第四章

 目覚ましの音がやけに頭に響く。
 重い瞼をなんとか開けると、天井が視界に映った。
 酷く頭がぼんやりする。
 未だ夢の中を彷徨っているような感覚がして、空白が目立つ思考をそのままにとりあえず身体を起こしてみた。手の平に感じる自分の体重と冷たい空気にはリアリティがあるけれど、何故かどこかが曖昧で、それはあたかも現実のような夢を見ている最中のようだった。しかも、多分悪夢。ひんやりとして身体が重くて、やけにしんとしている。この先良くないことが起き、俺は思うように動かない身体を引き摺るようにして何かから逃げることになる、そんな悪夢の予感。予感というか、記憶なのかもしれない。今の今まで、そんな悪夢を見ていたのかもしれない。
 ゆっくりと深呼吸をして悪い予感に怯える思考を追い払う。ベッドから出て冷たい床に足を下ろすと全身が大きく身震いした。熱いシャワーでも浴びてスッキリしたい。
 しかし、どうも酒臭いので完全にアルコールを飛ばそうと湯船に浸かることにした。ゆっくり入る時間はないが、ザブンと肩まで湯に浸かれば身体も心も随分楽になるはずだ。風呂場に行って栓をしてコックを捻る。最初に冷たい水が出て、それからもうもうと湯気が立ち込めてきた。
 喉が渇いている。昨晩は飲んだものなと苦笑しながら台所へ行き、いつものように―。
「あー……」
 カップの向きが違うのを見て、どれだけ頭が回っていないんだと笑いだしたくなった。昨晩の記憶がない。それに初めて気付いた。途中まではあるけれど、確かカカシさんが下にいて。
 そこからの記憶がない。
 シンクにもその他の箇所にも変化などなかったが、部屋には僅かに珈琲の匂いがした。ゴミ箱を覗いてみると客用の菓子を出し、それを食べた形跡がある。
 恐らく、カカシさんが来たのだ。
 どういった経緯でカカシさんがこの部屋に訪れたのかは分からないけれど、酔っ払った俺が誘ったのか、はたまた俺を心配したカカシさんがここまで運んで来てくれたのか、そのどちらかだろう。あの時間帯にリョウや仲の良い同僚がここに押し掛けてきたとは思えないし、カカシさんが下にいたのは確かに覚えているのだから。
 この汚い部屋を見られたのかと思うと、羞恥心で顔が赤くなった。どんな会話をしたのか分からないが、あの人はこの部屋に来て確実に呆れただろう。洗濯ものは散らかっているし、ろくに掃除していないので部屋は埃っぽい。シンクは油まみれだし、テーブルの上にはビールの空き缶やら飲みかけのペットボトルやらアカデミーで使うプリントなどが散乱しているし、とにかく部屋が全体的に細々としたもので雑然としている。
 いや、それよりもあの人に迷惑をかけたかもしれない。屋台のおでんを食べて幾分酔いは醒めていたはずなのに記憶が飛んでいるのだ。何かとんでもない失態をしでかしていなければ良いのだが。
 重い溜息を吐いて水を続けて二杯飲み、米を研ぎ終えると風呂場に戻った。湯船に湯が半分ほど溜まっていたので、服を脱いで。
 俺はその場で硬直する。
 記憶にない。
 この手首の痣は、記憶にない。
 どれほど強く握ればこんなことになるのかと思うほど、そこにはくっきりと掴まれた痕が残っていた。
 まるで、呪われた痕跡のように。




 そんなに溜息ばかり吐いていると幸せを逃しますよ、と言われて顔を上げる。今日は生徒にも同じことを言われた。イルカ先生、溜息ばっかり吐いてると幸せが逃げちゃうよ、と。
 目の前にはアヤメ先生が作ってくれた弁当があって、そこには俺の好物が入っている。雪も止んで空には晴れ間も見え始めたし、今日は生徒達も授業によく集中していたし、その上昨晩は二人でベロベロになるまで飲んで盛り上がったのに、今日の俺の様子がおかしいとアヤメ先生はさっきからとても心配してくれていた。
「俺、昨日どんくらい酔ってました?」
 アヤメ先生と一緒にいた時の記憶はあるのだが一応こっそりと訊ねてみると、アヤメ先生は目を細めてニィと笑った。
「あらあら、もしかしてうみのくんは記憶がないのかのかなぁ?」
「御名答。おでんを食べたところはちゃんと覚えてるんですが、アヤメ先生と別れてからの記憶がざっくりとイッてます」
「残念ねぇ。アタシ達、うみのくんの家でアレコレ楽しいヒトトキを過ごしたのになぁ」
「物凄い怖い嘘止めてくださいよ。枯れてない女性を連れ込むなんて俺、酔ってもしませんよ」
「どうかなぁ。昨日はうみのくん、酔ってたもんなぁ。いやー、激しい夜だったわ」
 馬鹿な戯言を口にするアヤメ先生を「メッ!」と叱り付け、周囲に聞かれていないかそっと確認する。独身男と未亡人という組み合わせなのだから、変な勘繰りをする者もたまにいるのだ。
 アヤメ先生は俺をからかうばかりで話にならなかったが、それでも少し気分が軽くなった。今日は一日無性に眠かったが腹が膨れると眠気が一層増したので、昼休みの残りは空き教室に行き椅子を並べて日差しを浴びながら仮眠する。ポカポカと暖かな陽の光が体温を上げ、短い時間だったがとてもぐっすりと眠れた。頭も仮眠したことにより一区切り付いたようで、午前中にあった心の重いしこりはどこかへ消え失せていた。
 午後からの授業を無事に終えて、夕方から受付に入る。依頼人なんかもチラホラいるのに五代目が堂々と競馬新聞なんて読んでいるのでまずはそれを取り上げ、誰にも見られないようにこれまた「メッ!」と叱ってから席に着いて仕事を始めた。日も暮れると流石に寒くなったようで、外から帰って来た忍達は皆、まずはストーブに近寄って身体を温めている。明日はまた冷え込みがキツクなるらしいと誰かが言っていた。
 暫くすると人の波が消えたので、不貞腐れている五代目にお茶を淹れて差しだす。五代目は澄まし顔でそれを受け取り、ずずっと音を立てて熱い茶を啜った。それから、お前もそろそろ身を固めたらどうだい?なんて言ってくる。見合いでもしてみるかい?と。俺はもうちょっと独り身を楽しみたいなぁなんて返事をしつつ席に戻ると、カカシさんがやって来た。俺はニッコリ笑って目礼する。カカシさんも微笑んで頷く。
 今日は待機の日だったようで、カカシさんは報告書を持って来なかった。一人去り、二人去り、火影様も火影室に戻って行くと俺も帰る支度を始める。後は交代が来るまで時間を潰せば良かったのだが、同僚が「もう帰っても良いよ」と言ってくれたので、その言葉に甘えて鞄を肩に掛けて歩き出す。同時にカカシさんも立ち上がり、俺と一緒に受付から出た。
 廊下を歩き、外に出て暫くすると俺は足を止めてカカシさんに向き合う。
「昨日、御迷惑おかけしました?」
 そう問いかけるとカカシさんも足を止めて俺を見た。だけど普段のカカシさんよりも表情が厳しく、何かを窺っているような感じだった。
「もしかして、家に運んでくれました? すみません、俺記憶なくて。アパートの下にカカシさんがいたことは覚えているんですけど」
「ああ、うん。貴方、酔っ払ってて」
 やっぱりか。酒に弱くなっているのかもしれない。若かった頃はそれなりに無茶もしたが、ここ半年で酔って記憶を飛ばしたのはこれで三度目だ。もう年なのかなと思うと苦笑が漏れる。
「あの、家に運んでくれました?」
 そう問うとカカシさんの表情が更に強張る。いつもその瞳に宿っている温もりが冷えて無機質になり、俺は少し怖くなった。何か例えようのない不安がやって来る。
「いや、その、コップが……じゃなくて、珈琲の匂いが残ってて。それでゴミ箱を見たら」
 焦ったように言い募ると、カカシさんが得心して頷く。
「うん、運んだ。ごめんね勝手に家にあがらせてもらったけど」
 そう言って、カカシさんはふと全身から力を抜いた。表情も柔らかくなり、俺も安堵する。
 カカシさんから見れば、正体を失った他人の家に上がり込んだことが引っかかっていたのかもしれない。何しろこの人は礼儀正しいし、俺が逆の立場だったらやっぱりちょっと気になる。でもこれは明らかに俺の過失だし、カカシさんが気にすることじゃない。俺は感謝こそすれ、カカシさんを責める気は毛頭ない。俺の家が汚いことでカカシさんが嫌な思いをしたんじゃないかって、そこが気になるだけだ。何か大切なものや見られたら困るものも、家には無いんだし。
 不安気に俺の目を覗き込むカカシさんを真っ直ぐに見返して俺は断言する。
「平気です。俺、カカシさんを信頼してますから」
 信頼してるから。カカシさんが良ければいつでも家に来てくれて構わない。むしろ来て欲しい。休日なんかに遊びに来て欲しい。そう付け加えようかと思ったけれど、まずは掃除が先だなと思った。
「有難う」
 カカシさんはニッコリと微笑んで、それから歩みを再開させる。
「俺、暴れました?」
「そんなことなかったですよ。何で?」
「手首に掴まれた痕があるんです」
 袖を捲ってそれを見せると、カカシさんは「ああ」と頷いて、「ちょっと暴れそうになったから、近所迷惑にならないうちに家に引っ張り込みました」と言った。
 やっぱりそうなんだ。俺が暴れたから、カカシさんが掴んだんだ。それなら良い。そういうことなら何も問題ない。俺の記憶がない間に何かとんでもないことが起きて、他の誰かに掴まれたわけじゃなかったら気にすることはないし、怯える必要もない。今朝これに気付いた時は呪われたみたいでとても怖かったが、真相を知ればどうってことはなかった。むしろ迷惑をかけてしまったと反省しきりだ。優しいカカシさんがこんなに強く掴んだんだ。俺はきっと大層駄目な酔っ払いだったに決まってる。
 すみませんでしたと謝ると、カカシさんは全く気にしていないと答えた。部屋が汚かったでしょうと訊ねると、そんなことなかったよと笑う。本当に優しい人だと思う。
 その日は酒は控え目にして、二人でまったりと時間を過ごした。アヤメ先生と一緒に行った店が良かったと告げると、今度一緒に行こうと誘われる。寒椿を愛でながら雪見酒をカカシさんと楽しむのは良い案だと思った。アヤメ先生と一緒に飲むのは本当に楽しいけれど、どうしても酒のペースが早くなって風景を愛でる行為がおそろかになってしまう。でもカカシさんとなら思う存分じっくりと雪景色を、雪の中で艶やかに咲き誇る寒椿を慈しむことができる。でもやっぱりあの店はちょっと敷居が高い。
「俺もアスマに訊いて、色々と良い店を探しておきます。そろそろここも飽きてきたでしょう?」
 飽きてなどいないし、そもそも俺は場所には拘らない。カカシさんがリラックスできる場所ならどこでも良いんだ。でも美味くて安くて雰囲気の良い店が他にあるのなら、行ってみたいとは思う。
「じゃあ俺の方でもどこか探しておきます。リクエストはありますか? 鍋料理が美味いところ、とか」
「俺は天麩羅が駄目なので」
「了解。天麩羅屋ですね!」
 即座にそうからかうと、カカシさんも「じゃあ俺もまぜごはんの店を探すから」と返してくる。それから二人で大いに笑った。
 程好く酔って店を出ると、身を切るような寒さに大きく身震いする。空は晴れていたが嵐のように風が強くて、俺は急いでマフラーをしっかりと巻いて両手をポケットの中に隠す。空を見上げると月の光に照らされた雲が次々と形を変えながら流れて行くのが見え、その合間合間に冬の星達が美しく煌めいていた。
 夜に動くことの多い忍にとって月と星と季節の関係は非常に重要だ。今度泊まり込みで星座の授業があるのだが、「泊まり込み」「夜のアカデミー」という子供達が興奮してしまう条件の中で、如何にしてその子供達を授業に集中させるかは俺達教師の悩みどころだ。忍を目指しているのだから北極星くらいは見付けられて当然なのに、未だにどれが北極星なのか分からない子もいるのだ。何とかしたい。そう言えば、ナルトに北極星を教えるのには大層骨を折った。
「次回は奢らせてくださいよ」
 夜空を見上げながらそんなことを考えていると、ふとカカシさんが小さな声でそう言った。
「自分の分は自分で出しますよ。お気持ちだけ頂きますから」
 俺はいつものようにそう答える。
「でも」
 カカシさんは何か言おうとしたが、結局何も言わずに俯いた。
 でも、何だろう。「でも、たまには」かな。「でも、俺が誘ってるんだから」かな。そうだとしたらお門違いだ。もうカカシさんと一緒に食事をするのは当たり前になってるんだから、どちらかが誘うとかそういう問題じゃなくなってる。気にしなくて良いのにと思って歩き出すと、もうひとつ思い当たることがあった。
 アヤメ先生のことだ。
 あの時カカシさんは俺達の会話を聞いていた。アヤメ先生が奢るからと言った時、俺は何も考えず喜んでそれに甘えた。「でも、アヤメ先生には奢ってもらってたじゃない」と、こう続くなら返す言葉がない。
 カカシさんはいつも奢るよ、奢らせてよと言ってくれる。元々割り勘に強い拘りがあるわけでもなく、同僚と飲む時は奢り奢られが普通なのに、何故カカシさん相手だと自分はこうも渋ってしまうのか分からない。今使っている店は中忍の俺でも手が届く店だから、恐縮してしまうことも拘ることもないのに。奢って貰って、じゃあ次は俺が、とでも言えばそれで済むことなのに、どうしてこう頑なに断っているんだろう。カカシさんとは既に階級差を越えた良い友人になっていると思うのに、俺の中でどうしても拒絶感が―と、そこまで思考が進むと答えが出た。
 俺はカカシさんと対等でありたいんだ。
 この里の誉れであるはたけカカシと対等の友人になりたいんだ。アスマ先生やガイ先生がいる、そのポジションに俺も行きたい。そして彼等よりもっと深くカカシさんに食い込んでいきたい。唯一無二の存在になってしまいたい。はたけカカシが唯一心を開くことができる、心を委ねることができる存在になりたい。中忍の立場としてこの人を支えるのは俺の理想ではないのだと、だから対等になりたいと、そう思っているんだ。
 この人を誇りに感じつつ、階級差階級差と拘っていたのは俺だ。そう分かると自分の子供じみた思考回路に苦笑が漏れた。しみったれた己の器の小ささも弁えず、なにを高望みしているのか。
 もっと気楽に、自然に付き合おう。背伸びをしたって俺は俺なのだし、俺を傍に置くことを望んでくれたのはカカシさんなのだから。  今度奢ると言われたら素直に甘えさせてもらおうと心に決めたところでいつもの四つ角に来た。それではまたと挨拶をして、俺はのんびりと帰る。
 空を見上げるとシリウスが見えた。



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