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漸く眠りに落ちた恋人の黒髪を撫でながら、カカシは小さく息を吐いて肩から力を抜いた。
深い夜の森で元生徒と対峙した日から恋人は深く悲しみに沈み、その痛々しさと寝食もろくに取らず衰弱していく様をカカシはずっと憂いていたのだ。
イルカは、アカデミーで子供たちに囲まれている間は問題ないが、一人になるとすぐに目頭を押さえる。蹲る。手や腕で顔を覆って俯く。帰宅後はもっと酷くて、部屋の隅で膝を抱え小さくなって動かない。言葉も発しない。そして声も出さずとても静かに、本当に静かに身体を震わせて涙を流し、泣き疲れて眠るまで部屋の隅でずっとそうしているのだ。
今日もずっとイルカは泣いていた。一人、声も出さずに。
それでもいつもよりは随分マシだった。酷い嫌悪感を露わにしカカシを拒絶していたイルカが、やっと触れることを許してくれたのだ。
カカシは大切にイルカを抱え、ベッドまで運んで腕の中に閉じ込めた。そしてただただ涙を流し続けるイルカを抱き締めて飽きることなくその黒髪を撫でた。
――あの夜。
いくらイルカが泣き喚いてもカカシは最後まで結界と金縛りの術を解かなかった。
寂然を描いた絵画のような月夜の森にイルカの引き裂かれるような叫びだけが響き渡るそれは、カカシにとってひとつの悪夢に他ならなかった。だがそれでもカカシは術を解かず、また二人の対峙を強制的に終了させてアオイを連行することもしなかった。
数年前のあの日、アオイを決定的に殺してしまった一端が自分にあったと分かった以上、カカシはカカシでアオイを救いたいと思ったから。
そしてそれには、イルカがどうしても必要だと分かっていたから。
イルカに激しい愛情を抱きイルカを求めて続けていたアオイは、同じくらい激しい憎悪を抱えていた。この子を抱き締めなくてはならないんだと声を限りに叫んでいたイルカの気持ちは痛いほど分かるが、術を解けば間違いなくイルカは殺されていただろう。
結果イルカは結界を拳で叩きながら泣き叫ぶことしかできなかった。イルカはカカシを心底憎んだに違いない。そして耳を塞ぎたくなるようなイルカの声は一生カカシの心から離れないだろう。
だがそれでも、カカシは絶叫するイルカの声をアオイに聞かせたかった。
お前を想い魂を引き千切るほどの声を出して泣き喚く人間が確かにいるのだと、分からせてやりたかった。
満たされなかったアオイは昔のカカシのようだったから。
イルカの心を犠牲にしても分かってもらいたかった。
カカシやイルカ、他の生徒や他の里の者が満ちて行く中、ただひとり。
ただひとり、満たされなかったアオイを想って。
「カカシさん」
泣き腫らした瞼を開けて、イルカが小さな声で呼んだ。
カカシは返事をする代わりに髪を撫でていた手をその頬に滑らせ、親指の腹で優しく眼尻を撫でた。
「あのね、カカシさん」
あの夜から一切の笑顔を失くしていたイルカの唇が、そっと綻ぶ。
おずおずとイルカの腕がカカシの首に回され、コツンと額が合わせられた。
黒い瞳には穏やかな光が蘇り、イルカはとても幸せそうな笑みを浮かべて言う。
今、夢を見たよ。素晴らしい夢。とても幸福な夢。
聞いて? カカシさん聞いて?
今ね。あのね、今ね。
俺はアカデミーの廊下を息を切らして駆けて行き、教室の前で立ち止まるんだ。それから一度だけ大きく深呼吸してね、扉に手をかけ――…。
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