一日の中で朝が最も嫌いな時間になった。
目の前でニヤつく腐れ上忍を見て、また地獄のような一日が始まるんだと痛感する時間。
この男と一緒の部屋にいるってだけで死にたくなる。いや、この男がこの世に存在しているだけで嫌になる。空も星も雲も花も木々も愛しい人々も、生きとし生けるもの、美しい光景、そういったもの全部、この男が存在しているただそれだけで穢れていってしまう気がする。この男が嬉々として穢し回っているような気がする。
暑くて眩暈がする。
今年は猛暑で、どこにいても何をしても汗が出る。里にいる一般人が熱射病で倒れて病院に担ぎ込まれる件数がここ数年で一番多いようだと、受付をしている時に綱手様が仰っていた。ある程度は体温調節できる忍達も、外から戻って来るとまず「今日も暑かった」と報告書をうちわにしてそう言う。混雑時の受付はまるで蒸し風呂のようで、皆額に汗を滲ませながら苛立ち、それでも仕事帰りに一杯どうだと誰もが誰かを誘っている。仕事上がりに冷えたビールを飲む、それが一日の目的になっているみたいに。
以前なら俺も誘われていた。おいイルカ、これから飲みに行こうぜと。でも今の俺を誘う者は少ない。誘っても無駄だということを知っているからだ。
俺にはそんな自由はない。腐れ上忍の奴隷である俺は著しく行動が制限されている。仲間と飲みに行くことは勿論、生徒以外の人間と親しくすることは固く禁じられているし、必要以上の言葉も交わすなと言われている。だから仕事が終わると余計なことはせず余計な言葉も発さず、真っ直ぐに帰宅する。そして腐れ上忍の悪趣味なお遊びの道具になる。
このクズも、たまにはどこかに行けば良いのにそうしない。飽きもせず毎日俺の身体を使って遊ぶだけで、仲間と飲みに行ったりは絶対にしない。こんな腐った野郎だから友達が全然いないんだと俺は嗤う。中忍は騙せてもきっと上忍連中は知っているんだ。コイツがいかに最低な屑であるか、きっと知っているんだ。だから友達がいない。コイツは陰湿で根暗で根性が腐っているから、誰にも相手をされないから、余計俺という玩具に執着する。救い難い。
暑くて眩暈がする。
コイツが息をするだけで空気が腐っていくようだ。コイツがモノに触れるだけでそれが汚れてしまうようだ。俺を犯し汗をかくコイツの体臭を僅かに感じる度に、鼻と肺が蝕まれるようで気持ち悪くて仕方ない。コイツが俺の身体に舌を這わす度にそこが腐り落ちてしまう気がして発狂しそうになる。
暑い。汚らわしい。死ね。
毎日同じことを考える。穢れていく、穢れていく、世界が穢れていく。死ね、と。
それでも流石に毎日のお遊びが度を越したのか、それとも単に夏バテしたのかは知らないが、ここ数日腐れ上忍の顔色が悪く食も細くなってきた。不機嫌になって黙り込むことも多いし、ベッドに横たわってぼんやりと天井を見ているだけの状態も多い。俺の身体を弄ぶ手の動きも緩慢になってきて、このクソ暑い中俺の身体にぺったりとくっつき何もせずに夜を明かす日すらあった。体調を崩したならこのまま死ねば良いのに。早く敵に殺されれば良いのに。
「ちょっと数日空けることになる。でも、すぐに帰って来るよ」
ある日、ぼけっとカレンダーを眺めていたクズ上忍は突然俺にそう告げた。
「良い子にしててね。アンタが余計なことをしなければ、リョウも無事に日々を過ごせる。それを忘れちゃダメだよ」
毎度毎度変わり映えのしない脅迫だと俺は心中で嗤う。コイツ、馬鹿だからそれしか思い浮かばないんだ。それが有効だからそれに頼っているだけで、俺を縛りつける呪いの言葉が他に思い付かないんだ。上忍なら他に色々考えれば良いのに、本当に屑だコイツは。早く死ねば良いのに。
「返事は?」
はいと小さく答えると、クズは俺に近付いて腕を伸ばした。
相変わらず俺は家の中では全裸で生活していた。この変態腐れ上忍の趣味で、俺は下着を履くことも許されていないのだ。以前はそれが腹立たしく惨めに思ったが、慣れてしまえばどうってこともなく、ただただ自分とこのクズが滑稽だった。男を、しかも俺のようなむさくるしい男を全裸にして悦に浸って欲情するなんてどうしようもなく滑稽だ。
クズは俺の頬に手を当て、それをゆっくりと滑らせて首をなぞりそのまま心臓の上で手を止める。トン、と一度指先で心臓を突き、それから暫くそこを眺めながら何かを思案していた。
どうだって良い。何だって良い。出て行くなら一秒でも早く出て行け。そして二度と戻って来るな。この家に、この里に、二度と足を踏み入れるな。できるなら出て行った先で敵に惨殺されろ。
「俺が死んだらアンタも死ぬような術を、かけておこうかな」
「御自由に」
クズ上忍が口端を上げて脅すので、俺はしれっとそう答えてやった。好きにすれば良い。もし本当にそんな術があってそれをかけられたとしても平気だ。リョウの心配もしないで済むし、このクズが地上から消えてなくなるならそれが一番嬉しいことなんだから。
クズが俺の態度を見て目を吊り上げた。だがすぐにニィと笑みを浮かべ印を結ぶ。俺に恐怖を感じさせたいのか、実に上忍らしからぬのったりとしたスピードで印を結ぶ。
知らない術だし知らない印の並びだった。俺はそれを極めて冷静に眺めながら、いつ死んでも良いように遺言を書いておこうと考えていた。財産なんてもんはないけれど、身の回りで使えるような物は孤児に与えて欲しいこと、小遣いをためて集めた巻物はアカデミーに寄付、後を引き継ぐ人のために子供達の特徴も書き記しておこうか。
印を結ぶ手が止まる。でも術が発動した気配はない。
何のつもりかと眉を顰めると、クズの様子がいつもと違うことに気付いた。人を馬鹿にしたような笑みは消え、そこにあるのは表情を作り忘れた人形の如き顔。
「……忘れた」
「はい?」
「戌の次の印、忘れた」
男は無表情でそう呟くと、印を結んでいた手を下ろした。いつもと違う。
目が。
いつだって垣間見える憎悪の光がそこにはなく、あるのは酷く虚ろな影。永遠に続く雨の夜に誰もいないゴミ捨て場に捨てられている人形のような虚ろな影。もう二度と光が当たることはないと悟った、怖いくらい孤独で無防備な影。
男はそんな瞳で俺を見詰め、唐突に消えた。