その事件は昨日のお昼すぎに起きた。
 誰かが昼休みの間に、カラサさんのふでばこの中にガムを捨てたとかで、クモダ先生が激怒していた時のことだ。
 カラサさんは変な部分で気の強い女の子で、何人かの生徒たちからひどく嫌われている子だった。俺もちょっと苦手なところがあるけど、でもだからって筆箱に噛んだガムを捨てるなんて信じられないし、そういうことは絶対にやっちゃいけないことだ。だから俺は、ここはクモダ先生がビシっと叱ってやるべきだな、なんて思いながら、先生のお説教にうんうん頷いていたんだ。
 でもクモダ先生のお説教はちょっと長すぎた。早く犯人を特定してゲンコツでも落とせば良いのに、「こんな空気を作っているみんなにセキニンがある」とか言い出して、ものすごく長く怒っていたんだ。カラサさんに対して普通にしゃべりかける生徒がほとんどだし、ガム入れるなんて信じられないって、これまたほとんどみんなが思ってるのに、こういう時に「全体セキニン」って言われるのはちょっとイヤだった。
 大人には大人の社会があるように、子供には子供の社会がある。先生はそれを忘れている。
 とにかく、先生は顔を真っ赤にして怒り続けていた。最初こそ頷いて聞いてきた俺だけど、途中で長すぎるお説教に飽きちゃって、ノートにコノレンジャーの絵を描いたり外を眺めてたりしてた。
 で、そん時に気付いたんだ。
 隣の席の窓際の日向さんが、オシッコをもらしちゃってることに。
「オシッコ漏らすって……そんな年じゃないでしょ?」
 ひざをかかえて良い子で聞いていたオバケが、ビックリしたような声を出した。
「だからこそ問題だったんだ」
 俺はむずかしい顔をして答えた。
 日向さんは木ノ葉でも有名な家系の一族で、ようは良いところのおじょうさんだ。それでいて顔もけっこうカワイイし勉強もできるんだけど、ただ病弱なところがあって、性格もひどく引っ込み思案だった。声なんか聞き取れないくらい小っちゃいし、しゃべりかけても顔を真っ赤にしてうつむいちゃうし、何だかよく分からない時に泣いちゃうような子だ。え、今泣くところなの?みたいな感じで。
 そんな日向さんだから、クモダ先生が顔を真っ赤にして怒鳴りちらしてる時に「オシッコしたいです」なんて言えなかったんだと思う。俺は言えるけど、そういう時にそういうことが言えない子って結構いるんだ。日向さんはそのヒットウみたいな子なんだ。
 だから言えなかった。それなのにクモダ先生のお説教はウンザリするくらい長かった。そんで、もらしちゃったんだ。
 アカデミーに入ったばかりの年少組の小さな子供ならまだしも、俺たちの年でオシッコをもらしちゃう子なんかめったにいない。そんなこと周りにバレたらとんでもないことになってしまう。日向さんだってそれは分かってて、全部の血の気が引いちゃったんじゃないかって思うくらい顔を真っ白にさせてふるえてた。
 俺はどうすれば良いのか考えた。けんめいに考えた。先生のお説教が終わったらみんな気が抜けて、多分その匂いに気付く子が出てくる。そうなったら日向さんのアカデミー生活は終わったにひとしくなる。その時でさえ俺みたいにお説教に飽きてる子だっていたんだから、時間との戦いだった。
 それでまず先生に「お腹が痛くなってきた」って嘘を吐いて、俺は教室から出た。それから校舎を出てぐるっと中庭にまわると、庭の水やり用のホースを持って外から教室に向かって叫んだんだ。
「クモダ先生のお説教は長すぎて聞いてらんねぇ! もう飽きた!それより水遊びしようぜ!」
 その時の口調のままで言って、ファイナル警棒をオバケに向ける。
「そんでこうやって、ホースから水を出して日向さんに思いっきりかけた。日向さんだけだと怪しまれるから他のみんなにもかけたけど、日向さんには集中してかけた。クラスは大騒ぎになって、クモダ先生がすっ飛んで来て俺を殴り飛ばした」
「そりゃ……そうなるよね。水遊びって言っても、もう秋だし」
 オバケはちょっとだけ肩を竦める。
「でも、それでも良かったんだ。だって日向さんがオシッコもらしちゃったことは誰も気づかなかったし、ハッキリ言って作戦はみごとなまでに成功した。俺は日向さんのことをちゃんと守れたんだ」
「ん、そうだね。でもそれと家出がどうつながるの?」
 そう、そこからなんだ。
 それまではみんなの事件、俺と日向さんの事件。でもここからが俺の事件のはじまりだった。
 俺はその後クモダ先生にこっぴどく叱られたんだけど、それだけじゃ終わらなかった。日向さんがビショ濡れになちゃって風邪をひくかもしんないから、アカデミーから日向さんちに服の替えを持って来て欲しいって式が行ったみたいなんだけど、日向さんのお父さんとお母さんがその式を見てアカデミーに怒鳴り込んで来たからだ。
 鬼みたいな形相をして。
 俺はあやまったよ? 日向さんに「ごめんな」って言ったし、ご両親にもちゃんと頭を下げた。でも日向さんのご両親の怒りはおさまらなくて、クモダ先生もしつこくカンカンに怒ってたから、俺んちの父ちゃんと母ちゃんも呼び出されてしまった。
 日向さんは病弱だから、ご両親がしんけいしつになるのは分かるんだ。ひどい言葉をいくつも投げつけられたけど、そういうのは気にしてない。クモダ先生はうるさかったけど、突然女の子にホースで水をかけたりしたら、先生ってのはカンカンになるもんなんだ。だからこれも俺は気にしてない。
 でも父ちゃんと母ちゃんは……とくに父ちゃんは許せなかった。
 途中まで黙って話を聞いていた父ちゃんは、俺が日向さんに集中攻撃して水を浴びせたって話になった時からピキピキと血管を浮き上がらせ、やけに大声で、やけに一方的に俺を叱りつけはじめた。母ちゃんが「イルカ、どうしてそんなことをしたの?」って訊いてきても、父ちゃんは「理由なんてどうでも良い」ってさえぎってさ、そりゃ俺だって理由は答えられないけど、でも。
「イルカっていうの? 君の名前」
 オバケがとつぜん話の腰を折ったけど、悔しさがこみあげてきて泣きそうになってきたところだったからちょうど良かった。
 俺は泣きそうになっていたことをオバケに気付かれないように注意をはらいながらうなずく。それからフン!と怒りにまかせみたいに鼻息を荒くするふりをして、ちょっと冷静になれるよう時間を作った。
「俺はうみのイルカ。お前は? オバケに名前とかあるのかどうか知らないけど」
「俺は、カカシ。はたけカカシ。オバケじゃなくて木ノ葉の中忍なんだ」
 こんな子供が中忍になれるわけないから、きっとミエをはっているんだろう。俺が強そうだから、はり合ってるんだ。
「お前はオバケだよ。だって子供がこんな時間にこんな場所でウロウロしてるはずないもん。お前は自分が死んだことに気付いてないだけだから、俺の話を聞いたらちゃんと成仏しとけよ」
 大人っぽい口のききかたをしたら、オバケのカカシは「任務だったんだ」とさらなるウソをついた。ものすごくバレバレのウソだったから、コイツはちょっとカワイイところがあるなって思った。
それから話に戻る。
 先生も母ちゃんも、どうして水なんかかけたんだって訊いてきたけど、俺は「たいした意味なんてなかったんだ。ただ、みんなをおどろかせようとしただけ」だと言いはった。でも日向さんに水を集中させたことに関しては「そこにいたから」とか「なんとなく」っていう言い逃れがどんどん苦しくなってきて、日向さんのご両親もそんなんじゃ全然ナットクしてくれなくって、俺はけっきょく「日向はいつもおどおどしてて、うっとおしい。キライだからいじめてやったんだ」と大ウソをついた。そういうことを言いたくはなかったけど、話に決着をもたせるにはそれしかないと思ったんだ。
 当の日向さんはずっと顔を両手でおおってしくしく泣いていた。日向さんは何も言わなくて良いし、俺の言葉がウソだって分かってるだろうから、俺は気にしなかった。
 でもそんなたいどが顔に出ちゃってたみたいで、みんなすごく怒った。母ちゃんも、そして父ちゃんも。
 女の子を苛めるような子に育てた覚えはねぇ。
 父ちゃんははげしく俺をののしり、俺を拳でなぐった。俺はふっとばされてカベにぶち当たり、イシキがなくなった。
 消えゆくイシキの中で、俺は父ちゃんに対する恨みと憎しみだけを感じてた。
 女の子をいじめる男だと思うのか?
 父ちゃんは俺を、本当にそんな男だと思うのか?
 俺の言葉を真にうけて、俺が本当にそんなことする男なんだって決めつけたのか?
 なめんじゃねぇよ。俺は日向さんの大事なモンを守った男なのに、それなのに父ちゃんは……父ちゃんは何も知らないくせに。
 目が覚めると自分の部屋だった。台所のテーブルの上に『急な任務が入ったから留守番をしてなさい。今日はアカデミーに行かなくていいです』って母ちゃんの字でメモがおいてあった。それから、日向さんには、父ちゃんと母ちゃんが二人で謝ったから、お前ももう一度、苛めてごめんなさいって謝っておきなさいって。
 それを読んで、俺は家出を心に決めた。

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