「イルカー、おはよー」
「うん、おはよう」
鞄を置いてどっかりと椅子に腰かけると、両腕を伸ばして机に突っ伏す。
何だか頭も痛いし身体もだるい。今日の授業、何だっけ。ああ、気象の授業だ。これはアズキもコムロウも知らないことだから俺がやんなくちゃいけないな。雲の種類と風と季節、雨が近い時の動物や昆虫の行動も教えないと。
眠い、だるい。でもやんないと。
「イルカ、元気ねぇじゃん。どした?」
ナツがポンと俺の頭に手を置いて訊ねる。ナツは優しい。でも俺、今日は元気ない日なんだ。
「カカシさん帰って来なかった。すぐに戻るねって言ったのに、昨晩呼び出しかかってそのまま」
「ああ、昨晩は色々あったみたいだからな」
得心がいったみたいな声でそう言うから、顔を起こしてナツを見た。俺は何も知らない。俺のところにはまだ何の情報も入ってない。
「何があった? カカシさんは無事か?」
「はたけ上忍のことは分かんねぇけど」
ナツは周囲を見渡し誰も聞いてないことを確認すると、声を潜めて昨晩何があったのか教えてくれた。
まだ公にはなっていないようだが、どうやら昨晩、地下牢から幾人かの罪人が脱獄したらしい。里の結界が回復したとは言えまだまだ外周や死の森への警備は怠れない現状だし、狙われていると噂される火影邸の地下倉庫の件もあるので地下牢の見張りの人員を割かざるを得ない。だからそこを突かれたようだ。
脱獄囚は計五人。異変に気付いた者が慌てて招集をかけ脱獄囚を追ったが、まだ一人も捕まっていない。
「カカシさんは追い忍としても優秀な人だ。カカシさんなら捕まえてくれるはず」
「はたけ上忍のみならず暗部もかなりの人員を割いてこの件を追っているみたいだけど、それでもまだ捕獲情報は入ってない。何か仕掛けがありそうだぜ、これは」
ナツが難しい顔をして腕を組んだ。
俺も同じように腕を組む。
「それにしても、幾ら警備の隙を突かれたからってそんな簡単に脱獄できるわけないだろ? 地下牢は元々外から強固な結界が張ってあるはずだから、まずそれをどうにかしない限り内側からじゃどうにもならない」
「そこだよ。誰か手引きした者がいるとしか思えない。噂されている一部上忍達の不穏分子による可能性もでてきたから、こりゃ下手するとやっかいなことになるぞ。火影邸の地下倉庫の件は今のところはまだ無事みたいだけど、今後どうなることやら。三代目が保管してた禁術、どんくらいあるか知ってるか?」
「保管のお手伝いをした時に見た限りでは、たんまり」
でもあそこは三代目自ら結界を張ってあるから、結界班がこぞって解除しようとしても一週間はかかるんじゃないだろうか。それに不穏分子ってのがどれくらいいるのか分からないけど、地下倉庫の件は中忍のナツも知ってるくらいだからこれから更に警備がきつくなるだろう。そんな所に行ったら一網打尽になると思うんだけど。
それにこの前も思ったけど、そもそもこの里に不穏分子なんているのかな。そりゃ上層部だって意見が割れる時があるのは俺も知ってるし、ダンゾウ様っていう変な人がいることも知ってる。でも、三代目はそのダンゾウ様のことも不穏分子扱いなんてしてなかったと思うけど。各自それぞれ多少なりとも不平不満はあるだろうけど、里の一大事に良からぬことをしでかす忍がこの木ノ葉にいるなんて到底思えない。仮にそういうアホがもしいたとして、もし実際行動を起こしたとしても、やっぱりタイミングがイマイチだ。やるならもっと早くに行動しないとさ、それこそ木ノ葉崩しでまだ里が大混乱してた頃とかに。
「なーんか変だな、全体的に」
ぼんやりと感想を述べるとナツが苦笑する。
「ともかくはたけ上忍はこれから忙しくなるだろう。あの人がしっかり自分の任務に集中できるように、お前もあんま心配かけさせんなよ。お前、今日眠れなかったんだろう? そういうの、駄目だぜ?」
「だな。俺が眠れないとカカシさんも俺のこと気にして任務に集中できなくて、そんで怪我しちゃうかもだもんな。そんでアレだ。怪我からバイキンが入って病気になって大変なことになるかもしれんもんな。馬鹿! ナツ、不吉なこと言うな!」
「はいはい、とにかく今日はぐっすりと寝ろよ?」
そうだ、俺はカカシさんのためにもしっかりしないといけない。だるいとか言ってる場合じゃないんだ。王子様が一生懸命悪の組織と戦ってる時に「だるい」とか「眠い」なんて、もっての他! 今日はビシバシ頑張るぞ。
フンと鼻息を荒くして教室に向かうと、頭の上からラーメンスナックが降って来た。見るとマジックで「イルカ先生の今日のおやつ」って書いてある。うむ、遠慮なく頂こう。諸君、心遣いに感謝するぞ。
「おはよう、みんな!」
「おはようございまーす!」
元気があってよろしい! 子供は風の子元気な子。きのこたけのこ元気な子!
張り切って授業に臨み、気象についてこれでもかというくらい教える。天候を読む力は任務や戦場において必要不可欠だと口が酸っぱくなるくらい言い聞かせ、空の移り変わりだけではなく動物や昆虫の行動にも注目するように、そして常に観察力を磨きなさいと授業を締める。明日はテストをするぞと予告し、「えー!」と非難の声も浴びる。満足だ。
授業が終わると張り切って昼飯を食べ、午後の授業に備えて教材を集めているとヤマブシから式が飛んで来た。何だろうと思って開いて見ると、「リムリム姫のフィギュアが無事かどうか確認してたもう」と書いてあった。アイツはちょっと家から離れるとリムリム姫のフィギュアが心配で堪らなくなっていつも俺にその安否の確認をさせるんだけど、これは奴が真面目に任務を遂行している証拠でもある。よし、帰りに確認しに行ってやろう!
そうして、俺は午後からの授業も張り切ってやるつもりだった。
けれどアスマ兄ィが来て、俺に「カカシさんがやられた」って言った。
心臓が止まるかと思ったし、足元から崩れていくかと思った。カカシさんが不穏分子みたいなワケの分からない輩にやられるわけないのに、カカシさんだって「俺は強いよ」って言ってたのに、目の前が真っ暗になってカカシさんに万一のことがあればこの場で死んでしまおうって本気で思った。だって俺はカカシさんがいないと生きていけないんだ。カカシさんがいないと。
ぶわりと涙が込み上げてきて次から次へと零れ落ちた。覚悟を決めて拳を握り締め、アスマ兄ィの次の言葉を待つと、アスマ兄ィは俺の頭に手を置いて「カカシの命は無事だ」って教えてくれた。けれど、「すぐにアイツん家に戻ってくれ」とも。
すぐさまカカシさんのマンションに戻った。これでもかって言うくらいの勢いで走ってドアを開けると、ガイ先生や紅先生がそこにいて、カカシさんはベッドで眠っていた。アスマ兄ィの言うように命に別状がないのは明らかで、大した怪我も負っていないように見えた。それなのに、カカシさんは俺が呼んでも起きてくれなかった。
心臓が物凄い音を立てて鳴りだして悪い予感にうち震える俺に、ガイ先生が事の顛末を語ってくれた。
カカシさんに酷いことをしたのは里の不穏分子じゃなくって「うちはイタチ」と「肌が変な色の男」らしい。そして「うちはイタチ」の方が俺のカカシさんに精神攻撃をしたのだそうだ。そんで、カカシさんはガイ先生が来るまでは何とか立っていたけれど、ガイ先生が登場すると「ガイ、我がライヴァルのお前が来たのなら勝ったも同然。あとは任せた。頼んだぜ我がライヴァル」って言って気を失ったのだそうだ。そんでそんで、ガイ先生は「肌が変な色の男」に正義のキックをかましてやった。のだそうだ。
一部台詞に納得できない箇所もあるけれど、とにかくガイ先生はそう教えてくれた。あと「精神攻撃は受けたようだが、へたばっているだけだから休ませておけば問題ない」とも教えてくれた。とにかく安静にさせることが一番だと。
安静にさせるために、俺は即座にガイ先生を部屋から追い出した。あの人がいると安静もクソもないし、実際に事の顛末を語ってくれている時も部屋の中でキックをパンチを繰り出していたのだ。ガイ先生は今のカカシさんから最も遠ざけたい人物ナンバーワンだから、これからもガイ先生がここに近付かないように見張っていないといけない。
それからアスマ兄ィと紅先生をリビングの方におびき寄せ、騒がないようにお茶を五杯くらい出して丁重にもてなした。カカシさんのことは他人に任せるつもりはないから一から千まで全部俺がやりますと断言し、その場でアカデミーにも休職願いを書いて式で飛ばした。七杯目のお茶を出した時にアスマ兄ィが帰ると言いだしたので、物音を立てないよう瞬身を使って帰って欲しいと言った。アスマ兄ィも紅先生も、ちゃんと瞬身を使って帰ってくれた。
誰もいなくなると俺は寝室に戻り、声を殺して泣いた。
俺はカカシさんが好き。大好き。
カカシさんのいない生活には戻れない。カカシさんが死んだら俺も死ぬ。
でも、生きていてくれた。精神攻撃ってのがどんなものか分からないけど、安静にしてれば大丈夫だってガイ先生は言ってた。その証拠に入院してないし医療班も来てない。だから本当に大丈夫なんだ。
カカシさんは大丈夫。
すぐに元気になって、また「イルカ、イルカ」ってたくさん名前を呼んでくれる。いい子いい子ってたくさん頭を撫でてくれる。「キスー! キスー!」って強請れば数えきれないキスをしてくれるし、夜になればいっぱい愛してくれるし、一緒にお風呂も入ってくれる。そうなるに決まってるんだ。
カカシさんは大丈夫。強い人だし、優しいし、最高だし、俺の運命の王子様なんだから。
アスマ兄ィに聞いた時は死んじゃおうって思うくらい怖かったけど、今は安心してる。なのに涙は止まらなくって、鼻を啜ったらカカシさんの「安静」の邪魔だから涙も鼻水も垂れ流し状態のままで泣いた。触りたいけど「安静」の邪魔になるからこれも駄目。キスも我慢、好きって囁くのも我慢。
念の為にベッドの周囲に結界を張り、部屋から出ると寝室自体にも結界を張った。それでも安心できなくて、家の中では物音を立てないように精一杯気を使うことにした。ごはんは外で、お風呂は銭湯、寝る時は居間、洗濯機を回す時もトイレを使う時は結界。カカシさんの部屋は結界だらけになったけど、カカシさんの「安静」のためなのだ。
翌日にガイ先生がお見舞いに来てくれたけど、速攻で追い返した。他の上忍の人もチラホラと見舞いにやって来たけど、俺は如何に「安静」が大切なのかを説いてカカシさんには会わせなかった。ナツも来てくれたけど、カルピスを五杯出してやっぱり帰ってもらった。
でもこれだけ「安静」を守っているのに、カカシさんはその日も目を覚ましてくれなかった。
うみのイルカよ、怖くないぞ、怖くない。
俺はカカシさんのベッド脇にしゃがみこみ、必死で自分にそう言い聞かせる。俺は今、自分ができることを一生懸命やれば良いだけなんだ。カカシさんのために静かで安心できる空間を作ることだけに専念すれば良いんだ。そうすればきっとカカシさんは目を覚ましてくれる。目を覚まして「イルカ」って呼んでくれる。ニコって優しく微笑んでくれて、なでなでしてくれるんだ。
触りたいな。キスしたいな。いや、駄目駄目!
ブンブンと頭を降って立ち上がり、リビングに戻る。でも居ても経ってもいられなくて、何とかカカシさんのためになることがしたくって、俺はその場で座禅を組んで天の父ちゃんと母ちゃん、それに三代目に祈りを捧げることにした。どうかカカシさんの意識が戻りますように、目が覚めますように。
俺はカカシさんが大好きなんです。だから、お願いです。