カカシさんはその日から二日間、俺の前に姿を現さなかった。
チャクラが切れてどこかで休んでいるのか、敵忍の本体もしくはカカシさん本体の身に何かあったのか分からないけれど、俺は結局綱手様に何も言うことができなかった。あの日の高尾がカカシさんの変化だと見抜けなかった無能な俺が、本当にカカシさんが俺の傍から離れているのかどうか見極められるわけがなかったからだ。
カカシさんは優秀な忍犬使いだと聞いていたから、忍犬が主の命に従い気配を絶って俺を見張っている可能性だってあったし、勿論高尾の件のように生徒に化けて俺の様子を窺っている可能性だってあった。生徒だけではない、もう同僚だって誰だって信用できなかった。こっそり式でも飛ばしたいが、そもそもカカシさんは元暗部だから暗部連中にも顔が利く。式が綱手様に渡る前にそれを握り潰されることだって考えられるのだ。
このままではいけない、ズルズルと敵の言いなりになるばかりだと分かっていても、「俺はいつでも見張っているよ」という言葉がどうしても頭から離れず、それは呪いとなって俺の行動を制限する。どこで誰が見張っているのか分からず、それでも今のうちに綱手様に報告しなくてはという焦りと万が一見つかった時に生徒達が殺されるかもしれないという恐怖で、俺は三日間一睡もできず、ただ悪戯に無駄な時を過ごした。己の不甲斐なさに死にたくなる。だからお前は駄目なんだと自分を激しく罵るもう一人の俺がいる。それでも行動できなかった。
三日目の朝、アカデミーに行くとカカシさんの噂を耳にした。写輪眼のカカシが毒を喰らい死にかけた。綱手様が今手当てをしてらっしゃるようだ、と。
千載一遇のチャンスだと思った。敵は瀕死のカカシさんの身体から抜けている可能性は高いし、そこには綱手様及び凄腕の暗部達が顔を揃えているはず。暗部だってみながみなカカシさんの手下であるわけがないのだ。
俺はすぐにアカデミーを抜け出して病院に向かった。このチャンスを逃してなるものかと必死で里を駆け、敷地内に入ると医療忍にカカシさんの病室を訪ねた。カカシさんの意識がなければすぐさま綱手様に報告して術を解いてもらう。カカシさんはまた監禁されることになるかもしれないが、これで解放される、これで生徒やリョウやアヤメ先生も助かると喝采したい気分だった。途中でアスマ先生と擦れ違ったけれどろくな挨拶もせずに俺は走る。走る。
扉を開ける。
「病院でドタバタするんじゃないよッ!」
叱責の声がやってきたのと俺がそこに立ちつくしたのは同時だった。
カカシさんは確かにいた。が、ベッドの上で身体を起こし、片膝を立て、そこに腕を乗せて俺を見ていた。
死にかけたんじゃないのか。アンタは毒を喰らって瀕死のはずじゃないのか!
「お見舞いに来てくれたんだー」
カカシさんが嬉しそうにニッコリと笑う。
「大したことはなかったよ。毒を喰らったのは本当だが手持ちの解毒がよく効いたみたいでね、あと三日もすれば毒は抜ける」
説明する綱手様はどこか自慢気で、俺の目にはとても滑稽に映った。そうであってはならなかったのに、カカシさんは意識などあってはならなかったのに、何故そんな嬉しそうなんだ。カカシさんは、この人は今。
俺は病室を見渡す。
猫面の暗部と熊面の暗部が並んでカカシさんのベッド脇にいる。綱手様、少し離れた所に洗面器を持って微笑んでいるサクラ、シズネさん。それから、俺の隣には能天気に俺に笑いかけるガイ先生。
この面子なら、いける。
今しかない。
「綱手様。イルカ先生はね、前回のことをずっと気に病んでて……凄く心配性になっちゃったんです。あれから私の顔を見る度に術にかかってるんじゃないのかって疑ってくるんですよ。いっそここでもう一度調べて、イルカ先生の懸念を晴らしちゃもらえませんかね?」
しかし俺の心を読んだかのようにカカシさんは俺が口を開く寸前にそう言った。
分からない。どうなっているのか分からない。敵は……そこにいないのか? 綱手様でも分からないだろうと高を括っているのか? 余程の自信があるのか? 何が何だか分からない。だって前回は綱手様が、綱手様がカカシさんの術を解除してくれて、それでカカシさんは元に戻って俺ととても良い友人になって。
イルカは心配性だなと笑うガイ先生の声が煩わしい。綱手様が俺の顔を見て片方の眉を大きく上げて無言で訊ねてきたので、俺は強く頷いた。どういうつもりか分からないけれど、この人は術にかかっている。
そっとサクラの傍に寄ってカカシさんから守る。万が一のことがあっても、この子は俺が守る。
綱手様がカカシさんの額に手を当てて目を閉じた。
暫くして。
「正常だよ」
綱手様の声に、俺を見据えてカカシさんが口端を上げる。
嘘だ。絶対に嘘だ。そんなわけない。
「もう一度調べてください。しっかりと。そんなわけないんです。この人は術に」
「どうしたんだいイルカ。何をそんなに」
「イルカ先生は不安がってるだけですよ」
「良いから調べてください!」
俺の怒声に綱手様は眉を顰め後ろのサクラがビクリと震えた気配がしたが、構ってなどいられない。もっとしっかり調べて貰わなければ困るんだ。俺も里も子供達も、危険に晒されるんだ。だってその人は。
綱手様がもう一度調べる。そして。
「正常だよ」
「嘘だ! だってその人はッ!」
言い募ろうとした俺に視線が集まった時、つまりカカシさんが人々の視線から自由になったその時、カカシさんはゆったりと腕を上げてサクラを指差した。そして俺にしか分からない笑みを悠然と浮かべる。
――サクラを殺すよ。
確かに、確かにカカシさんはそう言った。言葉にせず俺に伝えた。俺にしか分からないようにこっそりと、秘密めいた笑みを浮かべて。
「イルカ、お前も酷い目にあって不安なのは分かるが、カカシは正常だ。術にかかっている気配は微塵も感じられない。何か気にかかることでもあるのかい? 何かあるならハッキリと言いな。私も不安になる」
だって綱手様、その人は。
その人は俺に酷いことをするんです。毎日毎日俺を玩具にして遊ぶ。口にはできないことを強要して、俺を苦しめるんです。毎晩毎晩俺はこの人に犯され、殴られ、蹴られ、脅されます。今も脅してくる。ねぇ綱手様、術ですよ。だって綱手様、その人は。
その人はカカシさんじゃないんです。
「イルカ?」
じゃあこの人は一体誰なんですか。
「恐怖を克服できていなかったようです。情けない話ですが」
それは俺の声ではない気がした。虚ろになった頭の中に届くその冷静な声はまるで俺のように言葉を紡いだけれど、俺という人格から乖離された他の俺が勝手に状況を判断して勝手に行動に移したようだった。
「あんなことされちゃあ仕方ないよ。カカシ、アンタも謝っておきな」
「もう散々謝罪しましたって」
談笑が始まる。
綱手様と暗部はカカシさんと軽口を叩き合い、ガイ先生は乖離した俺に励ましと慰めの言葉をかけ、乖離した俺はその言葉に謝辞と取り乱したことに関する詫びを口にしている。笑いながら。サクラもシズネさんと談笑している。笑いながら。
この面子でどこまで戦えるのか分からない。
暗部と一口に言っても実力差があるのは当然で、俺はこの猫面と熊面の暗部がどれだけの実力を持っているのか分からない。正直に言ってしまうと幾ら火影とは言え医療忍術で名を馳せた綱手様の戦闘能力もよく分からないし、シズネさんに至っては皆目見当がつかない。サクラは中忍だから俺と同じくらいだと思うが、いくら成長したとは言え中忍、しかも女の子だ。カカシさんに抵抗できるわけがない。対抗できるとなるとガイ先生だが、この狭い病室の中で体術のスペシャリストがどこまで忍術に秀でたカカシさんに拮抗できるのか矢張り分からない。さっきはこの面子ならいけると思ったのに、こうして考えてみると不安ばかりが先に立つ。
この中でただ一人、俺が知っているのはカカシさんの実力だ。次期火影候補とも言われ、二つ名を持つビンゴブック級の忍。勿論戦闘をこの目で見たことがあるわけじゃないが、知っている。
その実力差を、身体に、叩き込まれたから。
「それじゃ、大人しくしているんだよ」
綱手様の言葉にカカシさんは「はーい」と子供っぽい声で返した。シズネさんとサクラは俺に頭を下げ、部屋を出て行く。ガイ先生もカカシさんとニ三言葉を交わし出て行く。暗部は猫面の方だけ俺をチラリと見遣り何か言いたげな視線だけを残して、やっぱり去って行く。
扉が閉まり、病室にはカカシさんと俺だけが残された。