ユキジが詩を朗読している。
不貞腐れたような小さな声で何度もつっかえながら朗読している。しかし朗読はすれども詩の内容を感じ取ったり、共感しよう、させようと試みているわけでもなく、ユキジは単に文字の羅列を追っているだけにすぎない。この詩が何を表現しようとしているのか、恐らくユキジは理解することなく理解したいとも思わず一生を終えるだろう。この詩が如何に優れているのか、どれほど自然と交感しているのか分からずに。
アカデミーの授業は多岐に渡る。忍と言っても仕事は暗殺や情報収集だけではなく任務内容は様々なので、どの依頼にも応じられるように生徒達には幅広い知識を与えなくてはならない。力ある者もなき者も、それを生業とする以上は生き抜くために知識と教養が必要となるのだ。戦闘の知識やサバイバルの知識だけではやっていけない。
しかしほとんどの生徒は詩なんて、と思っている。感受性を磨くことの必要性が分からない。感じることで学ぶ、学ぶことで教養を高めることが分からない。
ユキジが詩を朗読し終え、着席する。
「次、コチ」
指名するとコチが渋々立ち上がる。しかし態度は嫌々と言う風であったのに、意外と滑らかに朗読をする。それが終わると次は俺が作者の生まれ育った時代の背景と作品そのものの解説をする。
「イルカ先生、この詩は綺麗ね」
アゲハがポツリとそう漏らしたので、綺麗だねと俺も同意する。使われている言葉も文章も、そこに有る強く逞しい自然の息遣いも本当に美しい。俺が……俺が口にするのも憚られるほど美しい。
俺は駄目になっている。
もうどうしようもなく駄目になっている。淫らで下品な毎日を送っているから火影様の顔なんてまともに見ることはできないし、受付に座っていても命を懸けて里を守っている他の忍に申し訳なくて仕方ない。お疲れ様です、お帰りなさいと人々に笑顔を向けること自体が決して許されない裏切り行為に他ならず、それでもそんな俺に「お前の顔を見るとほっとするよ」と友人知人、知らない上忍などが声をかけてくれる度に罪悪感で死にたくなる。彼等は知らないから、俺が如何に狂った日々を送っているのか知らないから。
教師という聖職に就きながら、俺は一体何をしているのだろう。子供達を未来に導く仕事をする者が、なんて恥ずかしい毎日を送っているんだろう。俺には教壇に立つ資格などない。
俺はどんどん駄目になっている。
あの男が俺を駄目にした。そして俺はあの男と同じようにこの世界を駄目にしていく。何もかも、俺が触れた途端そこから穢れていく気がする。だからもうずっと子供達に触れていない。抱き締めることはおろか、頭を撫でてやったり手を握ってやったり、肩に手を置いて励ましてやったりすることもできない。もう曖昧で歪んだ笑顔を浮かべることで精一杯だ。
駄目な俺は生徒達をまともに見ることができなくなった。罪悪感で一杯になるとあんなに愛おしかった生徒達が疎ましく思えるようになった。些細なことで苛立ち八つ当たりをするように叱責したり、どうだって良いことでキツイ言葉を吐いてしまう。授業を受ける気がない者の存在が、忍のセンスが足りない者の存在がやけに目に付く。以前はそれでもこの子達の未来を広げようと日々努力していたのに、忍になりたいというこの子のたちの夢を叶えようと忍耐強く付き合っていたのに、そして子供達の成長が俺の喜びであったのに。
あんなに子供達が好きだったのに、愛していたのに。いや、今だってこんなに愛してる。愛している。
「イルカ先生、どうしたの?」
静まり返った教室で、ミキが座ったままそう言う。俺は溢れる涙を拭い、無理矢理笑顔を作る。でも上手く作れなくて、それは俺自身のように酷く醜く歪む。
「俺はみんなのことが大好きだよ。大好きだよ」
知ってるわよ、とすかさずミキが怒ったように言う。なんて良い子なんだろうと思う。心根の真っ直ぐな子なんだ、ミキは。ユキジだって普段はヘラヘラしているけど、森の中で下級生が怪我をした時おぶってアカデミーまで運んでくれたし、弱い者への面倒見の良さはクラスで一番だ。コチだって他の子だって、本当に良い子。
「大好きだよ」
この気持ちに偽りはない。けれど、みんなの顔を見てそれを告げることができない。
どんどん駄目になっていくのに、俺は男を殺すこともできない。どうやって殺せば良いのか分からないし、殺すこと自体をもう諦めている部分すらある。それでも殺意だけはしっかりと残っていて現実感を伴わない殺人計画だけが次々と浮かび上がり、例えば包丁で滅多刺しとか高い場所から突き落とすとか岩であの頭をぐちゃぐちゃになるまで叩き割るとか下品なセックスの途中で鋏であの性器を切ってやるとか、およそ忍らしからぬ荒唐無稽な夢想はまるで途絶えることがなかった。
俺が存在している以上、この身に染み込んだ穢れは決して消えることはないだろう。そして俺もあの男と同様に世界を次々と穢していくのだろう。
死のう。
殺すのが無理ならば、せめて俺だけでも死のう。子供達のためにも死のう。でも、できるならあの男も道連れにしたい。殺すのが無理でもダメージは負わせたい。それが俺に残された最後の仕事なのかもしれない。
頭に汚泥でも詰まっているのか、上手く物事を考えることができなくなっている。何もかも不浄なもので一杯の薄暗い沼の中に沈んでいく。それでも俺は懸命に考え、起爆符を使うことを思いついた。あの男もろとも、つまりあの男の存在も俺の存在もこの穢れも全部吹っ飛んで木端微塵になるというその案はとても魅力的で、俺は家に帰ると浮かれて自分の身体にありったけの起爆符を貼り付けた。どのタイミングでどう起爆するかを考えていると楽しくて仕方なかった。
ベッドの上で膝を抱え丸くなって男を待つ。死ぬ前に何かしておかなくてはならないことがたんまりとあるはずなのに、どうしてもそれが何か分からない。自分が一瞬のうちに死ぬ様ばかりが脳裏に浮かび、それ以外のことが考えられない。解放感と絶望感が綯い交ぜになったような、昂揚感と虚脱感が一挙に押し寄せているような、それはとても不思議な感覚だった。
玄関から物音がする。ガチャガチャと鍵を開ける音がして、続いて扉を開ける音。ただいまと言う明るい声とともに、部屋に入って来る男の足音。
「イルカ先生?」
男が俺を呼ぶ声。それから寝室の戸を開ける音。
居間の光が差し込んだ。光は畳の上に長い形を作ったけれど、俺が膝を抱えて丸まっているベッドまでは届かない。
「イルカ先生?」
男は再度俺に呼びかける。居間の光はやけに眩しくて、それを背にしている男の顔がよく見えない。
早く近寄って欲しい。そうしたら甘えた声を出して腕を伸ばしてやろう。男が逃げないようにこの腕でしっかりと抱きしめよう。恋人のように男を抱き締めよう。そして。
「イルカせんせい、なにをしてるの?」
そして肉の一欠片すら残らないように、この男と消滅しよう。