第五章

 パチン、パチンと、一定の間隔を置いて乾いた音がする。
 意識の覚醒が上手くいかない。言葉や思考の輪郭がはっきりせず、何もかもが曖昧な海の中で漂っている。何かを叩いているような音は聴覚を通して知覚できるのだが、そこから何も発展しない。ただ混沌の海に浮かびながらその音を聞いているだけだ。
 パチン、パチンと音がする。爪を切っている音にしては硬さが足りないし軽さも足りない。人体を叩いている音にしては少し音が重い。漠然とその音だけを聴覚が拾い上げる。器官がそれを神経活動情報に変換して音の強さや音の方向などを伝えてくるが、認識までには至らない。その音を聞いているのではなく、聴覚がその音を拾っているだけだ。
 瞼が開く。
 しかしまだ意識はしっかりと覚醒できていない。視界に天井が映り、その木目と色を俺に伝える。不明瞭な思考が徐々に形を作り、二三度瞬きをしてから、喉が渇いた、と思った。
「おはよう」
 声が聞こえる。パチン、パチンという音とともに。
 だが俺は首を動かすことができない。目線だけを声のした方向に動かすと、カカシさんがいた。社会生活においての反復によって固定化された慣習として、おはようございますと心の中で返事をする。口は動かない。俺の口は、死んでしまった貝のように動く気配を見せない。
「任務に行くことになりました」
 カカシさんはそう告げる。いってらっしゃいと俺は思う。
「一週間ほどしたら戻ります。それから話をしましょう」
 話をする。と俺は頭の中で繰り返す。カカシさんと話をするのは好きだ。と思う。
 何故身体が動かないのか、声が出ないのか分からない。何故と言う疑問自体も酷くおぼろげで、重要性も感じない。それよりも喉が渇いている。何度もポンプを押して井戸から水を汲み上げ、ザァザァと流れ出す地下水に顔を突っ込んで喉を潤したい。枯れ果てた大地にポツンとあるその井戸は、俺が汲み上げることで数年振り、数十年振り、もしくは数百年振りに水を吐きだすのだ。溢れた水が硬く渇いた大地を流れて行く。じりじりと太陽が俺の肌を焦がし、世界の終わりのような風景の中で俺はひたすらに水を―。
「俺が帰るまでどこにも行かないように。仕事も休んで」
 不安定に湧き出た妄想がその言葉によって途切れる。仕事……俺の仕事……任務? いや違う。違う。俺は教師。アカデミーに行っている。アカデミー。俺の大切な生徒達。愛おしい生徒達。もうすぐ卒業試験が。カカシさん。
 明確に覚醒する。
 すぐさま状況判断を行う。ここは俺の部屋で俺は自分のベッドの上に仰向けに横たわっている。身体に力が入らないのではなく、激痛と痺れによって俺は動くことができない。ゴワゴワとした感触と視界の狭さから、手当てがされている。拘束はされていない。そしてカカシさんは、鉛色に覆われた氷の世界のような目をして俺を見下ろしている。術はまだかかったままか。俺が殺されていないのは奇跡に近いのかもしれない。
 パチン、パチンと音がする。
 ギシギシと軋む関節に鞭を打ちながら首を捻って見てみると、カカシさんが定規を持っていた。寝室の棚の上に使わなくなった古い定規や授業で使っていた指示棒を置いておいたのだが、どうやらそこから取り出したらしい。カカシさんはその定規を人差し指でクイと引き、大きく湾曲させて指を離す。定規は元の形に戻ろうと勢い良く毛布からはみ出ている俺の腕を叩く。叩いている。パチン、パチンと、一定の間隔を置いて。それを認識した時、初めて腕に痛みが走った。
 顔を顰めるとカカシさんが冷えた目のまま嗤う。
 そして俺が見ているその前で、折れる寸前まで定規を逸らしてまた指を離す。一際大きな音を立ててそれが俺の腕を叩く。
「それじゃ行ってきますね。貴方はしっかり休んで、そのボロボロの身体を治しておいてください」
 誰が、誰が俺の身体をこんなにしたと思ってるんだと詰りたい気分になったが、俺はその思考を鎮める。カカシさんは術にかかっているんだからこの人を詰ったって仕方ないし、俺は今、絶対に言葉を発しない方が良い。何か余計なことを言えば確実に、昨晩のように容赦のない拳が飛んでくる。それはもう分かっている。散々身体に学ばされた。
 カカシさんは立ち上がり、手にした定規を元の位置に戻して部屋を出て行く。玄関を開ける音がし、それから施錠をした音がした。気配は探っても無駄だ。あの人は上忍で、元から気配を消すのを常としているから。
 カカシさんが去っても俺は暫くじっとしていた。慎重に動かなくてはならない。綱手様に式を飛ばすにせよ、万が一あの人が外で見張っていたら元も子もない。まずはベッドの中で指を動かし、右手の指がかろうじて機能することを確かめると次にゆっくりとチャクラを練ってみる。式を飛ばすのに問題ない量のチャクラを練ることができると分かると、悲鳴を上げる身体を懸命に宥めながら必死で上半身を起こす。そこかしこから感じる激痛に呻き声が漏れ、脂汗を浮かべながら立ち上がると紙を探した。しかし一歩足を進めるだけで全身が壊れるような痛みに襲われる。
 虫けらのように這う。何度も繰り返し殴られた頬に涙が伝った。
 でもカカシさんを恨むことはしない。俺がすべきことは、あの人を救うため、またこの里の救うためにこの状況を火影様にいち早く伝えることなのだ。カカシさんはあの様子だと、任務先でも何をしでかすか分からない。単独任務ならともかく複数で行う任務の場合、一緒に組んでいる仲間の命が危うい。
 異様に視界が狭かった。腕も指も度重なる暴虐により痛手を受けて怯えたように震え、上手く式が書けない。それでも俺は書ききる。また虫けらのように窓際まで這って行き、密かにカーテンを開けて外を窺い、そこにカカシさんがいないことを確かめると窓を開けて式を放つ。
 そして俺は意識を失う。




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