消毒液の匂いがする。
 柔らかな風が頬を撫で、遠くの方でカタカタと何かを運ぶ台車の音や談笑している人の声が聞こえた。
「気がついたかい?」
 優しい声に頷くと、そっと髪を撫でられた。
「驚いたよ。お前がアカデミーを休んでいるって話は聞いていたけど、まさかこんなことになってるとはね」
 カカシさんは?と訊ねようとしたが、喉が引き攣って声が出ない。カラカラになった口内が気持ち悪くて水が欲しいと伝えようと試みると、干乾びた唇がピシリと裂けた。
 水ですね?とよく知った声がする。僅かに頷くと冷たくて硬いものが唇に押し当てられ、そこから少しだけ水が流された。乾ききった身体が歓喜し、細胞が水を奪い合っているのが手に取るように分かる。ゆっくりと嚥下して唇を開けると、また水がやってくる。今度は身体に急かされるまま貪るように水を飲み、暫くすると漸く一息吐いた。
「サクラか?」
 弱々しい、掠れた声が出た。
「そうですよ」
 元教え子が気遣いの籠ったふんわりとした声で返事をする。医療に関わる者独特の、他者に安心感を抱かせる声だ。もう大丈夫だから、何も心配することはないからと言葉以上のものを与えてくれる声を耳にして、サクラが如何に成長したのか実感する。
「カカシさんは?」
「任務に出たばかりだからね。難しい潜入捜査に就いたから他者との接触はしないし、カカシ自身もナリを潜めている。一応追い忍は出しているが徒労に終わるだろう。アイツが戻って来るまで手の打ちようがないよ。……それにしてもお前、この身体でよく知らせてくれたね」
 そんなに酷いですかと訊ねると、綱手様が酷いよと即答する。式を送った時は必死で自分の身体がどうなっているのかなんて気にしなかったし、特にここという場所がなく、とにかく全身が、どこもかしこもがのたうち回るほど痛かっただけだ。受付をしている俺は他の忍びよりも拷問訓練を多く受けている。それでもこんな苦痛は初めてだった。
「アバラが数本イってるし左肩も脱臼していた。鼻も折れているし眼窩底骨折まである。肛門から直腸にかけての裂傷と炎症は言うに及ばずで、とにかく全身に凄まじい打撲痕と擦過傷と切り傷。額も割れてるし首には何度も締められた痕がある」
 綱手様は淡々と説明し、それからもう一度俺の髪にそっと触れて「よく知らせてくれた」と温かな言葉をくれた。何度も繰り返し殴られたことは覚えているが、そこまで酷いことになっているとは思わなかった。鼻も折られていたのか。殴られる度に目の前に火花が飛び散るような感覚があったが、いつ折れたのかも分からない。アバラは極度の暴行に身体が無意識に反応し逃げ出そうとした時に蹴り飛ばされた記憶があるので、多分その時だ。
「それよりイルカ。本当にカカシなんだね?」
 その問い掛けに俺はハッキリ「はい」と返事をする。
「カカシさんを助けてください。絶対に術にかかってるんです。突然やって来て、突然人が変わったかのようにこんなことをして」
「術のことはまぁ間違いないだろうね。しかし、何故イルカなんだ? お前、何か里の機密を問われたりしたか?」
 里の機密。里に関することなどあの人は何も口にしなかった。ただひたすら俺に暴行を加えただけだ。
「記憶には残っておりません。何故私かは分かりかねますが」
 可能性としては、受付に座る俺が持つ情報。俺は仕事上この里の動きにかなり詳しい。任務の人事や内容は勿論のこと、各戦場の戦況も分かるし補給手配もする。高ランク任務も火影直々のものでない限りは俺も知ることができるし、金の流れもそこそこ把握できている。しかも俺は火影様の補佐をする。他の忍よりもずっと火影に近い場所にいるのだ。
 それから、アカデミーの情報という線もある。切羽詰まった他里が優秀な子供を攫おうとした事件が過去にあるので、今回もそれを狙ったのかもしれない。俺から目ぼしい生徒達の情報を集め、一気に攫って洗脳する。そういう計画かもしれない。
 もうひとつは単にカカシさん狙い。はたけカカシを暴走させ、里にカカシさんを処分させるという計画。カカシさんをただ殺すよりも、手練のカカシさんに一人でも多くの木ノ葉の忍を殺させてカカシさん自身も里に殺させる。もしそうであれば、術が発動した時にたまたま頭に浮かんだのが俺だったので俺の所に来たのかもしれない。
「どれもピンと来ないねぇ。それにお前、生きてるしな。えらく中途半端だったが応急処置もされてたんだよ」
 俺の推測に綱手様は懐疑的だった。
「何がしたかったのか分からないですね。カカシさんは任務を請ける時、どんな様子でした?」
「いつもと変わらないよ。突然病室から抜け出したって言うから、まぁ毎度のことながら入院生活に飽きてどこかほっつき歩いてるんだろう、ちょっと休暇をやるかと思って二日ばかり自由にしておいたんだ。それで昨日式を飛ばして呼び出してね、そろそろ任務やっとくれと頼んだら、いーですよ、といつもの口調で言うからさ。まぁ、とにかくカカシが帰って来たらまずは拘束だね。話はそこからだ」
 俺は綱手様の話に大きな違和感を持つ。でもどこに引っかかりを感じているのか自分でも分からなくて、脳内でもう一度綱手様の言葉を全て再生してみる。いつもと変わらないよ、突然病室から抜け出したって言うから、まぁ毎度のことながら入院生活に飽きてどこかほっつき歩いてるんだろう、ちょっと休暇をやるかと思って二日ばかり自由にして―。
「今日何日ですか? 俺は何日眠ってました?」
 俺の質問にサクラが答える。日付を聞いて頭の中でカレンダーを開き記憶と照合していくが、やはり日数が合わない。アヤメ先生と一緒に飲んでカカシさんに暴行された俺は意識を失くし、次に目覚めて式を飛ばしてからすぐに救出され緊急手術が行われた。それが昨日のこと。日数も辻褄も合わない。俺の記憶の中で、丸々二日間消えている。
 それを告げると綱手様が低く唸った。
「その間に私の持っている情報を抜き取られた可能性があります」
「そうだとしたらお前も術にかけられている可能性があるし、術の記憶が残っている可能性もある。イルカ、お前の体力が回復したら『いのいち』に視て貰うことになるが、良いね?」
「勿論です」
 何を探られたのか知る必要がある。綱手様でもカカシさんが術をかけられていると分からなかったのだから、あとは山中いのいち上忍に記憶ごと視てもらうしかない。これはそれほど重い事態なのだし、何より里のため、カカシさんのためでもある。
「師匠。……カカシ先生、大丈夫ですよね?」
「大丈夫に決まってる」
 心細く震えるサクラの声に応えたのは俺だ。続けて手を貸してごらんと言うと、サクラの少し小さな手が俺の手に触れる。俺は今出せる最大限の力を込めてその少し小さな手を握り、今出せる最大限の力強さでサクラに問う。
「お前はカカシさんの部下だった。そうだな?」
「……はい」
「お前はカカシさんの傍にいて、カカシさんがどれだけ強いか知っている。肉体的にも精神的にもあの人が如何に強く、素晴らしい忍かよく知っている。そしてカカシさんがどれだけ優しい人かも知っている。そうだな?」
「はい」
「そしてお前は、綱手様の弟子でもある。綱手様が如何に優れた医療忍か、如何に優れた忍なのか、賢いお前は誰よりもしっかり理解している。そうだな?」
「はい」
「そこから導き出される答えも、もう分かるな?」
「はい!」
 サクラの澄んだ声が嬉しかった。俺の身体を看てこの子は俺がカカシさんに何をされたのか分かっているだろう。そしてそれは間違いなく、まだ年若いこの子に大きな衝撃を与えたに違いない。しかしこれは違うんだ。これをしたのは本当のカカシさんじゃない。本当のカカシさんは大丈夫だ。帰って来れば綱手様がどうにかしてくれるから、必ずいつものカカシさんに戻る。里に帰って来てさえくれれば。
「帰って来ますよね? カカシさん」
「あの子は手練だからね、利用価値がある。写輪眼もある。敵も上手く術中に嵌ったカカシが勿体なくてそうそう殺しはしないだろう。しかも今回本当にお前から情報を抜き取ったとすると、敵は味を占めるはず。まだまだカカシを使おうとするはずだよ」
 第一あれがそんな簡単に殺されるタマかね、と綱手様は笑った。それもそうだ。術にかかっているとしても自害や自分に向けられる殺意に人間は敏感で、暗示はそういったものが関わると途端に精度が落ちる。人の防衛本能はそれほどまでに強い。
「イルカ、お前はそろそろ眠りな。そもそもお前の身体はこんなにペラペラ喋っていられる状態じゃないんだよ」
「興奮してるんです」
「分かるけどね。急激で強烈なストレスから解放されたんだから。でももう、オネムの時間だよ」
 綱手様がクスリと笑った気配がし、次に俺の額に綱手様のチャクラがゆっくりと流れ……俺は眠りに落ちる。




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