第七章

 空気の冷え込み方と匂いで、今日はきっと雪だろうなと思った。
 脳裏には波間に浮かんでは沈み、浮かんでは沈みを繰り返すヤシの実が現れる。どこからやって来たのかそれはぷかぷかと海を彷徨い放浪し、生涯でただ一度の長期休暇を満喫しているのだ。魚に突かれたり嵐に見舞われたりしたかもしれないけれど、そのヤシの実を縛るものなど何もなく、どこかの浜辺に打ち上げられるまで自由気儘に旅を続けるのだろう。もしかしたら冷たい海に行くかもしれないけれど、この呑気なヤシの実からは悪い予感など欠片も感じられない。うってつけの場所で暖かな日差しを受けて根を張ることが決定されているみたいだ。
 ふと笑みが零れたところで目が覚めた。再度、その朝の匂いで今日は雪かもしれないと思う。
 やけにぼんやりする頭でカーテンに手を伸ばし外を覗こうとしたが、窓ガラスが真っ白に曇っていて何も見えなかった。上半身を起こして指でキュッキュと窓ガラスを擦ってみると、そこから白い世界が見える。
 ああ、やっぱり雪だ。
 雪は好きだ。ひらひらと舞う粉雪もぼってりとした牡丹雪も好きだ。雪はとても静かに、そして誰の上にもどんなものの上にも平等に降り積もり、辺り一面を銀色に染めて行く。醜いものも穢れたものも雪は全部覆い隠して美しい世界を作ってくれる。それに雪が降ると子供達が喜ぶ。
 一度大きく身震いしてベッドから降りる。手を擦り合わせながら居間に行って石油ストーブに火を点け、その前でしゃがんで手をかざし暫く身体を温めた。今日は早めに行って、生徒達が来る前に教室を温めておいてやろう。寒い寒いって震えながら駆けこんで来るに決まってるんだから、教室が温まっていれば喜ぶに決まってる。きっと教室の後方にある大きなストーブの周りに皆集まって来て、こうして手をかざすだろう。俺も一緒にそこで手をかざそう。そしてそこで皆と話をしよう。何だって良い、どんなことでも構わない。みんなが喜ぶような話をしよう。始業の鐘が鳴ったって構うもんか。
 良い一日になる気がする。子供達の笑顔を沢山見ることができる一日になる気がする。
 立ち上がって脱衣所に行く。まだどこかぼんやりとしているので、熱いシャワーでも浴びて頭をスッキリさせよう。朝メシは……そうだな、途中でパンと缶珈琲でも買って歩きながら食べようか。とにかく今日は子供達よりも早く教室に行こう。
 服を脱いで浴室に入るとすぐにシャワーのコックを捻る。最初は冷たい水が出ていたが、待っていると温度が上がり湯気が立ち込めた。熱くて気持ちが良いし、寒さで強張っていた身体から力が抜ける。顔を洗っていると髭が伸びている感触がしたので、どれ髭でも当たろうかと風呂椅子に腰を下ろし鏡を見た。
 そこに映っていたものは当然見慣れた自分の顔だった。
 ただし首には、両手で強く絞められた痕がくっきりと。
 くっきりと―。
 ああ、殺されかけたのだなと思う。そう言えば昨晩はあの男を殺そうとしたのだ。起爆符を身体中に貼り付け、ベッドの上で膝を抱えてあの男を待っていた。あの男は確かに帰って来て、寝室に入って来て……そこからは記憶がない。その後何がどうなったのか知らないし知りたくもない。どうせ「お仕置き」とやらがあったに決まっている。
 そして、殺されかけたのだろう。
 この痕からは本気の殺意が窺えるから。
 どうせなら殺せば良かったのにと苦笑する。あの男に殺されるのは本意ではないけれど、このままずるずると玩具にされ続け世界を汚していくのはもっと嫌だった。俺はもう駄目になっている。あとは頭がオカシクなるまで玩具にされ続け、汚され続け、いつか捨てられるだけだ。そうなれば散々弄られたこの身体は夜な夜な男を求めるようになるんだろう。
 おぞましい。吐き気がする。
 そうなる前に、いっそ死んでしまおう。せめてこうして理性が残っているうちに死のう。
 決断すると涙が溢れた。俺の人生はこんなはずじゃなかったのにとか、どうしてこんなことにとか、そういったことは全然思い浮ばなくて、ひらひらと舞う雪のように静かに涙を流した。




 予定通りアカデミーに行く途中でパンと缶珈琲を買ってそれを食べながら歩いた。最初は傘を差していたのだが途中で嫌になってそれを閉じ、まだ人気の少ない早朝の雪の里を一人で歩いた。雪が頭の上に降り、肩の上に降り、汚れた俺の上に降る。しかしその冷たさが心地好かった。
 温かな珈琲を飲み終えると鼻を啜り、歌を唄った。好きな郷愁歌を立て続けに三曲唄って、その次に小さな子供が唄うような童謡を口ずさんだ。お花の歌とかミツバチさんの歌とかお星様の歌とか、そういうの。最後はとても好きな恋の歌を唄った。恋なんてしてないのに。
 恋を、したかったと思う。
 思春期の頃に好きな子はいたけれどそれは淡い憧れで終わってしまったし、その後も気になる人ができても恋と呼べるまでの感情には発展しなかった。思春期はとにかく立派な忍になりたくて、教師になると生徒達の成長ばかりに気を取られて、たまに同僚と馬鹿騒ぎをしながら飲む日々だった。恋愛なんて二の次で、結婚もまだ先のことだと思っていた。
 恋を、したかった。
 別に映画や小説みたいな激しい恋じゃなくて良い。片想いでも構わない。死ぬ間際に恋する人の顔を思い浮かべ、その人の幸福を願いながら死ねれば良い。でも俺は恋ができなかった。だから死ぬ時はきっと、あの男を憎みながら死ぬんだろう。
 職員室に入ると鞄を下ろし、石炭を取りに行く。アカデミーのストーブは旧式のダルマストーブで日直の生徒が朝石炭を取りに行くことになっているのだが、今日はその仕事を俺がやる。結構重いし手も汚れるので、生徒達が嫌がるのがよく分かった。
 火を点けて温まっているとドアが開く。一番乗りは高尾だった。
「おはよう」
 ニッコリと挨拶すると、高尾もおはようございますと返事をする。早いなと言うと日直だったからと言われた。
 二人で並んで手をかざしているとポツポツと生徒達がやってくる。思った通り寒い寒いと教室に駆けこんで来て鞄も置かずにストーブの周りに集まる。どの子も頬と鼻のてっぺんが赤くなっていて、とても可愛かった。本当に、本当に、心から愛おしいと思った。
 その日は机と椅子を隅に寄せて、ダルマストーブを囲んで皆で話をした。
 どんな忍になりたいか夢を語らせ、歴代の名だたる忍の中でも誰のどの武勇伝が好きか語らせた。憧れている上忍の話をする子もいれば三代目のことを話す子もいたし、自分の両親の逸話を実に誇らしげに語る子もいる。どの子も生き生きとしていて未来を信じている目をしていた。中にはあの男に憧れている子もいたが、仕方のないことだと特に気にしなかった。あの男は上忍だし二つ名を持つほどの実力者なのだから憧れるのも無理はない。その子だけでなくほとんどの者はあの男の本当の姿を知らないのだから。
 昼になっても机と椅子は戻さず、俺達は輪になって飯を食べた。俺は弁当を持って来てなかったから購買でパンと牛乳を買ってそれを食べた。昼休みには皆で雪だるまを作って遊び、午後からもやっぱり輪になって話をした。木ノ葉の歴史、初代様、二代目様、三代目様。若くして亡くなった四代目のことは皆あまり知らなくて、特に話をせがまれた。そして、どの火影様も目下の者に優しく立派な方達だったんだよ、だからお前達も立派な、どんな状況に陥ってもどれだけ任務で心が荒んでも決して優しさを忘れない、立派な忍になってくれと話を結んだ。
 最後に少しだけ、本当に少しだけ、俺の人生を語らせてもらった。どんな両親の元で育ち、どのような経緯を経てアカデミー教師への道を進もうと思ったのか、悲しかったこと、悔しかったこと、嬉しかったことを簡単に語らせてもらった。それから生徒達の名前を一人一人呼び、それぞれの良いところを誉めた。
「大好きだよ。みんな、大好きだよ」
 泣かずに言えた。
「知ってるわよ、そんなこと」
 どこか怒ったようにそう答えたのは、やっぱりミキだった。




 アカデミーが終わると受付に座って、一人一人を心から労った。お帰りなさい、お疲れ様ですとこの里を支える人々に感謝をした。それから綱手様に一週間休暇をくれと願い出た。勿論却下されたが、どうしてもしなくてはならないことがあるのですと頭を下げて粘って休暇を強引にもぎ取った。アカデミーも受付も俺のせいでスケジュールがぐちゃぐちゃになってしまうだろうから、そこだけは申し訳ないなと思った。
 深夜まで受付にいて、誰もいなくなるとこっそり戦場任務の派遣命令書を偽造した。ずっと火影様の手伝いをしてきただけあってそれはとてもよくできていたし、同じ理由で俺が火影室に入っても見張りの暗部には何も言われなかった。だから火影印も押すことができ、それは本物の任務指令書になった。
 それから今朝方家の近くに隠しておいた背嚢を背負い、一度も家に戻らず里を出た。
 雪が降りしきる中、俺はそうして戦場に向かった。




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