やけにひっそりとした夜道を一人でブラブラと歩く。息を吐いてももう白くならないし、勿論雪なんてどこにも残っていない。厚い雲に覆われて月もない。そういう、とても暗くて平凡な夜道を歩いて帰る。
 アパートに到着すると錆びた階段を見上げ、重い足を上げてゆっくりと上っていく。部屋の前まで行くと鍵を出してドアを開ける。何となく振りかえってみると、今日の夜の里はどこか霞んでいるように見えた。霧雨でも降り出したのかもしれない。
 部屋の中は深い森の中のように静寂に包まれていた。明かりを付けようとスイッチを入れると、そのパチンという音がやたらと大きく響く。鞄を下ろして台所へ行き、棚の中からイルカくんコップを取り出して水を飲んだ。一息吐くとどんよりとした疲労と眠気に覆われる。このままベッドに倒れ込んで眠ってしまおうか。
 暫くぼんやりとその場で突っ立っていたが、結局浴槽に湯を張り風呂に入った。汗を流して髪を洗い、すっきりとしてぐっすり眠りたい。
 疲労からか思考は空白で、身体を洗う動作も随分と緩慢になった。普段と変わらぬ温度のシャワーが熱く感じて、自分の身体が冷えていたことに気付く。汚れと泡を落として、湯船に身を沈めると大きな吐息が漏れた。入浴剤の匂いに包まれて目を閉じ温まっているとそのまま眠ってしまいそうだった。でも動きたくない、もう少しぬるま湯に浸っていたい。ぼんやりとしていたい。だから長風呂になった。
 両手で湯を掬い、顔にかける。
 卒業試験に合格できる子は今年は何人いるのだろうか。そして無事に下忍になれる子は何人いるのだろうか。高尾、ミキ、コムロウ、アゲハ辺りは問題ないだろう。ああ、でもコムロウはどうかな。あの子はちょっとばかり協調性に欠ける。あの子は、どういった道に進むと良いんだろう。あの子の読書好きを最大限に活かすのは、どの専門分野なんだろう。でもこれは担当上忍師が見極めてくれる。まだまだ子供なんだから、道は限りなく広がっている。俺は可能性というその道をもっともっと広げてあげられるように頑張らないと。
 風呂場の天井からピチョンピチョンと音を立てて滴が落ちる。
 また思考に空白が生まれ、俺は浴槽の縁に頭を乗せて目を閉じる。
 ピチョン、ピチョンと、滴が―。

「そろそろ上がった方が良いんじゃないの?」

 ―ッ!

「ねぇ、もう上がった方が良いよ、イルカせんせい」

 戦慄する。
 息が止まるかと思うほど、その声が俺の心身を戦慄させる。
 何故貴方がここにいる。何故そこに。いつからそこに!
 怯える心を叱咤して立ち上がり力を込めて浴室の扉を開けると、そこにはカカシさんがニッコリと笑みを浮かべて突っ立っていた。でもその目はまるで。
「カカシさん」
 震えてはいけない。分からない。でも震えてはいけない。俺はこの人の友達で親友で。俺はこの人の支えになりたいだから震えてはいけない。分からない。何もかも分からない何でこんなところにだってここは俺の家でだってこの人は病院にいるはずで何でそんな。分からない。でも。
 この人を怖がってはいけない。
「病院、抜け出して来ちゃったんですか?」
「ん」
「お身体はもう平気ですか?」
「ん」
 カカシさんはニコニコしている。とても機嫌の良い呆けた老人のように。
「遊びに来ちゃったんですね?」
「ん」
 怖がる必要はない。そうだ、入院生活が退屈で、病院から抜け出して俺のところに遊びに来ただけに過ぎない。誰だって入院中は暇を持て余すものだ。それに日中身体を動かさないから、眠れなかったんだろう。ただそれだけだろう。ドアを叩いたけど俺は風呂に入っていて気付かなかったから、部屋に入って驚かそうとして。
「びっくりしましたよ!」
 俺はそう言って笑顔を作る。それからカカシさんから目を離さずに腕を伸ばしてタオルを取り、腰に巻き付ける。
「すぐに行きますから、向こうで待っててもらえますか?」
 お茶でもいれますからと続けて言外にそこをどいて欲しいことを匂わせてみたが、カカシさんはニコニコしているだけで動こうとはしなかった。様子がおかしい。笑顔がおかしい。オカシイ。目がオカシイ。どうしてだ。なんで俺、泣きそうになっているんだ。
「酒の方が良いですか? 冷蔵庫にビールあるし、安酒で良いならシンクの下に」
 言葉尻が震える。
「焼酎もありますよ。ワインとか、そういったものはありません。だって変でしょう? 俺の家にワインとかブランデーとかあったら。ウィスキーは匂いが苦手だから飲まないんです。どぶろくもありません。あとは」
 ヘラヘラと笑って俺は言葉を続ける。
 言葉を途切れさせることはできなかった。髪も身体も拭けない。カカシさんから目を離すことができない。どうすれば良いのか分からない。だってカカシさんは笑っているけれど。
「つまみ、何にしますか? 俺作りますよ? カカシさんの口に合うかどうか分からないけど、実は料理って好きなんです。面倒臭いから滅多に凝ったものは作らないけど、結構評判良いんですよ? 酒が進むって。味が濃いのかな。カカシさんは薄味が好きですよね? ちゃんと薄味にするから任せてください。カカシさんにもいつか食べてもらいたいなって思ってたんですよ。ほんと、料理作れるんです。同僚もそう言ってくれるし、リョウも俺の料理が好きで」
 何の前触れもなくカカシさんが腕を伸ばし、何の躊躇もなく俺の口を塞いだ。敵忍にそうするような仕方で。
 戦慄する。
 その行為が、その手の力が、その笑みが、その目が、俺の心身をどうしようもないほど慄かせる。
 なんで、どうして、どうすれば。
 そのままグイと引き寄せられて、力任せにねじ伏せられる。髪を鷲掴みにされて床に押し付けられて、怯えた身体が無意識に抵抗しようとすると頭を床に叩きつけられた。一瞬意識が遠のく。狭い脱衣所の中でくたりと力の抜けた身体を捕まえたその冷たい手に背中を撫でられ、これから始まる何かを予感して身体が震えだす。
 なんで、どうして、どうすれば。
「カカシさん!」
 腰に巻いていたバスタオルを剥ぎ取られた瞬間に咎めるような声が出た。けれど無視される。俺の声なんか聞こえていないかのように、その冷たい手はねっとりと、酷く下品で卑猥な乞食のようにねっとりと、俺の尻を弄る。撫で回し、揉みしだいて指が入れられた。
「止めてください!」
「せまーい」
 子供のような無邪気な声が頭上から降って来る。笑っているのが分かる。俺の尻に指を突っ込んで、狭いと言って笑っている。内部をかき混ぜられて違和感と痛みに息が詰まる。痛い。とにかく痛い。打ちつけられた頭も、突っ込まれて掻き混ぜられているそこも。痛い。怖い。カカシさん。
「止めてください。お願いですカカシさん止めてください。俺ですよ、イルカですよ? 俺はイルカですよ?」
「イルカせんせい」
「そう、俺です。止めてください。カカシさん、止めて」
 指が抜かれた。安堵から強張っていた身体から力が抜ける。今、カカシさんは少しオカシイ。多分正気じゃない。でも何とかなるはず。宥めて、落ち着かせて、それから綱手様のところに連れて行けば何とかなるはず。俺の言うことなら聞いてくれるはず。とにかく落ち着かせて。いや、俺も落ち着いて。そうだ俺も落ち着いて対処すれば何とかなる。
 一呼吸置いて身体を捻る。
 だがカカシさんを見てまた身体が硬直した。
 カカシさんは手の平に唾を吐きだし、それを自分の性器に塗りたくっていた。止める気などさらさらないと言わんばかりに、気持ち悪いくらい執拗に。薄気味悪くて目が離せない。
「ちょっと待ってください!」
 我に返りそう叫ぶと顔面に衝撃が走る。目の前が真っ白になって、何をされたのか分からなかった。動かないように掴まれ腰を持ち上げられる。狭い。ここは狭い。逃げられない。身体が動かない。
 凶器のような性器が尻に押し当てられ。
「うあああああああああああッ!!」
 微塵の躊躇もなく力尽くで押し込められ、全身で悲鳴を上げた。
 痛い。痛い。痛い。
 身が引き裂かれそうだ。
 どこもかしこも痛い。背中が痛い床に叩きつけられた額が痛い裂けた尻が痛い頬が痛い。殴られた頬が痛い。痛い痛い痛い。止めて止めて止めて。止めてください。お願い。お願いです。苦しい。
 苦しい。
「止めて…止めてください」
 カカシさん、止めて。苦しい。息が。
「カカシさん、カカシさん!」
 裂くように押し込まれてはギリギリまで引き抜かれる。そしてまた叩きつけられるようにそれは俺の身体を裂く。一切の妥協も慈悲もなく繰り返される。ガツガツと揺さぶられる度に血臭が濃くなる。震える足に力を込め、腕を伸ばして浴室の方に逃げようとしたら、また髪を鷲掴みにされた。
「どーこ行くの?」
 無邪気で楽しそうな声が降る。それから、額が割れるかと思うような力で床に叩きつけられる。
 激痛と衝撃に涙が出た。
 カカシさんが怖い。
 分からない分からない。何故こんなことになっているのか理解できない。
 ―術。
 カカシさんは術にかかってるんだ。
 間違いない。カカシさんは綱手様でも分からないような複雑な高等忍術にかかっているんだ。そうじゃなかったら、こんなことには成り得ない。カカシさんは優しい人だ正気のカカシさんなら決してこんなことはしないんだ。診てもらわなくては里のためにもカカシさんのためにも早く診てもらって術を解いてもらわなくては。気持ち悪い。身体が、ガタガタと震える。カカシさんが怖い。怖い怖い怖い。でもこれはカカシさんのせいじゃない絶対に違う。カカシさんは優しいから。本当のこの人は、とても優しくて良い人だから。
 だから。
「止めて…ください」
 正気に戻った時に傷付くのは貴方なんだから。
「カカシさん」
「んー?」
「止め―ッ!」
 言い終える前にまた髪を掴まれた。そして、今度は本当に額を割られた。
 その後俺は口を噤み、されるがままになった。カカシさんがひたすら怖かった。たとえ術にかかってしまっているだけとは言え、それは俺の知るカカシさんではなかったから。照れ屋で繊細なところがあってすぐに俯いてしまって、それでもいつも俺を誘ってくれた、俺の知っているカカシさんは微塵も残ってはいなかったから。俺の目の前で俺を犯している男は、俺の知らない生き物。もしかしたら、カカシさんの意識を乗っ取った敵かもしれない。
 カカシさんは脱衣所で俺を犯し、射精してから「ここ狭いね」と無邪気な感想を口にした。それから俺の髪を掴み、引き摺って隣の部屋に移るとそこでまた俺を犯した。何度も何度も犯した。体位を変え場所を変え、身体の感覚がなくなるくらい俺は執拗に犯された。朝までずっと。
 呻き声を出すと殴られた。泣いても殴られた。そのうち左の瞼が腫れあがり、左の視界が完全に消えた。もしかしたら幻術かもしれないと解除印を結んでみたら、「何してんの?」と鼻で笑われまた殴られた。尻の感覚も顔の感覚も失って意識が朦朧としてくると、今度は首を絞められた。苦しくて苦しくてその手に爪を立てて離させると、鼻水を垂らしながら咽る俺を見てカカシさんは楽しそうに笑った。そしてまた殴った。
 俺はずっとそれに堪えた。この拷問のような時間が早く終わってくれることだけをひたすらに祈り続けながら。
 カカシさんは絶対に元に戻る。この里の忍は優秀だし、綱手様は生きた伝説みたいな人だし、カカシさんだって木ノ葉きっての天才と謳われているくらいの人なんだから絶対に大丈夫。もし、仮に、その術がやっかいなもので解除に時間がかかったとしても、カカシさんがどこかに隔離されてしまうような事態に陥っても、俺は誓ってカカシさんを待ち続ける。だって俺は、カカシさんの親友だから。俺はカカシさんが好きだから。カカシさんは俺の誇りだから。
 元に戻ったらカカシさんは間違いなくこの夜のことを気に病むだろう。そういう人だから、この人は。俯いて、小さな声で謝ってくるだろうな。きっと何度も何度も謝って、それでもずっと後悔し続ける。だから俺は全然気にしてないことを知ってもらうために、この夜のことを冗談みたいにしてからかってやるんだ。沢山奢ってもらおう。高い店にもじゃんじゃん連れてってもらおう。そうやって、もっともっと親しくなろう。俺が気にしてない、こんなこと気にしないって分かったら、きっとカカシさんはもっと俺に心を許してくれる。
 そうしたら俺は、カカシさんの唯一無二の存在になれる。
 俺は堪える。殴られても殴られても、カカシさんとの未来を信じる。信じるから堪えられる。
 カカシさんは術にかかっているだけだ。
 そうじゃなかったらこんなことは絶対にしない。絶対にしない人だ。決して、断じて、確実にしない人だ。
 それにそうじゃなかったら、こんな目で俺を見るわけない。
 今日のカカシさんは最初からずっと同じ感情を瞳に浮かばせているけど、正気だったらこんな目で俺を見るわけないんだ。
 ―俺を激しく憎悪しているかのような、こんな瞳で。




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