僕は多くをのぞんでいなかったんだ。
本当だよ。手をつないで散歩をすること、いっしょに昼寝をしたりいっしょにお風呂にはいったり、眠れない夜にお母さんとお父さんのお布団に入れてもらったり、誉めてもらったり撫でてもらったり抱きしめてもらったりすること。そういったことなんて僕はのぞまなかったよ。
僕はお母さんとお父さんの前でだって、ちゃんといいこでいたんだ。わがままなんて言ったことないし、なにかモノをねだったこともなかった。言い付けはちゃんと守っていたし、お父さんに恥をかかせないように勉強もした。お母さんとお父さんが怒るから家ではできるだけ声をださなかったし、言い付けを守ってぶたれても泣かなかった。
僕はがまんした。
いっぱいがまんした。
お父さんのお仕事がうまくいかなくて、いらいらして僕をぶったっていい。お母さんが僕にはよく分からない理由で僕をぶったっていい。お母さんもお父さんも人間なんだからきっといろいろ苦しいんだって思って、僕は子供だからその理由が分からないだけなんだって思って、がまんした。だってお母さんもお父さんもきっとすごく苦しいから僕をぶつんだって思ったんだ。だから怖くたって痛くたって熱くたってがまんしたんだ。
ただ、僕はおはなしをしたかった。
僕がのぞんだのは、たったそれだけなんだよ。
お母さんとおはなししたかった。お父さんとおはなししたかった。二人がなにを考えていたのかはなしてほしかったし、僕が毎日どんなせいかつを送っているのか聞いてほしかった。黒羽のことだってイルカせんせいのことだって、聞いてほしかった。川の土手にふきのとうを見たことや、アカデミーのツツジがどんなにきれいだったか、友達におしえてもらった歌、ミキがかいた教科書のらくがき、黒羽のオムレツ、ぜんぶ聞いてほしかった。
でも僕は家では声をだしたらだめなんだ。
僕はそこにいないふうにしないとだめなんだ。
イルカせんせい、なんでそんな顔するの?
僕はずっとじゃまな子だった。なんでか分からないけど、とにかくいらない子だった。なんでそうなっているのかいろいろ想像してみたけど、いちばんしっくりくるのは、僕はお母さんとお父さんのほんとうの子供じゃないってことだった。たとえば病院でどこかの子供と僕がすりかえられて、お母さんとお父さんはそれに気付いていて自分たちのほんとうの子供を探しているとか、僕は黒羽みたいに孤児で、お母さんとお父さんが引き取ってくれたけどやっぱり僕を気に入らなくてもう捨てたいとか。
とにかくあの日の前日も、僕はいっぱいぶたれた。理由はよく分からないんだ。いつも、理由はよく分からない。
でも僕はちゃんとがまんした。声も出さなかったし泣かなかったし、もちろん抵抗だってしなかった。たくさん痛いことをされてもちゃんとがまんした。お父さんが眠ると、僕は自分ががまんできたことに満足した。
イルカせんせい。
僕はあの日、とても楽しかったよ。
前の日にお父さんに折檻されてもちゃんとがまんできたし、天気も良かったし、それになんだかみんなとても楽しそうだったもの。みんなが楽しいと僕も楽しい。みんながうれしいと僕もうれしい。だからとってもいい時間を過ごしていたよ。
イルカせんせいもみんなといっしょに歌を歌ったよね。なんの歌を歌ったかおぼえてる? 僕はぜんぶおぼえてるよ。あと、おべんとうの時に僕とおかずの交換をしたんだけど、それはどう? 覚えてる? イルカせんせいは梅のおにぎりをくれたし、僕は商店街の惣菜屋さんで買ったコロッケ弁当のコロッケをあげたよ。いちばん大きいのをあげたよ。ここのコロッケ美味しいよなってイルカせんせいは言ってくれたんだよ。
ああ、楽しかったなぁ。
すっごく幸せな気分だったなぁ。
……でもさ、午後の薬草つみがはじまってすぐ、聞いてしまったんだ。
僕はその時、自分のなまえと同じテンノシを見つけてみんなから少し離れた場所にいたんだ。それなのに僕はそれが聞こえてしまった。なぜか聞こえてしまった。
大輔が言った。
「【僕たち三人】はずっといっしょにいるしコンビネーションも良いから、アカデミーを卒業したら班を組むことになるだろうって葉ノ紀先生が言ってたよ」
ミキが言った。
「嬉しい。絶対【三人揃って】卒業試験に合格しようね」
黒羽が言った。
「うん、がんばろう」
分かってる分かってる僕にも分かってるし分かってた。アカデミーを卒業したら大抵は上忍師を含んだフォーマンセル、例外があってもスリーマンセル。そう、班は四人構成で上忍師を抜けば生徒は三人。僕たち黒羽隊は四人。黒羽、僕、ミキ、大輔の四人!
誰かが外されることは分かってた。分かってたよ。どうして僕なんだろうなんて、そんなことだって思わなかったよ。大輔が外されたら外されたで僕はかなしいもの。大輔が悲しむから僕もかなしいもの。でもどうしようもない衝撃をうけたんだ。だってそういうことを知るのって、こころの準備っていうものが必要じゃないか。ねぇ、そうでしょう? そんなふいうちみたいに耳にしたら誰だってショックを受けちゃうでしょう?
僕はその場にいたくなくて、走ったよ。
誰ともはなしをしたくない気分だったんだ。そんなことって初めてだったけど、とにかくひとりになって落ち着きってものを取り戻したかったんだ。
でも、走って走ってようやく誰もいない場所まで来れたと思ったら、イルカせんせいがいた。
イルカせんせいは、銀髪の暗部にひどいことをされていた。
ひどいことをされていたのに、よろこんでいた。
僕のイルカせんせいは、僕の【ほんとうのお父さん】になる人だったのに。
それなのに銀髪の暗部に、僕の【ほんとうのお父さん】は奪われた。
ねぇイルカせんせい。
なんでイルカせんせいが泣くの?
イルカせんせいはほんとうは葉ノ紀せんせいが好きなのにって僕は思ったよ。イルカせんせいはずっと葉ノ紀せんせいが好きで、葉ノ紀せんせいとこいびと同士なんだって思いこんでいたからね。
僕は衝動のおもむくまま走りだした。
なんだか頭がガンガンして、何でもいいからとにかく叫び出したい気分だった。銀髪の暗部はてっていてきに僕を痛めつけこっぱみじんにうち砕いて、イルカせんせいを、僕のイルカせんせいを奪ったんだ。僕はまるで、生きているのがふしぎなくらいみじめな敗北者だった。
どこに行けばいいのか分からずにふらふらと森の中をさまよっていると、同じクラスの子がやってきた。そしてやけに嬉しそうな顔をして僕に言った。
「葉ノ紀せんせいが結婚するって知ってる? もう赤ちゃんもいるんだよ」
僕はたずねた。
「相手はイルカせんせいだよね?」
その子は答えた。
「それが、全然違う人だって」
なんでだろう。なんでそんなことが重なっちゃったんだろう。
だって葉ノ紀せんせいは、僕の【ほんとうのお母さん】になる人だったのに。
イルカせんせいも葉ノ紀せんせいも、とっても僕によくしてくれた。可愛がってくれた。イルカせんせいと葉ノ紀せんせいが結婚したら、僕は必ず二人の子供にしてもらえると思ってた。だってあんなに可愛がってくれたじゃない。あんなに僕を慈しんでくれたじゃない。葉ノ紀先生は僕を子供にしてくれるって言ったよ? 僕ちゃんと聞いたもの。葉ノ紀先生は子供にしてくれるって言ったもの。絶対言ったもの!
ねぇイルカせんせい。ほんとうはイルカせんせいと葉ノ紀せんせいは恋人どうしだったんでしょう? ずっとずーーっと前からこいびと同士だったんでしょう? 葉ノ紀せんせいは僕を生んだけど、なにかふくざつなじじょうがあって仕方なく僕を捨てたんでしょう? ねぇ、ちがう?
イルカせんせいと葉ノ紀せんせいは、結婚したら僕を引き取ってくれるつもりでいたんだよね? もしそうじゃなくても、僕を養子にしてくれるつもりだったよね? ねぇ、ちがうの?
イルカせんせい、泣いてないで答えてよ。
……嘘だよ。ごめんね困らせて。
でも何だかそんな風に思い込んでたんだよあの頃は。
それからのことはよく覚えていなくて、気付いた時にはもう病院だった。僕は他の子供たちと同様に色々検査を受けたけど、何も異常はないってことですぐに家に帰ることになった。
で、家に帰るとそこにダンゾウ様がいたんだよね。どういう経緯があったのか知らないけど、お父さんが僕を根に入れようと随分前から動いていたみたい。だって根に入ると家族との関係を断ち切ることが多いじゃない? 寮住まいになるし、お父さんは僕と縁を切って家から追い出したかったんだろうね。
色々複雑な手続きがあったみたいだけど、結局僕は根に入れられた。お父さんは最後にダンゾウ様に言ったよ。
「もしこの子が使い物にならないようだったら、人体実験にでも使ってください」
ああ、そうそう。根に入れるってことはもう二度と子供と会えなくなるって意味でしょう? だから根から子供の親にお金が渡されるって知ってた? 妙にナチュラルに人身売買してるんだなーって思ったよ。僕の値段がいくらだったか知らないけどさ。
とにかく六月七日。あの年の今日は記念日なんだ。両親が僕を根に売った記念日。
僕が自由を獲得した、世界に溢れる記念日の中でも最も素晴らしい記念日。
やっぱり凄いねはたけカカシは。僕、隙を見てイルカ先生殺したいんだけど、こんなにイルカ先生が泣き叫んでるのに結界も術も解かない。
三年前に母を殺した時、二人はもう離婚しててさ、母は再婚してた。どうもね、母は普通に僕が邪魔だったみたい。相手の男がコブつきは嫌だったみたいでさ。そんな理由で僕を虐待してたの。笑っちゃうよね。
で、二年前に父を殺した時に色々調べてみりゃ、こっちはもっとくだらない。僕の父は元々軽蔑すべき人間で、弱い者苛めが大好きだったってオチ。自分の部下も気に入らなきゃ殴る蹴るは日常茶飯事の有名な最低男。
考えてみりゃ植物の知識を買われて特別上忍になっただけのクソッタレで有名な父が、実力で上忍になったエリートの母と結婚したってのも変な話だ。ありゃ絶対恋愛結婚じゃないね。どうせ見栄だけは一人前の父がエリートの嫁欲しさに金でも積んだんだろう。ありありと想像できるや。
ねぇ、イルカせんせい。
この手で全部終わらせてしまうって、ほんとうに駄目なことなの?
毎日毎日痛くて苦しくて、いつもいつもぶたれてぶたれてぶたれて蹴られて悲しくて辛くて泣きたくて、でも涙を流すなんて贅沢は許されていなかった。
絶えることのない一方的な暴力から逃げられなくて逆らえなくて、耳を塞げば殴られ身体を丸めれば酷い言葉が僕を殺した。抵抗することも許されず叫ぶことも許されず避けることも許されず僕はただ毎日のように殺された。
愛されない。僕は愛されていない。僕は母と父から愛してもらえない。
その現実から逃げたくて拒絶したくて必死でもがいたけど、それは毎日僕を捕らえて追い詰め嘲笑うように僕を殺した。
何回何百回何千回僕のこころは死んだんだろう。
何回何百回何千回僕は自分のこころを復活させるために【仕方ない】言い訳を作って母と父を赦しただろう。
ねぇイルカせんせい。
僕は何回死ねば良かったの?
大人がそんなふうに泣くもんじゃないよ。そんな泣き方は小さな子供の泣き方だ。
それになんでイルカせんせいが泣くの?
壁に押し付けられては殴られ、足を掴まれて投げ付けられても呻き声すら上げなかった当時の僕は凄いよね。身体を焼かれて焦がされて喚きたくなっても必死で堪えていたあの頃の自分って一体何だったんだろう。踏みにじられ失神するまで嬲られたって、相手は上忍と特別上忍だからこれみよがしな跡すらついてない。
毎日毎日痛みが麻痺するまで虐げられ惨殺される。
毎日毎日声を殺して涙も流さず僕は死んでいった。
嫌なのに。
痛いのに。
もう止めて欲しいのに!
痛いよ痛いよ当たり前でしょ! 僕だって人間だ訓練用の人形じゃないんだ。痛いに決まってるじゃないか苦しいに決まってるじゃないか! 泣きたいのに許してもらえない。もう痛いの嫌なのに熱いの嫌なのに寒いの嫌なのに苦しいの嫌なのに! じゃあどうすれば良かったの? ねぇどうすれば良かったの? イルカせんせいに、火影様に訴えたらお母さんとお父さんは僕を愛してくれたの? 僕はそれでお母さんとお父さんに必要とされる子になれたの?
なんで? ねぇなんで愛してもらえなかったの? 僕すごくいいこだったのに。ねぇいいこだったよね? 僕はいいこだったよね? ねぇ頷いて。イルカ先生頷いて。
うん、いいこだったよね僕。
じゃあなんでお母さんとお父さんは僕を愛してくれなかったのさ!
止めてよ止めて。そんなふうに泣かないで!
はたけカカシ、いるんだろ! 早くイルカせんせいを泣き止ませてよ!
いいじゃないかイルカ先生には恋人がいるんだから。あの頃から付き合ってたんでしょ? なんで泣くのさ。優しくしてもらえてるんでしょ?
一杯愛してもらえてるんでしょ? 命を懸けて守ってもらえてるんでしょ?
なんでイルカ先生が泣くのさ。
僕には雨に濡れた身体を温めてくれる人もいなかったよ。お母さんもお父さんも僕を痛めつけることが大好きだっただけ。僕を毎日殺して鬱憤を晴らすのが大好きだっただけ。それに僕のほんとうのお母さんとお父さんは、本当は全然ほんとうのお母さんとお父さんじゃなかっただけ。
友達はいたけどもういない。ひとりもいない。なんで僕じゃなかったのかな。なんで大輔だったのかな。なんで僕じゃ駄目だったのかな。大輔は黒羽の兄弟なの? ねぇ、僕と黒羽兄弟なんだよ? なんであそこに僕は入れてもらえなかったの?
それにあの三人は僕の知らない間に僕の知らない人に満たしてもらっているんだ。もう友達じゃない。
そうだよ、三人は満たされたけど僕は満たされることがなかった。
だって何で満たせば良いの?
毎日親に殺されていたこころを、何で満たせば良かったの?
ねぇイルカ先生教えてよ。先生でしょ? 教えてよ。
僕は一体なにでこの身体を満たせば良かったのさ!
もうやめてよ。
そんなふうに泣くのはもうやめてよ。
イルカせんせいは大人でしょ?
子供みたいに声を張り上げて泣くのはやめてよッ!!