朝から多忙を極めた日だった。
カカシは夜更かしをしたのかなかなか起きなかったし、今日から体術強化週間で授業が始まる前に校庭で生徒達を指導しなくてはならないことをすっかり忘れていたし、大慌てでアカミデーに行き生徒達と汗を流していると途中で一人の女の子が貧血を起こして倒れたのでその面倒を見なくてはならなかった。
その上午前中の授業で使うはずの巻物は悪戯小僧三人組に盗まれるし、休み時間中に犬猿の仲だった二人の生徒が派手な喧嘩をしでかして教室を滅茶苦茶にした。更にはその二人の父兄が昼の職員会議中に乗り込んで来るし、午後は午後で体力作りの一環としてアカデミーから火影岩を往復させている最中にある女の子が初潮を迎えてしまった。
当然その子も月経の知識はあった。だが実際に自分の体内から痛みもなく血が流れているのを見てその子は激しく動揺してしまった。しかも校外、男子もいる。細い階段の上で逃げ場もない。くノ一のスズメ先生もいない。
泣きだしたその子のフォローには細心の注意を払う必要があった。非常にデリケートなことであったし、イルカは教師であったが男だからだ。感じやすい心を持つ思春期の女の子にとって、それはとても恥ずかしいことであったに違いない。
女の子を抱えてアカデミーに帰り医務室の女性養護教諭にその後のケアを任せて火影岩に戻ると、幾人かの生徒達の姿が見当たらない。イルカがアカデミーに戻ったのを良いことに授業を抜け出したのだ。見つけ出して説教を喰らわせて、やっと今日の授業が終わったと思えば次は受付業務がイルカを待っていた。
事務方の手違いが何故か三つも重なった。イラつく外回りの忍に頭を下げ、イルカは奔走した。書類を捲り訂正し、それに関係する全ての書類にも目を通し、火影に確認を取る。
雑用も多かった。何かと頻繁に頼まれる。あれをしてくれ、これをしてくれ、おいイルカ、あれどこだったっけ。
そんなこんなで走り回り疲労困憊して一日の業務を終えると、受付にカカシが迎えに来ていた。
「今日は疲れました。もうクタクタです。動きたくないくらいです」
ビールを飲みながら泣きごとを言うと、カカシがよしよしとイルカの頭を撫でてくれる。
「すっごくヘトヘトなんです。明日も仕事あるのにヘトヘトのヘットヘトです」
「どれくらい?」
「風呂好きの俺が風呂に入りたくないくらいです。頭が回りません。おいイルカ、急いでこれを砂隠れの里に届けてくれないかって綱手様に言われて休憩なしで砂隠れの里まで行って、ああそういや大事な授業があるんだって思い出して休憩なしで木ノ葉に戻ってみたら、ああイルカごめん、書簡間違えてた。こっちだった。すまんがもう一度行ってくれって言われてぎゃーー!ってなちゃった時くらいです」
「そりゃもの凄い疲れ方だね」
カカシが同情しつつ、綱手に対して少し呆れイルカにそんなことをさせたのかと少し腹も立て、それでも込み上げてくる可笑しさをかみ殺していると、イルカが手を上げて店員を呼んだ。
「つくねと、げそから揚げ。できたらレモン多めで。あとビール追加お願いします」
どこかやけくそ気味に注文する隣でカカシもお品書きを手に取る。
「それと、茄子と豚肉の味噌炒め。豆腐とトマトのスープも」
「あ、それ俺も」
「俺の分けてあげる」
一個で良いよと店員に告げ、カカシはお品書きを戻して箸を手にする。それからイルカが注文した厚揚げとキャベツのピリ辛炒めを一口貰った。
忍がよく使う店のようで、いつ来ても店内に知った顔が多い。忍に曜日は関係ないが、それでも金曜の夜だからかもう遅い時間帯だったがまだ混み合っていた。そこかしこで爆笑する声や罵声が湧き上がる。少し騒がしすぎるくらいだったが、この居酒屋はどの料理もそこそこ美味かった。
「カカシさんは今日、何か楽しいことありました?」
すぐに来たビールを疲れからか既に程好く酔い始めたイルカのグラスに注いでいると、いつもの質問がやってきた。
「そーだね。今日は特になかったよ。任務もただの運搬だったし、一緒に行った中忍二人は妙に無口だったし。ああそうだ、猫を見た。変な猫」
「どんなです? 俺、猫好きです。カカシさんみたいで!」
疲労に浸かっていたイルカの目が急に輝きだしたので、カカシは内心ほっとした。アカデミーに迎えに行った時からイルカは今日の疲れを如実にその瞳に現していたので。
「俺は忍犬使いだよ。どっちかって言うと犬じゃないの?」
「美しさとしなやかさで見ると断然猫です。犬ってちょっと硬いじゃないですか。ムキムキだし。細い犬も結構ムキムキだし。フサフサの犬も触ってみるとやっぱムキムキだし。そう思うとやっぱりカカシさんは猫です。強靭な肉体を持っていながら、こう、しなやかさがある。こう、ほら、しなやか。分かります? しなやか」
「分かった分かった。ムキムキとしなやかは分かったよ」
「カカシさんって本当に綺麗で猫みたいです。膝枕してる時も、犬の甘え方じゃなくて猫の甘え方だなぁ。そんで、変な猫ってなんです?」
「ん、あのね」
カカシは今日見た猫の話をした。
道端で見た猫の話を。
大した話ではない。行きに一匹の黒猫を見かけた。左足を怪我しているようで、その足をぐいと曲げてなるべく地に着けないように残り三本の足でヒョコヒョコ歩いていた。丁度休憩を入れようかと思っていたところだったし、同行していた中忍の一人が動物好きだったらしく猫の治療を申し出てきたので、カカシはそれを許可して一同は暫く休憩に入った。
カカシは忍犬使いなので、どうしても犬の匂いが染みついている。忍として出来るだけ匂いは消しているから一般の人間には分からないだろうが、動物達の鼻はしっかりとカカシの身体から犬の匂いを嗅ぎ取る。だからカカシは黒猫には近付かず少し離れた場所にいた。一切鳴き声を聞かなかったので、とても大人しい猫だったようだ。
休憩が終わり移動を再開させて目的の商家まで行くと、そこの主人に茶を勧められた。チョコチョコと木ノ葉に仕事を回すその主人は気心の知れた相手だったし時間のロスもなかったので、カカシと中忍二人は好意に甘えることにした。
縁側で茶を啜っていると、その商家が飼っているらしいトラ猫が現れた。左足に怪我を負っているようで、三本の足でヒョコヒョコと歩いている。
動物好きらしい中忍がトラ猫を膝に乗せて怪我の様子を見た。だがすぐに解放する。「手当しないの?」とカカシが訊ねると、その中忍は「あの子、どこにも怪我してませんでした」と答えた。
帰りも問題はなかった。木ノ葉の里に着きあとはカカシが報告書を提出するだけだったので、阿吽の門で解散した。「お疲れ」とカカシが声を掛けると、中忍二人は軽く頭を下げた。
その時、真っ白な猫がやって来た。左足をグイと曲げそれが地に着かないように三本の足でヒョコヒョコと歩いている、真っ白い猫が。
思わず三人で顔を見合わせた。そしてやはり動物好きの中忍が、その白猫に近付き足を見た。そして「この子も、どこにも怪我してないなぁ」と、首を傾げてそう呟いた。
「つまり、今日は猫の世界で何か特殊な日だったんですね」
カカシが話をしている間に運ばれた料理を突きながら、イルカがそう総括する。
「例えば?」
「三本足で歩こう記念日」
「どんな記念日よ。意味も目的も分からないよ」
笑いながら突っ込むと店員が注文したスープを持って来た。カカシは添えられたレンゲを手にしてそれを掬い口を付ける。
「人間には分からない、ふかーい意味があるんですよ。俺達人間の祝日も猫にしてみれば意味も目的も分からないものだと思いますし」
適当なことを言いながらイルカは茄子と豚肉の味噌炒めに箸を伸ばす。そして、子供の頃に飼っていた猫のことを思い出した。グレーの毛並と濃紺の瞳を持った、非常に美しい猫だった。母と自分にはよく懐いていたが何故か父のことは大して好きではないようで、家族の中でそれがよく話題になった。大人しく利口で、時折人語を解しているかのような行動を取った。そう言えばその猫も、何故かたまに怪我もしていないのに片足を上げてヒョコヒョコ歩く時があった。
「俺が昔飼っていた猫もね」
ぼんやりとそんなことを思い出した後、イルカは語り出す。
話題はイルカが飼っていた猫の話から次にカカシが初めて飼った忍犬に移り、最後は任務で見かけた珍しい動物の話になった。動物好きなイルカは夢中になってカカシと会話を続けた。
話が盛り上がったからかイルカにしては珍しく酒を飲むピッチが早く、疲れもあって帰る頃には足元がふらつくくらいになった。帰りがけに何か忘れているような気がしたがそれが何か思い出せなかったし、疲労と酔いで眠かった。
「動きたくないくらいクタクタだって言ってたよね」
店から出て目元をコシコシ擦っていると、カカシがニヤリと笑ってイルカの顔を覗き込む。
「あー、でも楽しかったからちょっと復活し――え?」
言い切る前にカカシに抱えられ、瞬きした瞬間にはもう屋根の上にいた。
「ちょ、ちょっと下ろし……」
「ダーメ。お疲れのイルカはじっとしてなさいよ」
カカシはイルカを抱えたまま屋根を伝いアパートへ向かった。