「それで、はたけ上忍は?」
胡坐をかいて一升瓶を抱え込んだアヤメ先生が、神妙な顔でそう訊ねる。
「体調の方はもうすっかり。あと二、三日すれば退院できるだろうとシズネさんが仰ってました」
「口を利くようにはなった?」
「それなりに。でも元々口数は少ない人だったので、大丈夫だろうと」
俺は泡のなくなったビールグラスを眺めながらそう答える。大丈夫だろうとは思う。ただ、分かり難い人だから心配でもある。何がどうしてあんな状態になってしまったのか結局誰も分からないままだし、カカシさんの胸中で一体何が起こったのか本人も話してくれない。
カカシさんはあの日、どこかに魂を置き忘れた人のように虚ろになってしまっていた。誰が呼びかけてもピクリともせず、綱手様が肉体的に訴えても最後まで反応しなかった。騒然とする俺達を他所に、肉体を置き去りにしてどこかへ去ってしまったかのように。
俺は怖くなって何度も呼びかけた。カカシさん、カカシさんと何度も大きな声で、まるで魂呼びでもしているかのようにその名前を呼んだ。その時、ぼんやりと虚空を眺めていたカカシさんと一瞬だけ目が合った気がした。その瞳はまるで、深い深い枯れ井戸の底に沈み、その光の届かない漆黒の闇の中で繰り返し繰り返し何か意味不明の言葉を呟いているかのような……。だから俺は急にカカシさんが。カカシさんが――。
「うみのくん、寒い?」
無意識に腕を擦っていた。背中に嫌な汗をかいている。
「いえ、平気です」
「はたけ上忍、術にかかっていた可能性は? 時限式の術で、何かの切っ掛けでそれが発動したのでは?」
「それは綱手様が真っ先に疑いました」
カカシさんは凄腕の上忍でビンゴブックの常連だ。腕が立つということは里の機密を多く知ることになるし、木ノ葉を内側から崩壊させるにはもってこいだ。つまり、木ノ葉がカカシさんを有効に活用しているように、上手くすれば敵里もカカシさんを有効に活用できる。そういう存在なので、常に狙われやすい。だから仲間を助ける以前に何らかの術を掛けられた可能性はあった。
「それで?」
「シロでした。術にかけられた気配はないと。綱手様が直々に、かなり慎重に調べていたのでまず間違いないと思われます」
アヤメ先生は一升瓶を傾けて、先程店の者に持って来させたこの店で最も大きなぐい呑みに酒を注ぐ。
「じゃあ単に、はたけ上忍の精神的な問題なのね」
「だと思います。翌日にはいつものカカシさんに戻っていたので、綱手様もあまり気にした様子はないのですが」
俺は気にしていた。ずっと気になっている。
人間だから、誰だって不安定になる時はある。上忍だって火影だってアカデミー生だってそれは皆一緒だ。でも、もう大人なんだからと言って放っておいて良いのだろうか。本当にそれで良いのだろうか。
「せめて誰かに、心の内でこんなことが起きた、こんなことを思った、感じたと、話していれば良いのですが」
それを言える存在が、俺であって欲しかった。
他の誰にも言えないことを、そっと打ち明けられる存在になりたかった。
でも今それを望んでも仕方ない。せめて他の者に。例えばアスマ先生やガイ先生などに話していれば良いのだが。
「はたけ上忍のこと、すっごく大切に想ってるのね。うみのくん」
母親のような眼差しを向けるアヤメ先生に、俺は強く頷く。
カカシさんは俺にとって、とても大切な、かけがえのない存在だから。
今日は珍しくアヤメ先生も大人しく飲んでいた。飲み屋が並ぶ街角の端に出来た小さな店に教師仲間から斥候として送られたのだが、俺もアヤメ先生も年度末で毎日やることは山のようにあり、入店した時から少し疲れ気味だったからかもしれない。だからいつものようにテンションは上がらず、二人で馬鹿騒ぎをすることもなかった。店自体は雰囲気も良く、料理も美味く、値段もそこそこで申し分なかったのだが。
それにアヤメ先生とはこうして飲むのも沈黙も、まるで苦にならない。黙っていればアヤメ先生は綺麗だ。胡坐だし、一升瓶を抱えているけど。
「明日、何だっけ」
「朝から卒業試験に向けての職員会議。午後からは全生徒合同のサバイバル訓練がありますよ」
「あー」
アヤメ先生がうんざりした顔で天を仰ぐ。
それから二人でチビチビと酒を飲んでは、疲れるダルイ朝イチの職員会議が面倒だのと愚痴を零してから、いつもより早めに切りあげた。二件目に行く体力的余裕などどこにも見当たらなかったので、公園でアヤメ先生と別れた。