何度か瞬きをし、ぼんやりする頭を押さえながら上半身を起こす。それから間の抜けた欠伸をしながら大きく背伸びをすると、俺はベッドから降りてトイレに向かった。
洗面所の鏡に映った顔はむくんでいたし、身体も少しだるい。そんなに遅くまで飲んでいた記憶はないが、疲れが上手く取れていないようだった。もう一度トイレで欠伸をしながら、用を足す。それから今日のスケジュールを頭の中で確認。朝イチからテスト、その次に薬草授業、午後には忍具の授業がある。しっかりしなくてはならない。
トイレから出るとシャワーを浴びるために脱衣所に行き、服を脱ぐ。昨晩は酒を飲み過ぎたようで帰宅してからの記憶がないが、俺はちゃんと寝巻に着替えてベッドで眠っていた。正体を失くすまで飲んだ時は、大抵居間でゴロ寝をしてしまう……のはまだ良い方で、酷い時には公園のベンチで眠ってしまったこともあるのに、昨日の俺は随分と行儀が良い。偉いな俺、とシャワーを浴びながら一人で悦に浸る。
シャワーを浴び終えると流石に幾分すっきりした。肩を回して身体をほぐしながら台所へ向かい、鍋にお湯を沸かす。冷蔵庫を開けてしなびた大根を取り出し、適当に刻んで鍋の中に放り込む。冷凍しておいたご飯を温め、鍋の大根に火が通ったところに豆腐と味噌と干からびた葱を入れ、あとは賞味期限の切れた納豆を出して朝食の準備を終わらせた。
卓袱台の上に全部置いて座ろうとすると、飲みものがないのに気付いてまた台所に戻る。冷蔵庫を開けて麦茶を取り出し、茶箪笥の中からいつも使っているマグカップに手を伸ばすが、そこでふとその手が止まった。
そのマグカップは、アカデミーを卒業した生徒が作ってくれたものだった。どうしてもチャクラを上手くコントロールすることができなかったその生徒は、同期の者が次々と卒業していく中で一人だけ落第を続け、しかしそれでも諦めることなくアカデミーに通い、十六で漸く下忍になったのだ。何度か落第すると「自分は忍の才がない」と諦めてしまうものなのだが、その子は本当に粘り強く頑張った。集中しすぎてチャクラを暴発させてしまう悪癖を治し、見事アカデミーを卒業し、今では立派な中忍になっている。元々熱心に授業を受けていたし、チャクラコントロール以外は良い素質を持っていた。風の噂ではその才を認められ今は難しい任務にあたっていると言う。
その子が、卒業時に俺にくれたのだ。キラキラと顔を輝かせ、額当てを誇らしげに巻いて俺にくれたのだ。「大好きなイルカ先生へ」から始まる長い手紙と共に。
マグカップにはイルカの絵がプリントされてあった。ご丁寧に俺と同じ場所に傷があるし、裏には木ノ葉マークも付いているので、その子がわざわざ業者に発注して作ってもらったものなのだろう。だから俺は、その子の気持ちが入ったそのマグカップをとても大切にしている。とても、大切にしている。
何でも大雑把な俺が、置く場所や向きをしっかり決めているくらい。
「反対だぞ、俺」
イルカの絵が反対を向いているコップを手にして、俺はそう独りごちた。さっきは「偉いな俺」と悦に浸ったのだが、やっぱりどこか抜けているんだ。俺は。
その日は、例えば授業中に生徒が抜けだし火影岩にペンキを塗るとか、女子と男子が大喧嘩をして教室を滅茶苦茶にしてしまうとか、忍具の授業で誰かが怪我をしてしまうとか、そういった厄介事や問題は一切起きない平和な日だった。放課後に隣のクラスのアヤメ先生と喋っていると、アヤメ先生のクラスも同様に問題のない一日だったらしい。「いつもこうなら良いですね」とニッコリ微笑むアヤメ先生に、俺は「全くです」と返事をした。
でも毎日毎日平和だったら、ほんのちょっと寂しいかもしれない。子供達が何の問題も起こさなかったら、それはそれで不自然だと思う。手のかからない子供ばかりになるなんて、不気味だとも思う。怪我がないように気を付けて、ちょこっと悪戯くらいしても良い。
「イルカ先生、今日は受付?」
アヤメ先生が髪を耳に引っかけながら、優しい声で訊ねてくる。
「はい、五時からシフト入ってますよ」
答えながら壁の時計を見遣ると、まだ少し時間があった。今日行ったテストの採点を少しやっておこうと、机の引き出しから答案用紙の束を取り出す。
一枚目はタキだった。困ったことにほぼ白紙だ。少しよれている箇所はきっと涎の跡なんだろう。二枚目はミキで、一枚目のタキとは打って変わってしっかりと、むしろ必要以上にビッシリと答案が書きこまれている。ミキがまるで俺に熱弁をふるっているようにも見えるそれは、なかなか興味深いし面白い。
「今度、食事でもどうです?」
三枚目、四枚目と採点を進めていると、声をかけられた。
「良いですね。美人と食事なんて嬉しいです。でも俺、貧乏ですから高い店には行けませんよ」
答案用紙から目を離さずにそう答えると、アヤメ先生が可笑しそうに笑った声が聞こえた。でも俺はここ最近、本当に金がない。本当は奮発したいところだったが、アヤメ先生が同僚になってから結構長いので気心も知れている。無理をする必要はなかったし、アヤメ先生は俺の財布事情をよく知っている。何せ毎日昼食に素うどんを食べているのを見られているのだ。
「じゃあ、是非。イルカ先生の受付業務がない日にでも」
「ええ」
「私、安くて美味しいお店、ピックアップしておきます」
「よろしく。色々と楽しみにしてますよ」
そこで顔を上げてアヤメ先生を見ながら、俺はニカっと笑った。アヤメ先生もニカっと笑った。この人は一見おしとやかな美人さんなのだが、実際は非常に快活である。サバサバしていて面白いし、酒を飲むと豪快に笑う。初めて一緒に飲んだ忘年会の時に「私、普段は猫被ってるんです」と同僚達の前で言い放ち、本性を露にしたアヤメ先生のことは忘れられない。その酒豪っぷりは紅上忍に負けず劣らず、豪快な物言いも大層面白かった。アヤメ先生と二人っきりで飲むのは初めてなので、楽しみだ。
時間が来ると採点を中断し、用意を整えて受付所に向かう。
一番忙しい時間帯なので、俺が受付に入るや否やまだ座ってもいない俺の机の前に人が並び始めた。ソファーにカカシさんがいるのが見えたが会釈をするに留め、無言で急かしてくる忍達の圧力に苦笑しつつ俺は素早く支度を整える。早く帰りたい。それは誰しも同じなのだ。
忙しい時の何が良いかと言うと、時間の経過を早く感じることだ。記入漏れがないのを確かめ判を押し、一人一人の状況に応じて労りの言葉を掛けているとあっと言う間に夕方のピークは終わった。一息吐いて、隣でぐったりしている火影様と同僚にお茶を淹れ、自分もそれを飲む。任務を終えた忍達が大挙する時間帯は終わり、後はこれから闇に紛れて仕事を行う者達の時間。
シズネさんがトントンを抱えてやって来ると、眠そうに目を擦りながら茶を啜っていた五代目が、いかにも渋々といった感じで重い腰を上げて俺達に手を上げた。五代目はこれから、闇に紛れて行う任務、その多くが高ランク任務なわけだが、その任命と振り分けに忙しい。お疲れ様ですと俺達は頭を下げる。
「今日は忙しかったー」
同僚が机の上に両手を投げ出し突っ伏してそう言う。
「日帰りの任務が多かったみたいだな。忙しいってのは良いことだぞ。里が潤う」
「低ランクの依頼ばっかり舞い込んでも里は潤わねぇだろ」
「ばーか、小さなことからコツコツとやって、信頼を得ていくんだよ」
頬杖を突いてぼんやりと同僚の相手をしていると、ソファーに腰掛けているカカシさんと目が合った。俺の記憶ではカカシさんは今日は待機の日で、明日から大きな任務に出る。だからきっと今日も誘われる。なので俺は「九時に終わります」と言う意味を込めて、手で九と示した。カカシさんはひとつ頷く。珍しく素早い反応があったので、俺は満足する。
リアクションというものは大切だなと思う。こちらの意思が伝わったかどうか分からなければどうしようもない。リアクションの連続が意思の疎通を深めていくものなのだから。コミュニケーションはリアクションによって築かれるものなのだから。
「うみのー。お前の顔見ると里へ帰って来たって気がするよー」
埃まみれの上忍が報告書を差し出し、くったりと膝に手を突きそう言う。
「おかえりなさい、サケヤ上忍」
俺は思考を切り替えて心から彼の帰還を喜ぶ。