第六章

 ふわりと浮かびあがった意識が、はっきりとは覚醒しないまま穏やかに揺蕩う。
 どこか遠くから水の音が聞こえ、その音に誘発されて一匹の海月が現れた。光が差し込む透明な海の中でゆったりと漂うその海月は、ケープを纏った優雅な貴婦人のようにとても心地好さそうに泳いでいる。光を含んだ透明な海水が彼女のケープをひらひらと膨らませ、彼女はそれを恥じらって行儀良く窄め、足から続く長細いレースの数々はそれらの動きから少し遅れて上品に揺れる。
 その海月は夢なのか、はたまた水音から脳がぼんやりと連想した結果としての映像なのか、俺には分からない。ただ水音が止まってその代わりに足音が近付き、ふと知った匂いが鼻を掠めると、海月のように心地好く漂っていた俺の意識が否応なく覚醒した。
 瞬時に強張った身体を意識的に弛緩させて眠っているふりをする。何も見えない何も聞こえない何も匂わない何も感じない。感覚を遮断して、まな板に乗った魚の首を出刃包丁でバッサリと切り落とすが如く俺は俺の肉体と精神を完全に切り離す。
「おはよう」
 起きていると気付いているのか眠っていても構わないと思っているのか、男が死んだ魚に声をかける。
「任務に行って来るよ。良い子にしててね」
 恋人に告げるような、甘く優しい声で男はそう言う。それから静まり返った死んだ魚にそっと触れ、労わるようにその魚の頬を指で撫でる。撫でる。再度撫でる。次は髪を撫で、最後には唇に触れる。意識などない肉体に対し、男はそうしてしつこく触れる。
「行って来ます」
 区切りを付けるように男はそう告げて立ち上がる。足音が遠のき、扉を開ける音がして今度は閉まる音がする。暫くすると死んだ魚は注意深く様子を窺い肉体の感覚を徐々に取り戻していくが、警戒心の強い魚なのですぐには動かない。これでもかというくらい眠ったふりを続け、自分が納得する時間が経過すると漸く目を開いた。
 ベタベタと触りやがって、吐き気がするわ。
 目だけを動かして部屋に誰もいないことを確認すると、上半身を起こして頭を振る。時計を見て時間を確認し、顔を顰めながら腰を擦って足を床に下ろす。足を伸ばし腕を伸ばし身体を捻り、一応身体が思うように動くと分かるとさっそくベッドからシーツを剥ぎ取って洗濯機の中に放り込んだ。その匂いが我慢ならない。汗と精液の匂い、あの男の匂いが移ったシーツなんて我慢ならない。できるなら燃やしてしまいたい。
 それから浴室に行ってシャワーを浴びる。あの男が触れたと思うだけで気持ち悪くて、念入りに身体を洗った。ケツの中に指を突っ込んで中に残った汚らわしいモノも出そうとしたが、どれだけ探っても出てこない。どうせ俺が意識を飛ばしてからあの男が指を突っ込んで掻き出したんだろうと思う。何せあの変態は俺のケツから自分の精液が溢れるのを見るのが大好きだから。本当に鳥肌が立つくらいの変態っぷりだ。
 どこもかしこも綺麗にする。擦り過ぎて唇が腫れるくらい綺麗にする。口の中が気になったので一旦浴室から出てハブラシと歯磨き粉を持って来ると、俺はシャワーを浴びながら八つ当たりをするみたいに歯を磨き口の中を濯いだ。歯ぐきから血が出てもこれでもかってくらい磨きまくって丹念にうがいをして、それからもう一度石鹸を泡立てて身体に染みついた汚れを落とした。
 納得できるまでそうして風呂から上がると、簡単に朝メシを食べる。腹が膨れると気分もそこそこ落ち着いて、身支度を整えてから家を出た。
 火影邸に行くとシズネさんに「風邪はもう治りましたか?」と訊ねられる。どういう意味か分からなかったが、すぐにある懸念が湧き上がった。こっそりと火影様の机の上を見遣り、そこにある日捲りカレンダーの日付を確認する。そして。
「御心配をおかけしました。もうすっかり」
 俺はニッコリと笑ってそう返事をする。
 記憶が飛んでいる。
 丸二日分の記憶が消去されている。思い返して見れば部屋も片付いていた。割られたカップがなかったし、散らかされたものも綺麗に元の位置に戻っていた。あの男がその二日間で何をしたかは知らないし、どんな理由で俺の記憶を消したかも分からなかったが、もうどうだって良い。あの男と過ごした時間の記憶など取り戻したいとは思わない。
 俺にあるのは断固とした殺意。
 ―殺そう。
 薬を使い、術を使い、人を操って自分の性欲を満たす人間などこの里にはいらない。間違いなくいらない。あの男は一刻も早く殺してしまった方が良い。




 夏休みが終わっても男は俺の元に訪れなかった。
 風も少し冷たくなってきたが、それでも残暑は厳しい。授業を受ける子供達は下敷きやノートをうちわにして暑さをしのぐことで頭が一杯で、俺の話に耳を傾ける子など数えるくらいしかいないし、勿論その話を理解しようと試みている子はもっと少ない。これでは授業にならないし時間の無駄だと思い、外に出て水遁の授業でもするかと誘ってみると生徒達は大いに喜んだ。
 何もないところで水を作るのはまだ難しいので、近くの川に行ってチーム分けをする。そしてチームで川の水を持ち上げて何か形を作れと指示すると、生徒達ははしゃぎながら様々なものを作った。馬、建物、鳥、そして人。チャクラも器用さも足りないので、馬にしては首が短すぎたし足は太すぎるし、家にしては丸みを帯びすぎていてすぐに崩れるし、人は腕がないのでまるでコケシのようだ。それでもみんな楽しそうだったし、結構真剣にやっていた。
 少し時間は早かったが、アカデミーに戻るとそのまま解散する。教室には戻らずに職員室に足を運ぶと、アヤメ先生がいた。
「お身体の方は?」
 一度も見舞いに行けなかったから物凄く気まずい。でも無視するわけにもいかない。
「さっき退院手続きをしてきたところです。新学期にはちょっとだけ間に合いませんでしたけどね。それより私、今日はイルカ先生に用があったんですよ」
 話があるの、とアヤメ先生は声を潜めた。そして、場所を移動するかこの後ちょっと付き合ってくれないかと誘われる。
 俺はアヤメ先生と無駄に接触することをあの男から禁じられている。ましてや二人きりで話をするなんて、あの独占欲の強い男が許すはずもない。今あの男は任務に出ているし猫面の暗部とのやりとりから影分身も出していないとは思うのだが、あの男の忍犬、もしくは手下の者が俺を見張っていないとは限らないし、もしそうであったならばアヤメ先生の身が危険だ。
 だから返事にまごついた。
「私のことなら平気ですよ。でも心配ならここで話しましょうか」
 心中を読んだようにアヤメ先生が言う。しかし俺の事情など知らないアヤメ先生が一体何に対して平気だと言っているのか分からなかった。
「ただ、人には聞かれたくないから読唇して」
 そう声を潜めてからアヤメ先生は周囲を窺い、暫くじっとしていた。近くにいたスズメ先生が上司に呼ばれて席を立つと、俺を見て頷く。
 そして唇が動いた。
『はたけ上忍に、何か良くないことをされてない?』
 その言葉に俺は目を見開き、アヤメ先生を凝視する。
『うみの君は春に入院した以来ずっと、ちょくちょく身体を痛めているでしょう? 貴方は隠していたけれど、身体の動かし方で何となく分かったわ。それに私とも距離を置くようになった。どうしてだろう、何だろうと思っていたんだけどね、彼、来たのよ。私のところに』
 思わず立ち上がって拳を握った。ガタンと椅子が倒れ、職員室にいた者の視線が俺に集まる。
「わ、びっくりした! イルカ先生、何ですか急に」
 アヤメ先生が目を丸くして大きな声を出した。俺はすぐにヘラヘラと笑ってすみませんと周囲に謝り、何でもないですと照れたように手を振ってみせ椅子を直してそこに座る。そして他者の意識が完全に他に向くまで、俺もアヤメ先生も手元に視線を落とした。アヤメ先生は提出された夏休みの宿題に、俺は明日の予定表に。
 暫くするとアヤメ先生が合図をする。
『すみませんでした。それよりアヤメ先生、もしかして』
『話を最後まで聞きなさい。とにかく彼、やって来てね、私に言うのよ。何かやたらとグダグダと牽制してきたけど、要はうみの君と仲良くするなってね。コイツなに言ってんだろうと思ってたんだけど、彼、本気で私を脅すの。上忍の本気の殺気をぶつけてくるのよ。思わず笑っちゃったわよ』
『笑ったんですか。上忍の本気の殺気を浴びて』
『私の死んじゃった旦那は凄腕の上忍だったのよ。悋気の強い人だったから上忍の殺気なんて浴び慣れちゃったわ。それでね、言ってやったの。アンタがうみの君にどんな感情持ってるか知らないけど、私が誰と仲良くしようがうみの君が誰と仲良くしようがアンタにゃ関係ないわねぇって。だって素直に仲を取り持って欲しいって頼めば可愛いものの、みっともなく殺気撒き散らして脅してくるんだもん。私もつい意地悪なこと言っちゃったわ』
『あの男、怒りませんでした?』
『猛烈に怒ってたわよ』
 アヤメ先生は悪戯っ子のようにニシシと笑うので、その豪胆さに俺は強烈な爽快さを覚えた。あの殺気を浴びて平然とできる忍がこの里に何人いるだろう。しかもアヤメ先生は女性だ。いくら鍛えてもどうしようもない力差というものがあるにも拘わらず、アヤメ先生はあの男に対し挑発すらしている。
『それで?』
『大真面目に襲いかかって来たわ。殺す気満々でよ。こりゃ相当頭に血が上ってるわと思って外に出てね、全力で応戦してやったわ。騒ぎで人が駆けつけると、彼、スタコラ逃げて行ったけど』
 あの男と戦って……無事でいられるわけない。あのクズは本物のクズだが忍としての実力だけはある。あるから二つ名まで持っている。アヤメ先生がいくら体術の遣い手として有名でも、あの男と戦って……。
『アヤメ先生、今回の入院』
『最後まで聞きなさいって言ったでしょ。私は気が強いからね、よく体術の修行かただの殴り合いかよく分かんないような夫婦喧嘩してたのよ。だから上忍の相手なんて慣れてたわけ。ついでに私、チャクラの量が少ないから上忍にはなれないけど、特別上忍にならないかって何度も誘われてるくらい強いのよ? 面倒だから試験受けないけどさ。で、彼、私がヤリ手だって分かると写輪眼まで全開よ。参っちゃうわよ。私の死んじゃった旦那はそんなけったいな目は持ってなかったっての。久々に苦戦したわー、結構楽しかったけど。それで結局左腕と肋骨何本か持って行かれた』
 やっぱりあの男のせいか。
 あの男がアヤメ先生を。
「申し訳ありません。本当に、本当に」
『こらこら声出さない。話はまだ続きがあんのよ』
『続き?』
『彼、病院に来たの。スタコラ逃げたくせに、私が病院に担ぎ込まれて治療を受けた後にコッソリやって来たの。あらあら一体何の用かしらって笑って訊いてやったらね、何か言いたげな顔するんだけどなーんにも言わないの。ほんと、困った子だわ彼は。彼を見てるとどうも死んだ旦那を思い出してさぁ』
『二度とそのようなことは言わないでください。アヤメ先生の旦那様に対する最大の侮辱になります』
 強い視線を向ける俺を見て、アヤメ先生はキョトンとした。それから少しだけ苦笑する。
『その様子だとやっぱり困ったことされてんのね、うみの君』
 困ったこと、ではない。そんな言葉で片付けられるものではない。あの男は俺を汚し、この里を汚し、この世を汚す人間だ。生きていてはいけない人間だ。
『それで? その後あの男は何か言ってきましたか?』
『入院中に二、三回病室に来たわよ。殺すって言ってみたり余計なこと言うなって脅してみたり、まぁ色々と忙しい子だったわ。見舞いなら何か持って来なさいよって言っても何にも持って来なかったし』
『暴力は振るわれていないのですか?』
『入院中は何もされてないわよ。ま、何て言うの? 私はあの手のタイプの扱いには慣れてるし、年の功ってヤツ? そういうのもあるからね、あんまり馬鹿な脅し文句を口にした時はいい加減にしなって叱ってやったりね』
 あの男が、そう簡単に引き下がるわけない。あの男は異常なのだ。本当にアヤメ先生を殺すかもしれない。
『アヤメ先生、気を付けてください』
『私は平気。あの子のことは大体分かったしね。それよりもうみの君、貴方のことが心配なのよ。彼をコントロールするには貴方はまだ若すぎるし、彼は相当貴方に執着してるし、その上彼は今、自分ではどうしようもない状態にあるみたいだし。彼が私や貴方以外の人間にも手を出すようだったら、私からこっそり綱手様に報告しようか?』
 あのクズは既に俺とアヤメ先生以外の人間にも手を出している。
 もうリョウはヤられてる。酷い暴力を受けている。高尾も術を喰らって身代わりにされたし、きっと他の子も同じことをされている。あの男は既に多くの人間に手を出している。
 だからこそ。
『いいえ、まだそこまでするには至りません。もう少し自分で何とかしてみますから、申し訳ありませんがアヤメ先生はとにかく身の安全を第一に考え、あの男が来たら今度は全力で逃げてください』
『あらやだ、私は次も応戦するわよ』
『アヤメ先生、お願いです』
 厳しい視線でそう頼むと、アヤメ先生は仕方ないわねと笑った。
『分かったわ、今度は逃げる。でも次に来た時に彼の様子が悪化しているようだったら、そのまま火影屋敷に行って洗い浚い喋る。良いわね?』
『了解しました』
 それじゃ困る。
 アヤメ先生との話を終え、あとは普通に声を出して挨拶をして俺は立ち上がる。鞄を持って職員室から出て、受付に向かう。
 それじゃ困る。
 アヤメ先生が綱手様に全て話してしまって、あの男が処分を受けるようなことになったら困る。あの男が言うように、里はどうせ重い処分なんてしないから意味ないし、更にアヤメ先生に対する危険が増すだけだ。仮令処罰が里外の長期任務だとしてもあの男はいつか必ず帰って来て、俺とアヤメ先生に何らかの報復をする。そういう男なのだ。そのくらい陰湿でしつこい男なのだ。
 それに。
 あの男は俺が殺す。里になんて任せるわけにはいかない。




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