人」ではないことが俺を有頂天にさせていた。
俺がほどよく酔ってくると話題は温泉に留まることなく、檜に関する蘊蓄、旅館の朝食から出汁巻き卵、納豆、そして最終的には美味い魚の話になった。木ノ葉には海がないので新鮮な海魚が入って来ない。川魚で育った里の者は海魚は臭いと言って嫌がる者も多い。しかし俺は名前が名前だからか、海魚が大好物だった。そして、カカシさんはその名前にそぐわず海魚が好きだと言う。
「何の魚が一番好きですか? 俺、ハマチとノドグロ、マグロ、鯛、鰈、カサゴなんかも大好きです!」
「俺は秋刀魚」
「良いですね、秋刀魚、良いですね! じっくりと焼いて、大根おろしを添えて醤油を垂らして……。カカシさんはスダチ派? レモン派?」
「スダチ派です」
どこか嬉しそうに見えるカカシさんを相手に、俺達は秋刀魚のネタで盛り上がる。レモンも良い、醤油も良いけどポン酢も良い。それに秋刀魚は刺身にしても美味い。でも海のない木ノ葉では秋刀魚の刺身はまず食べることができないよね。そもそも木ノ葉では魚の刺身そのものが非常に高級だよね。なんて話。
とても楽しかった。カカシさんも楽しんでいたと思う。
だってカカシさんは何回か笑っていた。今までモノのような目をして俯いていた人が、その目に穏やかな光を宿し、少し照れたような笑顔を何回か見せてくれたのだ。
俺の心境の変化と共に、カカシさんの心境にも変化があったのか。それともトウヤ渓の温泉話で急激に心が解れたのか、ともかくカカシさんと俺は今日一日で急接近したのは確かなんだ。良い方向にグンと近付いた。画期的とも呼べるくらい。
帰り道、二人揃ってのんびりと歩きながら七班の子供達について語り合った。俺はアカデミー時代の三人のことを色々と思い出してはそれを面白可笑しく話し、カカシさんは波の国であったことをポツポツと教えてくれた。あの三人があの任務でどんな成長をし、どれだけ頑張ったのかを。
波の国の出来事についてはカカシさんの報告書で一応の概略は知っていたし、ナルトからもしょっちゅう聞いていた。どれだけ自分が活躍したかをナルトは身振り手振りを交えて、大層熱心に語ってくれたものだ。サスケの活躍は八割減、自分の活躍は八割増しくらいにして、カカシ先生ってばスッゲーんだぜ!っと、たまに思い出したようにカカシさんを誉め、それでまた自分の活躍話に戻る。それからその時行った修業のことも、耳にタコができるくらい聞いた。何故かその話題になると、ナルトはサスケのことも認めるので俺は何度も何度も最後まで聞いていたものだ。修行中、何か心の交流があったのかもしれないととても嬉しく思ったから。
しかしナルトから話を聞くのと、カカシさんから聞くのとではまるで違う。良く言ってナルトのはアカデミーの絵日記程度の報告なのに対し、カカシさんは上忍の目で見て感じたことを俺に教えてくれるのだ。三人の頑張りに真実味があり、尚且つ客観的な考察があってとても有難い。
カカシさんもナルトも、霧隠れの里から抜けだした二人の悲しすぎる結末に関しては一切触れなかった。報告書では知っていたけれど、俺もそこには触れなかった。
なんだかんだとあの三人の話をしているうちに、いつもの四つ角に来る。
「波の国、俺は行ったことないんですよ」
足を止め、もう少し話していたい名残り惜しさを感じつつ、俺はそう言う。
「豊かな国ではないけど、メシは美味かったよ」
と、カカシさんはクスリと笑って言う。
「俺、内勤でしょ? 海に行く機会そのものがあまりないんですよね。だからいつか、海の近くにある温泉に泊まって、新鮮な魚介類に舌づつみを打ちながら良い酒を飲むってのが夢なんです。波の国、温泉あるかなぁ」
「あるよ」
「じゃあ、いつか行ってみたいですね。そんで、ナルト大橋を見るんだ」
酒が入っているせいか若干子供じみた口調になった俺を見て、カカシさんはそっと目を伏せ何か言いたげに唇を僅かに動かす。しかし、幾ら待ってもそこからは何の言葉も発せられなかった。
「おやすみなさい、カカシさん」
俺はペコリと頭を下げて踵を返す。呑気に鼻歌を歌いながらプラプラと歩き、次の角まで行ってから振り返ってみる。
カカシさんはいつものようにそこに突っ立っていた。でも俺が手を振ると、控え目に手を振り返してくれた。