最終章 嘆きの森

 イルカせんせい。
 僕はとてもいいこにしていたよ。とてもとてもいいこだったでしょう?
 人にせいじつに接していたし、いつだってやさしい心を忘れなかった。みんなが毎日楽しくすこやかにあればいいなって願っていたし、誰かが痛かったり苦しんでいたら、それを取りのぞくことに心をくだいた。思いやりとかまごころを、僕はいっしょうけんめいみんなに与えていたよ。
 僕はほんとうは、医療忍術を学びたいと思っていた。人が痛かったり苦しい思いをしているのを見るのはとてもつらいから、そういうものをぜんぶ治癒したかったんだ。できたら、どこの里の人間かなんて関係なく治癒したいなって思ってた。いつか五代目みたいな医療忍術のスペシャリストになって、里というわくぐみをこえていろんな人の痛いとか苦しいとかを治癒したいって思っていたんだ。だってお金持ちの人もまずしい人も、敵の忍も味方の忍も、男の人も女の人も、猫も犬もお魚も、みんなみんな痛い時は痛いのだし、苦しい時は苦しいもの。
 僕は世界中にあふれている痛いとか苦しいとかを、取りのぞきたかったんだ。
 たとえこの世界から戦争がなくならなくたって、僕はそれにぜつぼうせずに立ち向かおうと思っていたよ。だって僕が人にとてもとても優しくしたら、きっとその人の心になにかとどくと思うもの。僕がほんとうのまごころを込めて接すれば、きっとなにかたいせつなものがとどくと思うもの。そしたらその人は、僕があげたなにかを手にして他の人に接するでしょ? そうしたらその他の人もそれをうけとって、次の他の人に接して。
 そうやってどんどん僕があたえるほんとうのまごころが広がっていけば、いつかきっとこの世はすばらしい世界になると思ったんだ。どれだけ時間がかかろうと、僕が死んでしまったあとも僕のほんとうのまごころは消えないから、だからいつかこの世はやさしさに満ちるんだって、僕はそう信じていたんだ。
 ねぇイルカせんせい。
 僕はいいこだったよね?
 僕はうそいつわりなく人にやさしくしていたし、いつだってみんなの幸せを願っていた。それに勉強だってちゃんとしてたでしょう? 宿題だって一度も忘れたことなかったでしょう? 困っている子がいたらお手伝いをしてあげてたし、やっかいでめんどうなことも起さなかったよ。だって僕はなによりも調和ってものをたいせつにしていたもの。
 そう言えば、イルカせんせい知ってる?
 僕たちのクラスは、さいしょはあんまりまとまってなかったってこと、葉ノ紀せんせいからきいてる?
 イルカせんせいがアカデミーにやってくる前の年に僕たちはアカデミーに入ったんだけど、そのころってみんなけっこうバラバラだったんだよ。はじめての集団生活にみんなきんちょうしていたのかもしれない。
 そんななかで、僕は黒羽にであった。
 黒羽はさいしょ、あんなに明るいやつじゃなかったんだ。なんでもできるすごいやつだったけど、口数がすくなくて友達がひとりもいなかった。笑うこともなくっていっつもつまらなさそうで、休み時間になると窓の外ばかりみていた。ひねくれた大人みたいって言われてて、みんなからもちょっと敬遠されてるようなやつだったんだ。
 でも僕は、黒羽とまるで運命みたいにひかれあって親しくなった。黒羽は「お前はトクベツだから」だとか「お前にはトクベツに」とか言って、たくさんしんせつにしてくれた。僕たちはどんどん仲良くなって、他のみんなは知らない、黒羽と僕にしか通じない言葉をいっしょにつくったり、黒羽が考え出したとてもおもしろいゲームをしたりしてすごした。
 そのうちに僕は黒羽の家にも遊びに行くようになった。僕はそこに泊まることもあって、そんな時は二人でひとつのお布団にはいってくっついて眠った。黒羽といっしょにおふろにはいって、黒羽といっしょにごはんを食べた。黒羽は僕が食べたいものを、がんばってつくってくれたよ。背がたりないからふみ台に乗って、まだちいさかった手で野菜をきざんだりいためたりしてくれて、でも僕がおいしいって言うまで黒羽はなんだか拗ねたような顔をして自分がつくった料理をながめていたな。自信がない、上手くできないのがくやしいって顔をして。
 あのころの僕たちはまだほんとうに小さな子供だったから、料理なんてうまくできなくてあたりまえだったのに。
 それでね、ある日ね、こがしちゃったオムレツをみながら黒羽が僕に言ったんだ。「アオイ、俺とお前は本当は兄弟なんだ」って。僕はすごくうれしくて、「そうだよ。僕と黒羽は兄弟だよ」って言ってこげちゃったオムレツを食べた。
 僕には黒羽がなにを言いたかったのかわかったんだよ。黒羽は孤児ってことをずっと気にしてた。自分にはお母さんもお父さんもいないことをとても気にしていた。だれにもなにも教えてもらえないままずっとひとりで生きてきて、これからもずっとひとりで生きていかなくちゃならないのに、料理もうまくできない自分に腹をたてていたんだ。とても腹をたてていたし、無力な自分を感じてとても心が痛かったんだ。だから黒羽は僕と兄弟になって、自分をわかちあいたかった。自分のしっぱいも、せいこうも、つまんない気持ちもたのしい気持ちもぜんぶぜんぶ、無性にわかちあいたいって思ったんだよ。
 だから食べたの。僕。
 黒羽のしっぱいは僕のしっぱいだねって言って。
 それはこげていたけれど、世界でいちばんおいしいオムレツだったよ。僕と黒羽が兄弟になったきっかけだったし、黒羽のもどかしさも痛さも、僕のためになにか作ろうって思ってくれたきもちも僕とわかちあいたいってきもちもぜんぶ入った、世界でいちばんおいしいオムレツだった。
 その日の夜、黒羽と僕はひとつのお布団にはいっていろんなはなしをした。僕の家族のはなし、死んでしまった黒羽の家族のはなし、アカデミーのはなし、今まで生きてきて一番うれしかったこと、一番つらかったこと。兄弟だから、なんでもはなした。僕はかくしごとをしなかったし、黒羽もぜんぶおしえてくれた。
 眠る前に、僕の手をぎゅっとにぎって「俺は強くなるよ」って黒羽は言った。だから「僕も強くなる」って答えた。
 もっともっと強くなって、黒羽やいろんな人たちの痛いとか苦しいとかをわかちあいたいと思ったんだ。僕が痛いのに負けていたら、わかちあえないものね。
 その後、僕と黒羽だけの世界にミキが入ってきた。
 イルカ先生知ってる? さいしょ、黒羽とミキは仲がわるかったんだよ。
 親が忍じゃないからって、ミキは少しクラスで浮いた存在だった。じっさいに忍具を見たこともないアカデミー生なんてミキくらいしかいなかったから、そういったことでミキはちょっと仲間はずれにされていたんだ。でもほら、ミキって気がつよいでしょう? だからそんなことにはへこたれなかったけどね。すごい女の子だよ、ミキは。
 まず、ミキは僕にしょっちゅう話しかけてくるようになった。ひまな時なんかに僕のところに来てどうでもいいようなことを言ってくるんだ。僕もミキのことが少し気になっていたから……クラスで浮いていたからね……だから、せいじつにミキの話し相手になったよ。僕はたいてい黒羽といっしょだったから、ミキは黒羽にも話しかけていたけれど、黒羽はミキだけじゃなくて僕以外の子とはあまり話をしたがらなかったから、ミキにもあまり返事とかはしなかった。ミキはそれに怒ってて。ほんとうに、最初はあんまりうまくいってなかったんだよ、あの二人。
 でもこれといった理由もなく、あえていえば時間かなぁ。僕がミキといっしょにいて、黒羽も僕といっしょにいて、三人で時間をすごしているうちに自然と黒羽はミキにこころを開くようになった。
 次に大輔が僕たちの仲間になって、どんどん友達がふえて。
 黒羽はいつのまにかとてもよく笑うようになって、僕たちのリーダーみたいになっていった。
 なにをするにも黒羽がさいしょ。黒羽がすることはおもしろいことばっかりで、みんな黒羽について行く。黒羽はみんなをまとめ、みんなの面倒をよくみた。一度仲間にしちゃうと、みんなのことをすっごくだいじにするんだよ、黒羽は。そんな仲間おもいで頭もよくて僕にせんげんしたとおりどんどん強くなる黒羽を、みんな大好きになった。
 黒羽は僕の誇りだった。
 僕は僕の半身が誇りだった。
 一年たってクラスが黒羽を中心にまとまりだした時、イルカせんせいがやってきた。
 イルカせんせいはせんせいなのに年のはなれた大きなお兄さんみたいだった。とっても気さくでいっつもニコニコしてて、なにかというとすぐに抱っこしてくれたり肩車してくれたり、せんせいたちの中でいちばん僕たちをいっぱい抱きしめてくれるイルカせんせい。危ない授業の時だけ厳しい顔をするけれど、でもそれ以外ではいっつも優しいイルカせんせい。僕たちにからかわれるとうれしそうに笑って、僕たちが悲しいといっしょに悲しんでくれるイルカせんせい。
 みんなみんな、イルカせんせいに夢中になった。
 僕もイルカせんせいに夢中になった。
 ほかのだれよりも夢中になった。
 きっと僕と黒羽しかきづいていなかったと思うけど、あのころのイルカせんせいにはおおきな悩みごとがあった。僕たち生徒の前ではそれをかくしていたけれど、とてもささいな仕草やわずかなひょうじょうの変化がそれを語っていた。その表情のこわばりやかげりの多くは僕たち生徒の前じゃめったにおきなくて、イルカせんせいがほかのせんせいたち、とくに葉ノ紀せんせいといっしょにいる時におこった。
 僕と黒羽は、どうしていいのかわからなかった。だってどうみたって大人のじじょうってやつだったから、僕たちにはイルカせんせいがなにに苦しんでいるのか見当もつかなかったんだもの。
 そんな時、イルカせんせいは葉ノ紀せんせいのことが好きなんじゃないかって、ある日だれかが言った。
 僕と黒羽はそれを聞いて、イルカせんせいが悩んでいる理由はそれなんじゃないかってあたりをつけた。葉ノ紀せんせいは結婚してなかったし、イルカせんせいもしていない。子供だった僕たちはそういった単純な答えによわいから、憶測はすぐに確定にかわった。
 イルカせんせいは葉ノ紀せんせいが好きで、だから悩んでいる。
 そう決めつけて、僕たちはひとあんしんした。だって葉ノ紀せんせいはとてもいい人だから、僕たちのイルカせんせいを好きになるに決まっているもの。好きにならないわけがない。イルカせんせいは、僕たちのイルカせんせいは、誰よりも優しいもの。
 イルカせんせいが苦しんでいる理由が分かると、僕と黒羽はいっしょうけんめい二人をくっつけようとした。イルカせんせいと遊んでいる時に葉ノ紀せんせいを呼んで近付けてみたり、二人がおはなししやすいように工夫してみたり、二人の距離がちょっとでもちぢめばいいと思っていろいろがんばった。葉ノ紀せんせいにイルカせんせいのいいところをいっぱい教えたりもしたんだよ? でもイルカせんせいの苦しみが減ることはなかったし、どうしてか葉ノ紀せんせいにあまり近寄らないようにしているみたいだった。
 僕と黒羽はさくせんかいぎを開き、女の子であるミキに意見をもとめることにした。ミキは僕たちのはなしを聞いてちょっとびっくりして、それから「大人のれんあいに、子供が口出ししちゃだめだよ」って言った。僕と黒羽はそれもそうだなと思って、イルカせんせいを影からおうえんする方針に変えた。
 イルカせんせいが痛そうな時とか、苦しそうな時にいっしょにいてあげるの。僕たちはまだれんあいが分からないから、同じきもちになるのはむずかしい。でもとにかくいっしょにいて、イルカせんせいに元気を分けてあげるの。僕たちをいっぱい抱きしめてくれるイルカせんせいを、僕たちが抱きしめてあげるの。
 そのうちにイルカ先生と葉ノ紀先生はこいびと同士だってうわさが流れた。僕たちはとっても喜んだけど、イルカせんせいはまだ苦しそうだった。僕と黒羽には大人のことが分からない。でもやれることはやろうねって約束して、けんめいにイルカせんせいに尽くした。イルカせんせいを元気づけた。
 ねぇイルカせんせい。
 僕たち、そうしていたでしょう?
 僕も黒羽も、いいこだったでしょう?
 ほんとうにほんとうに、いいこだったでしょう?
 それなのに家にかえると僕はぶたれる。
 



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