第三章 五月二十八日・二十九日

 遠巻きに見物していた子が一人、妙にもじもじしながら自分を見詰めているのにイルカは気付いた。
「じゃあ各自練習開始。忍具を使っているんだ。絶対に人に向かって投げてはいけないし、ふざけてもいけない。分かってるな?」
 実演を終わらせるとイルカは生徒達と向かい合い、念を押すようにそう問う。アカデミーの教師ならみなそうであるように、イルカもまた忍具を扱う授業では笑顔を消すのが常だった。和やかに行っても良い類の授業ではないし、子供は何より大人の表情に敏感だ。無用にリラックスされても困る。かといって必要以上に緊張されても訓練にならないのだが、そこは忍の卵。イルカが望む表情でみな頷いてくれた。
「では偶数班から開始。奇数班は後ろに下がって」
 イルカの声に従い、子供達が動きだす。奇数班は指示通り後ろに下がり、偶数班は忍具入れの中から手裏剣を手にして指定位置に着いた。そして、ヒュンと音を立てて的となる丸太に手裏剣を投げだす。
 無駄口は叩かないが、時折「失敗した」だの「やった!」だのと小さな声は聞こえた。どの子の表情も真剣で、良い具合に集中しているようだ。そもそも生徒達は教室で知識を詰め込むよりも、外で行う実践的な授業の方を好むことが多い。体術に関しては好き嫌いがあるが、忍具を扱う授業はどの子も夢中になってやる。
 イルカは子供達に目を配りながら、そっと手裏剣を投げている子の中の一人に近付いた。先程イルカが実演している時に遠巻きに見てもじもじしていた子だ。名はツクシ。
「よし。ちょっと手裏剣を置いて、屈伸してごらん」
 的を外したツクシの頭に手を置き、声を柔らかくしてそう言葉を掛けてみる。ツクシはイルカの顔を見ずに頷き、少し強張った表情で屈伸を始めた。
「もっとゆっくり、ちゃんと足の筋肉を意識するんだ。うん、足の裏の筋が伸びるのを、一回一回確認。良いぞ、次は肩を回そう。大きく、ゆっくりだぞ? じゃあ今度は背伸び。うーーーんと、ぎゅーーっと背伸びだ」
 イルカは声を掛けながら、両手を上げて背伸びをしているツクシの手を上に引っ張ってやる。クスリとツクシが笑った。
「よし、じゃあ手裏剣を持って。大丈夫、習った通りに持てば大丈夫。的を見て。よーーく見るんだ。的だけを見て、じゃあ投げろ」
 ヒュンっと、音を立てて手裏剣が放たれる。
 だが、また的から外れた。
「大丈夫大丈夫。何度でも挑戦するんだ。何度でも」
 イルカの励ましにツクシが頷く。そして何度でも挑戦する。
 ツクシは去年の卒業試験に落ちている。理由は忍具の扱いがまだ不慣れなことにあった。忍術が多少不得意でも、体術が多少不得意でも、忍としての知識が多少足りなくても卒業試験に合格することはある。だが、忍具は別だ。忍具の扱いは忍として生きて行くための最低条件に当たるからだ。
 余程体術に自信がある者以外、忍は接近戦になることは稀である。多くの戦闘は忍具を使って距離を保ち、術をぶつけ合うことがほとんどだ。それ故忍具の扱いは基本中の基本になる。落ちこぼれだったナルトですら、忍具はそれなりに扱えていた。
 仮に不得意な忍具の扱いを補う特殊な能力をツクシが持っていたとしても、やはり卒業させるのは難しい。忍の任務の多くは単独ではなく複数で行うからだ。忍具の扱いが悪いということは、戦闘時のサポートができないということになる。サポートすらできない人間と組みたがる者はいない。
「また肩に力が入りだしたぞ。もう一度屈伸から。一回全部リセットしよう」
 ツクシは見守るイルカの言葉に素直に従う。
 生まれ持ったセンスが問われる忍術とは違い、忍具は努力が全てだ。去年落第した理由が忍具の扱いにあると自覚しているツクシも、それは分かっている。分かっているから努力している。しかし上手く出来ない。
 理由は分かっていた。ツクシは幼い頃、父親の手裏剣を勝手に持ち出して遊び手を切ったことがあるのだ。すぐに気付いた母親と腕の良い医療忍のおかげで後遺症はないが、手の平をぐっさりと切り骨まで見えたその光景がツクシに忍具に対する恐怖心を植え付けた。それが未だに抜けきらないので、忍具、特に手裏剣を扱う時に不要な力が入ってしまうのだ。
「あ、惜しい」
「うん。今は惜しかった。掠ったな」
 イルカはツクシに声を掛けながら他の生徒達の様子も見る。
 どの子も真剣で、汗をかいて訓練に没頭していた。


「で、今日はその子、的に当てることができたの?」
 イルカの膝に頭を乗せて髪を撫でて貰い、気持ち良さそうに目を閉じていたカカシがそう訊ねた。
「掠ったんですけどね。当てることはできませんでした。でも掠ったんですよ、ちゃんと」
「クナイは?」
「そこそこ当たるんです」
「不思議だねぇ」
 のんびりとした声でそう感想を漏らすカカシを見て、イルカは小さく苦笑した。
 きっと六歳で中忍となったカカシには、手裏剣を投げても的に当たらないなんてことは想像もできないだろう。気付いた頃には忍具はカカシの一部となっていただろうし、その頃から思う箇所に思うように忍具を放つこともできたはずだ。チャクラを練るコツを覚える苦労すらきっと知らない。
 特別な教育を受けていたという話を聞いたことはないが、実際にサクモの育て方は特殊だったのだろうとイルカは思う。どれだけセンスがあろうと、どれだけそういう時代だったのだと言われようと、六歳で中忍はあまりにも異常すぎる。何の努力もせずまるで呼吸をするようにチャクラを練れる子も極稀にいるにはいるのだが、チャクラを練ることと術を発動することはレベルが違う。それをカカシはやってのけていたのだ。六歳の時に。
 木ノ葉隠れきっての天才忍者。
 そのカカシに、ツクシの苦労は一生分からないだろう。
「カカシさんの方では、今日は何かありました?」
 どれほどの天才でも、イルカの膝枕で寛ぐカカシはイルカにとってただの最愛の恋人だ。深く激しい愛情をイルカだけに注ぐ、愛しい人だ。
「んー。昨日、イルカは誕生日だったのに他人とラーメン食べに行ってた」
「わー。酷い人ですねーイルカって人は。カカシさんを放ったらかしにするなんて信じられないー」
 棒読み状態でさらっとそう答えるイルカに、カカシは少しだけ口を尖らせて甘えるようにイルカの膝に頬を擦り寄せる。
「でも写輪眼のカカシはキス五回で許すって言ってるらしーよ」
「わー、昨日より回数増えてるなー」
 クスクスと笑いながらイルカは屈み込んでカカシに口付けをする。ちゅっちゅとわざと音を立て、カカシの鼻先、髪、手の指、唇に二回。たっぷりの愛情を込めて口付けをする。
 イルカはカカシが昨日の件に関し、本当はそれほど拗ねていないことを知っていた。カカシは拗ねるともっと捻くれるし、自らの感情を制御できない苛立ちをぶつけるかのように、もしくは身の内で湧きあがる不安を払拭するかのようにイルカの身体を求める。
 今はただ、口付けを強請る口実ができたのでそれを思う存分活用しているだけなのだ。
「で、今日は何かありました?」
 大人しく満足気にイルカのキスを受けていたカカシに再度問うと、カカシは全身に力を込めて大きく背伸びをした後、くたっと身体を弛緩させた。
「特にこれといったことは。ああ、ゲンマがあまりに暇そうだったから任務に連れて行ったよ。んで、同じく暇そうにしてたライドウをゲンマが勝手に誘って、今日は何てことないBランク任務だったからあっという間に終わっちゃって。戻ってもどうせすることないから、だらだらと歩いて帰って来た」
「平和なヒトコマですねぇ」
 カカシの髪を撫でながらイルカが感想を漏らす。
 いつどんな任務が下されるのか分からないので、本来は任務完了後すみやかに帰還すべしと言われている。だがたまには羽を伸ばしても良いとイルカは思っていた。ただでさえカカシは危険な任務を請け負うことが多い。のんびりできる時はのんびりして欲しい。
「で、ゲンマが女の話を初めてね。どんなシチュエーションが一番燃えるのか、とかそんな話をしてたなぁ。どんなふうに女を落とすと達成感があるか、とか」
「ちょっと……カカシさんは余計なこと言ってないでしょうね」
「言ってなーいよ。ただ俺が入院してた時に口でしてくれた時は……」
「ぎゃああ! 何言ってんですかアンタッ!」
 膝の上のカカシに思いっきり拳を振り下ろし、羞恥に真っ赤になりながら憤慨したイルカがカカシの頭をそのまま畳の上へと突き落とす。
「なにすんの!」
「カカシさんが変なこと他人に言うからです!」
「変なことじゃないじゃないの! 余計なことも言ってないし。ただ、燃えるシチュエーションの話になったから、イルカの場合はこうだよって」
「それが余計なことなんです!」
 バシバシとカカシの胸を叩きそっぽを向くイルカに、カカシは「でもイルカがどんなふうに焦らされると悦ぶのかとか、そんな話はしてないよ」と、また余計なことを口にしたが、ギロリとイルカに睨まれてわざとらしく口を手で押さえた。  膝から落とされたカカシがもぞもぞとイルカの膝頭を指で引っ掻き、構って欲しいことをアピールする。イルカは顔を赤くしたまま卓袱台の上に持ち帰りの仕事を広げ、カカシを無視し続ける。
「イルカ。イルカ。……ねぇイルカ。イーールカ」
 怒っている恋人の名を唄うように呼んでも返事がないので、カカシは片肘を突いて自らもう一度イルカの膝に頭を乗せた。イルカはまだ怒っているようだったが、カカシを突き落とすこともしなかった。
「もう訊いてくれないの? 今日は何があったか、いつもみたいにもっと訊いてよ」
 イルカの腰に腕を回しぎゅっと力を込めてみると、イルカの表情が少し和らぐ。
「じゃあ、話して下さい。今日は何か面白いことありました?」
「あのねー。ゲンマって、くノ一と寝る時に服を脱がせながらそのくノ一の装備をチェックするのが好きなんだって。ほら、くノ一の装備って結構多彩じゃない? 千本に塗り込んでる毒の種類も豊富だし」
「それのどこが面白い話なんですか」
 呆れたような声を出し、イルカは膝の上の恋人にコツンと軽い拳骨を落とした。

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