「イルカ、そんなところで寝てると風邪ひいちゃうよ」
 大好きな人の声に目覚める。
 恐る恐る振り返ると、カカシさんがドアに凭れかかってへたりこんでいた。
「カカシさん!」
 目覚めてくれたのは嬉しいけど明らかに顔色が悪い。立っていられないみたいなのに無理して部屋を出たのがありありと見えて、無性に腹が立った。何で大人しくしてないんだ、カカシさんに今最も必要なのは「安静」なのに、なんで動くんだ!
「トイレ行きたくて目が覚めたのにイルカは傍にいないし、呼んでも来てくれないし、ベッド周りと部屋には結界が張ってあってそれを破るのに一苦労だし。全くイルカは」
 あ……。外部からの雑音を遮断するために結界を二重に張ったから、カカシさんが目覚めて俺を呼んでも俺には聞こえないんだった。大失敗すぎるだろ、アホか俺は! 一千万回死んじまえ! 一千万回死んで一千万と一回生き返って、もう一回死んじまえ! 馬鹿! 最低!
「うう……」
「はい泣かないのー。それよりトイレに連れて行って」
 ズビビと鼻を啜ってからカカシさんに駆け寄り、すぐに肩を抱き起こした。カカシさんを引き摺るようにしてトイレに行って座らせる。それからどうすれば良いんだろうとマゴマゴしていると、「終わったら呼ぶから出てってー」と言われる。そうだなそうだな、人がいちゃ出るもんも出ないな、俺だって人が見てたらションベン出ねぇもんな。分かりましたカカシさん、俺、出て行きます!
 タタっとトイレから出て気を付けの姿勢でそこに突っ立っていると、心臓がドキドキした。
 カカシさん! 俺のカカシさん!
 起きてくれた、目覚めてくれた、それに俺、またカカシさんに触れることができた!
「カカシさん好き! 好き! 大好き!」
「騒がないのー」
「はいっ!」
 騒いだら駄目、俺は騒いだらイカンのだ。カカシさんにはまだ「安静」が必要だから、じっとしてないと駄目。好き!って大声で言っても駄目。よし、うみのイルカ、大人しくしてるんだぞ? ここで気を付けをして待ってるんだぞ? そわそわしても駄目だぞ?
 水を流す音がして「肩貸してー」と言われる。俺はトイレに駆け込んでカカシさんに肩を貸して、また引き摺るようにベッドに戻る。キスしたいキスしたいキスしたい。ぎゅうってしたい、寂しかったこと聞いて欲しい、泣いてたことも聞いて欲しい、カカシさんが目覚めてどれだけ嬉しいのかも知ってもらいたい。でもまだ我慢!
 身体を拭いてあげようと思ったけど、カカシさんはベッドに戻るとすぐに眠ってしまった。眠ったと言うよりもそのまま意識を失ったと言った方が正しい。
 カカシさんはまだ調子が悪い。きっと「うちはイタチ」に酷いことをされたんだ。イタチのことはよく知らないけど、俺がとっちめてやれれば良いのに!
 結界を張るとカカシさんが目覚めた時に困るから、それはもう止めた。「傍にいないし」って言われたから、傍にいることにした。カカシさんが好きすぎる俺はカカシさんにキスしたくて仕方なかったけど、一生懸命自分の気持ちを抑えた。だって大好きだから。カカシさんのためならそれくらい平気だから。
 カカシさんはその日はもう起きなくて、次の日の夕方にまたトイレに目覚めた。トイレが済むとお腹が減ったって言うから、お粥を作って食べさせてあげた。でもカカシさんの具合は凄く悪そうで、顔色は悪いまんまだったしお粥も自分では食べられなかったし、それに三口くらいで「もう食べられない」って言った。
 身体を拭いてって言われたから、タオルを濡らして一生懸命拭いた。カカシさんの身体はどこにも傷がなくって健康そのものなのに、やっぱりその身体には覇気とか生気ってものがほとんどなかった。
 俺は泣きそうになる。カカシさんが弱っているだけで怖い。こんなに好きなのにカカシさんは弱ってるから怖い。もしカカシさんが死んじゃったらどうしようって、頭の中でそれで一杯になる。こういう時どうしたら良いのか分からない。カカシさんのためなら何だってできるのに、どうしたら良いのか分かんないから何もできない。だから余計泣きそうになる。
「カーテン開けて」
 身体を清めるとカカシさんは小さくそう言った。本当は喋るのも億劫なんだって分かるくらいその声は弱々しくて、俺はまた怖くなる。けれどカカシさんがそう頼むから、ベッドに膝を付けてカーテンを開けた。「窓は?」って視線で問うたけど、カカシさんは本当にちょっとだけ首を振ったのでそのままにしておく。
 夜空にはポッカリと満月が浮かんでいて、カカシさんは何だか難しい顔でそれを眺めていた。
「閉めて」
 言われた通りにカーテンを閉める。月の満ち欠けで今日が何日か確認したのだろうか、それとも単に月の光を浴びたかっただけか、何となく外を眺めたかっただけなのか。分からないけど、とにかくカカシさんの要望に答えるのが俺の仕事。
「イルカ、キスして」
「うん」
 声が上擦ったけど、気にせずキスした。自分ができる精一杯の優しさを込め、真心を込め、愛を込めてひっそりと唇を重ねる。一回のキスに「好きだ」って百万回囁く気持ちで、何度も何度もキスをする。
 カカシさんにキスを強請られたことは始めてだった。
 いっつも俺から「キスー! キスー!」って強請ってた。カカシさんは面倒臭がらずその度にちゃんと俺にキスしてくれたし、そのキスも適当だったことなんて一度もない。カカシさんは本当に誠実な人なんだ。本当に、誰よりも誠実な人。
 だから俺も誠実な心でカカシさんにキスをする。カカシさん大好き、カカシさん大好き、カカシさん大好き。早く良くなりますようにって。
「寂しくない?」
「平気。カカシさんが無事なら、それで良い」
「泣いてない?」
 泣いてる。でもここで泣いてるって言ったら、カカシさんの「安静」の「安」のところに差し障るかもしんない。
「……平気」
――な、わけないか。イルカは甘えん坊で寂しん坊だもんね」
 カカシさんはゆっくりと目を細め動かない腕を少しだけ動かしたから、俺はその手を両手で包み込んで頬を寄せる。カカシさん、大好き。大好き。
 愛してる。
「イルカ……俺もイルカが好き。本当に愛してる。だから、泣かなくて、良いんだよ」
「うん」
「イルカが元気じゃないと、俺も辛い。だから、普段通りにしてて。心を落ち着かせて、いつものように元気に。泣かなくて良いからね」
「うん」
 力強く頷くとカカシさんは安心したようで目を閉じた。長く起きていたせいで疲れたらしく、すぐさま寝息を立てる。
 俺は両手で包んでいる大切なカカシさんの手にそっと口付けをし、「おやすみなさい」と声に出さずに言った。
 カカシさんも俺を愛してくれている。だから俺は元気じゃないと駄目。俺が泣くとカカシさんの「安静」の「安」のところに差し障るし、俺が元気な方がカカシさんも喜んでくれるんだ。きっと治りだって早くなる。
 よし、頑張ろう。
 そう思った時、ノックの音がした。
 カカシさんの「安静」の「静」を乱す不届き者は誰だと憤慨しながら玄関に向かうと、ナツがいた。
 こんな時間に、どうしてナツが? アカデミーで何かあったらもっと早い時間に来るだろうし、カカシさんのお見舞いでもまた然り。
「どうした?」
 問いかけながら俺は、ナツがフル装備であることに気付く。ナツがフル装備……中忍でアカデミー教師のナツが?
「大事な用があるんだ。ちょっと出てきてくれ」
「駄目。俺はカカシさんから離れられない」
 キッパリと断り、ここで話をするように促そうとすると腕を掴まれる。
 俺の腕を掴むナツの手には怖いくらいの力が込められていた。
「その、はたけ上忍に関してだ。本当に重要で極秘な話だ。ちょっとで良いから外に出てくれ」
 ナツの厳しい口調にゾクリとした。カカシさんに関係する、ここでは話せない重要で極秘な話。もしかして、カカシさんの今の状態に関わることなのか? 本当はとても重い病に罹っているとか、そういうのなのか?
 カカシさんの傍を離れることは嫌だったけど、ナツを放っておくこともできなかった。ナツは情報が早い。ガイ先生も知らないことを掴んでいる可能性は高いし、もしそれが今の病状のことなら確かにカカシさんの耳には絶対に入れられないから、急いでサンダルを履いて外に出る。
 ナツはしきりに「極秘なんだ」と言って人目に付かないルートで森の方に向かった。あんまりカカシさんと離れたくないけど、俺はナツの持っている情報が気になって仕方なくて、同じようにコソコソと付いて行く。里の中を抜けてアカデミーの裏を通って、森に入って、そこから更に奥へ。ナツはしきりに「極秘なんだ」「極秘なんだ」って。
 でも、ナツが死の森に入ろうとしたところで流石にオカシイって思った。
「ナツ、何で死の森? て言うか俺、本当にカカシさんと離れるわけにいかない。あの人まだ一人で歩くこともままなら」
 そこで腹に衝撃が走り、意識が遠のく。
 しかし意識を失う僅かな時の中で、俺はとんでもないものを見た。
 俺の腹に拳を埋め、冷ややかに俺を見下ろすナツ。
 俺の知らない忍が四人。
 そしてナツと同じく冷ややかな目で俺を見下ろす――ミズキ。




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