年度末だと言うのに俺がこんなことになってしまって、アカデミーはてんやわんやのようだった。それでも同僚はちょくちょく顔を出して見舞いを持って来てくれるし、数人で来て俺の病室で会議を開くこともある。綱手様は呆れていたが、その綱手様もしょっちゅう「イルカ、あの書類はどこだ?」などと訊ねに来た。俺の担当クラスを引き継いだ臨時の老人教師なんかは毎日生徒達の様子を知らせに来てくれるし、生徒達もしょっちゅう遊びに来た。
話によると俺はアカデミーに自ら風邪で休むと式を飛ばしていたらしいのだが、カカシさんのことは戒厳令が出ていたので、実は機密性の高い任務に就きそこでヘマをした、と皆には説明した。常識的に考えてこの時期にそんな任務がアカデミー教師に振り当てられることはないのだが、忍は多くの秘密を持つのが常なので同僚達はあまり突っ込んでは来なかった。そして、そうか、大変だったな。早く元気になれよと、励ましの声をくれた。
アヤメ先生も忙しい合間を縫って遊びに来てくれる。病院食じゃ味気ないでしょうと言ってお弁当を作って来てくれたり、雑誌や薬草の専門書を持って来てくれる。アゲハも一度顔を出した。高尾は最近どうだと訊ねると、アイツ無視してくるからアタシも無視してんだと、ツンと澄ました顔で言った。生徒達の中で最も頻繁に顔を出してくれるのはコムロウで、どうやらご両親に入院中は読書が最も有効な暇潰しになると聞いたらしく、あたかも自分しかできない重大な任務を請け負ったかのように毎日律儀に本を持ってきた。俺の好みが分からないからか、月曜日はミステリー、火曜日は実用書、水曜日は実録、木曜日は歴史書、金曜日は専門書と長編小説、と毎日ジャンルを変える。優しい子だと思う。
リョウは、せっせと俺の身の回りの世話をしてくれた。着替えも取って来てくれたし俺の部屋の洗濯や掃除もしてくれているらしい。ある日などは、ベッドの下からエロ本を発見しましたから処分しときましたーと、おどけた口調で報告してきた。本当に処分したかどうかは知らないが、見られたのは確かなので非常にバツが悪かった。
俺が発見された直後に綱手様が自ら緊急手術をしてくれたおかげで、俺は順調に回復していった。折れたアバラが内臓を傷付けていたようで、それだけは完治するのに少し時間がかかると言われたが、その他は安静にしていれば問題ないらしい。鼻も治してくれたし、額の傷もよく見なくては分からない程度しか痕は残らないと言う。発見当時は誰もそれが俺と分からなかったくらい酷かったらしい顔面だが、綱手様はとても綺麗に治してくれた。ただでさえお前は顔に大きな傷があったからね、と綱手様は言う。優しい人だと思う。
動けるようになり、リハビリも開始された。卒業試験が近くなると訪れてくれる生徒達の数も減ったが、相変わらずコムロウだけは本を持って来てくれる。そして卒業試験の前日も、彼は来てくれた。
「試験内容は発表されたか?」
来客用の椅子にコムロウを座らせ、俺はリョウに林檎を剥いてくれと頼む。
「当日発表だって」
「忍具の手入れは?」
「もうしてある。筆記だったら余裕だし忍術でもイケると思うけど、試験が体術だったら組み合わせ如何によっては少し危ういかもしれない」
受け答えする時もコムロウは本を手放さない。この子が本から手を離している時は、筆記テスト時と体術、忍術の授業時だけだ。
林檎の皮を剥き終えたリョウが、フォークを添えてコムロウに皿を差しだした。コムロウは本から目を離さず、手を伸ばして林檎にフォークを突き刺す。そしてそのまま口に運んだ。
シャリシャリと音を立てて林檎を咀嚼し、嚥下する。そしてまた林檎にフォークを突き刺す。
「コムロウ、リョウは林檎を剥いてくれたぞ」
ペラリと頁を捲りまた林檎を食べようとするコムロウに、俺は優しくそう言う。コムロウは顔を上げて少し怪訝そうな顔をし、手にした林檎に目を落として暫く考え込み、次に俺を見て最後にリョウを見た。
「有難うございます」
淡々とした物言いをする子なので、心が籠っていないように感じる。だがこの子は別に他人を馬鹿にしているわけではないし、自分は他人に何かをされて当然の存在と思っているわけでもない。ただちょっと、興味のないものに関しては意識がそちらに向かないだけなのだ。この場合で言うと、コムロウはリョウに興味がないだけ。林檎がどこかから出てきたので食べただけ。
コムロウはクラスメイトにもこういった態度を取るので、あまり人気がない。
「体術だって、お前、そんなに苦手なわけじゃないだろうに」
話を戻すとコムロウはむっと顔を顰める。
「苦手じゃないけど、大輔や藤堂、高尾の辺りには勝てた試しはないし、勝てる見込みも少ない」
特に藤堂、と吐き捨てるようにコムロウは言う。
「藤堂のこと、嫌いなのか?」
「僕は僕より背の高い人間は好きじゃない」
思わず噴き出した。リョウも顔を背けてクスクスと笑う。
何故ならコムロウは、とても小さな子だから。そして藤堂はクラスで最も長身の子なのだ。
「お前は小さいけれど、とても優秀な子だ。それに」
「これから伸びるって。心配するな」
俺のフォローをリョウが継いだ。リョウもこのくらいの年齢の時は背が低かったのだ。だから俺とリョウは目を合わせてクスクスと――。
「あー、いたいた」
条件反射のように俺の身体が硬直する。
リョウは素早く立ち上がって警戒態勢を取り、コムロウは本から目を上げて声がした窓際に視線を遣る。俺はガタガタと滑稽なほど震えだした両手を布団の中に隠し、声が上擦らないように気を付けながら笑顔を作って身体を捻る。
「あ、カカシさん。おかえりなさい」
「ん。ただーいま」
カカシさんはいつものように口布と額当てで顔の半分を隠していたが、唯一露になっているその右目は確かに笑っていた。細く弓を描くように、にっこりと。
「コムロウ、遅いからお前はそろそろ帰りなさい。リョウ、コムロウを送って行ってくれるか?」
窓際に足を掛けてしゃがんでいるカカシさんから目を離さずにそう言うと、コムロウは素直に「そうするよ」と返事をして立ち上がる。ただしリョウは警戒態勢を崩さない。リョウ、と声を掛けたが、リョウはそこから動かない。
リョウを見たカカシさんの目が一段と弓を描く。口布の上からもその唇の端が大きく釣りあげられたのが分かった。
俺の身体から冷たい汗が噴き出る。
怖い。怖い。
カカシさんは術にかかっている。
「リョウ、俺はカカシさんと話があるんだ」
何も知らないはずだがカカシさんの笑みに何かを感じ取ったらしく、リョウは動かない。コムロウはそんな俺達の様子を気にすることなく本を鞄にしまい、さっさと病室を出ようとする。今日ここにいるのがコムロウで良かった。ちょっとでも感じやすい子であれば足が竦んで動けなくなっているはずだ。
カカシさんの目は、そういう目だ。
「帰ると良いよ。ここからは込み入った話になるからねぇ」
不意に後ろから声がかかり弾かれたように振り返ると、病室の扉の前に猫面と熊面を被った暗部がひっそりと立っていた。
「あれー? 猫面久し振り」
カカシさんが軽い口調でそう言う。
「うん。カカシ、久し振りだねぇ。お前にちょっと用があってねぇ。一緒に綱手様のところに行ってもらうことになるよ」
「火影様? 何で?」
「何でだろうねぇ」
のんびりした口調で喋る暗部とカカシさんがやりとりをしている間に俺はリョウに目配せする。そういうことだと目で語ると、暗部が来たからには中忍の自分の出る幕ではないと察したようでリョウも頷く。コムロウは暗部に臆することなく堂々と一人だけ部屋から出て行ったので、リョウもそれに続いた。
「どこにも行くなって言ったのに」
カカシさんは俺を見て、また嗤った。カカシさんの視線を感じると途端に俺の身体は情けないほど怯え出す。暴力の記憶は生々しく、そして泣きだしたいほど鮮明に俺の身体に刻まれていた。
「カカシぃ、お前とにかく俺と一緒に来い」
猫面の暗部が一歩前に進むと、カカシさんは笑顔を消して冷ややかな目でそちらを向いた。
「だから、何で?」
「お前、敵の術にかかってるんだってさ。その中忍先生に酷いことしただろ?」
部外者がいなくなると猫面の暗部がすんなりとそう言う。
カカシさんは呆気に取られたように術?と小さく呟いて小首を傾げたが、暫く俺を注視してから突然ゲラゲラと笑った。それはカカシさん以外誰もその意味と理由の分からない笑いで、俺はまた無性に泣きそうになった。誰でも良い。誰でも良いからこの人を助けて欲しい。無力な俺は何もできないから、だから誰でも良いんだ。この人を元に戻すことができるのであれば。
「とにかく連行するよ。そういうお達しだから。お前抵抗する気あるかぁ?」
「いやいやしない。俺、面倒なこと嫌いだから。でも俺、術になんて嵌ってないよ」
「それを判断するのは俺じゃなくて綱手様だねぇ」
「そりゃそうだねぇ」
カカシさんは心底可笑しそうに笑いながら、ふざけているような口調でそう答える。それから俺を見てまた目を弓のように曲げて「じゃあ、またね」と言った。
次に会う時は元の優しいカカシさんのはずで、だから俺にとってそれは嬉しい言葉のはずだった。
しかしその日、俺は一睡もできなかった。